神保慶政
映画監督
1986年生まれ。東京都出身。上智大学卒業後、秘境専門旅行会社に就職し、 主にチベット文化圏や南アジアを担当。 海外と日本を往復する生活を送った後、映画製作を学び、2013年からフリーランスの映画監督として活動を開始。大阪市からの助成をもとに監督した初長編「僕はもうすぐ十一歳になる。」は2014年に劇場公開され、国内主要都市や海外の映画祭でも好評を得る。また、この映画がきっかけで2014年度第55回日本映画監督協会新人賞にノミネートされる。2016年、第一子の誕生を機に福岡に転居。アジアに活動の幅を広げ、2017年に韓国・釜山でオール韓国語、韓国人スタッフ・キャストで短編『憧れ』を監督。 現在、福岡と出身地の東京二カ所を拠点に、台湾・香港、イラン・シンガポールとの合作長編を準備中。
Twitterでのライブレポで湧かせる文体が、妊娠・出産・育児レポに進化
2013年にカンヌ映画祭で審査員賞を受賞して話題となった映画『そして父になる』では、福山雅治演じる主人公の息子が新生児のときに取り違えられていたこと(違う親の子であること)が発覚し、それをきっかけに家族のあり方が見直されるひとときが描かれた。今回ご紹介する、本人『こうしておれは父になる(のか)』(イースト・プレス)は、ライブ鑑賞が趣味でインターネット好きな30代半ばの男性が、妻の妊娠・出産、育児という流れの中で半信半疑のまま父になっていくひとときを記録したエッセイで、WEBメディア「cakes」での人気連載を書籍化したものだ。
長渕剛の富士山麓オールナイトライブやTOKIOのサマーソニック出演など、Twitterでフォロワーを湧かせるライブレポで知られている著者は、懐妊・息子の誕生と成長を書くにあたってもその勢いを失わない。妊娠発覚の瞬間から、早速独特の言い回しで日常と非日常が混在している様子が綴られていく。妻を祝おうと旬のシャインマスカットを買おうとするも、「妊婦が食べて大丈夫だろうか?」と気になりググるという、まさに父としての萌芽が現れかける場面はこのように描かれている。
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そして画面いっぱいに映る「シャインマスカットは妊婦でも平気?気になって調べてみました!」的な三流キュレーションサイト。一見丁寧なだけのコピペ文が「良いとも言えるし悪いとも言えるよ!」とどっちつかずに話し、最後に冗長な関連商品リンクを見せつけてきた。2017年のインターネットは地獄!(P15)
おもしろおかしいだけでなく、泣かせる場面では感動をぐいぐい引き寄せる。妊娠3カ月目。従来の縦・横・奥行きという3要素のエコー検査に時間の要素が加わった4Dエコーの画面を観るやいなや、著者の言葉の引き出しがあふれだす。
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おれは健康面の安心だとかもう親としての自覚だとかを完全に忘れた。至近距離の女性の中に入れ子で奇跡がインしてる、美しき親子丼に愛がすごい。気付いたら1粒2粒4粒16粒と涙が止まらなくなり、後ろを振り向くことができなくなっていた。(P61)
このように、本書は妊娠発覚から息子が1歳になるまでを常にフルスロットルで疾走する。そして著者の苦楽の入り混じりによって、その道程はスリル満点のオフロードに仕立て上げられている。
子どもが生まれて変わること、変わらないこと、変えられないこと
期待と戸惑いが渦巻く妊娠期間を経て、無事息子が生まれる。出産の瞬間は言わずもがなスリリングかつ感動の瞬間が連続展開されていく。「育休はおやすみじゃない」と題された章では、育児の絶え間なさとわからなさに直面し、イメージ映像のようにすやすやと赤ちゃんが寝たり、お利口にしている赤ちゃんに両親が微笑みかけたりする瞬間は僅少であるという発見がなされていく。育休というシステムに関しては、社会へ向けてこのように強く訴えかける。
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知名度や取得率の低さから「男性の育休」なんてパッケージ旅行のオプショナルツアーくらいに思っていたけど、これは義務付けて差し支えないやつや。この美しい国よ、命のほうもたいがい美しくて大変だもんで、頼みます。(P139)
出産後、自分の分身ともいえる存在である息子によって、著者夫婦の日常は大きく変わることになる。足繁くライブに行ったり、夫婦で気軽にちょっと一杯飲んだりも頻繁にはできなくなる。それはとらえようによっては喪失とうつるかもしれない。しかし、著者は持ち前の世界観でその変化を楽しむ。
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客観的に見てこの変化は、単純明快さがウリのスリーピースバンドが、新作で打ち込みやストリングスを導入して大幅にシフトした“進化”みたいに見えなくもない。いろいろ手を広げて本質的な何か、アイデンティティのようなものが薄まったみたいな感覚だ。もしリスナーであれば、それが気に入らなければ「求めてない方向性のやつだ……」と当惑した末に離れることもできるが、当事者なので、変わった日常を受け入れるという一択しかない。(P198)
子どもが生まれ、その子を育てるという人間の営みは遠い昔から変わらない。変わっているのは、子育てを取り巻く環境だ。自分もまた変わっていくが、変わっていく自分について考える脳は変えられない。夫婦が夫婦であることは何ら変わらないし、好きなものは好きなままでいれる。著者夫婦でいえば、楽しみにしているライブやフェスは、家庭環境が変わっても相変わらず夫婦そろって万障繰り合わせのうえ参戦しようと思える自由がある。
著者が連載を続けていたモチベーションは「おれたちの敷居を下げる」という想いだったと帯に記されているが、本書は子を持つ男性だけでなく、前述した文才によって、パパの気の利かなさにヤキモキするママが笑って読み進められるユーモアも備えている。育児の戸惑いを肯定していく姿には、子を持たない読者も勇気づけられるだろう。変わること、変わらないこと、変えられないことは、人生でどんな選択をしたとしても各々に必ず存在し、そのバランスの違いが人生を形作るからだ。
題名の最後につく「(のか)」にこめられた意味―永遠の疑問形を肯定する
日々Twitterで活躍する著者は、やはりTwitterから生活の変化を嗅ぎ取っていく。出産・子育てに役立つ情報を得るべくフォローを増やしていった結果、ライブネタであふれていたタイムラインに育児ネタや新米パパ・ママの声が聞こえるようになってきたことに気づく。
すると、町中で子どもを眺める視線も変わっていき、「うちの子もあんなふうになるのかな」という感情がこみあげてくる。他人だった人々が同志になっていくと、ショッピングモールにいる家族連れを見て「ここに来ている家族も、みんなそれぞれの苦労を経てこのショッピングモールに立っているのだ」と思うようになる。
変化を柔軟に受け入れられることは、才能のひとつだ。ふつう人は変化を恐れる。「このままがいい」といくら望んでも、楽しいひとときや理想的な状態が永続するということはない。ライブという刹那の楽しみ方を熟知していると、それがよくわかるのだろう。時間の掴み方により深みがもたらされた著者は、息子の未来の姿を透視する。
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ステーキの脂身に見出す禁断の喜び、山盛りになった唐揚げ定食のこんもりとした美麗、パンナコッタの口にまとわりつく甘さとかもそう。ジンジャーエール買って飲んでも「こんな味するんだ!」と新発見できる、そんな未来が、このベビーカーに座る人生さんには待ち受けている。(P240)
本書は、「自分は父にならないほうがよいのではないか」と心の底で思っている男性、「自分は本当に子どもを育てられるのか」と悩むプレパパ、「自分は父として本当にこれでいいのだろうか」と日々感じているパパなど、さまざまな状況の男性に響く内容であることは前述の紹介からも明らかだろう。
さらに稀有な点は、著者の文体に父親としての驕りがなく、父親という当事者であるとともに、「そうではなかった人生」にも当事者であり続ける根回しがされていることだ。ともすると、子どもを持ったほうが精神的に成熟しているという、「子育てって大変でしょ? 親になるって立派でしょ?」といった語り口になってしまいがちだ。
本書の描写からは、子どもを主体的に選択して産まない、何かしらの理由で子どもが欲しくても産めない、結婚しない、自分以外の子を育てるといった人生も、子を持つことと同列に考えている想いが行間からにじみでている。言い換えるならば、過度に子どもを持つことを美化しておらず、中庸の視点で物事を見ているということだ。疑問こそが、永く遠く人の心を肯定的な方向に推進させる。クエスチョンマーク抜きで「(のか)」という言葉が添えてある題名の本書は、暗闇の中に光るロウソクの炎のように静かに熱く、読者の疑問に寄り添ってくれる一冊だ。