5:日本国憲法序文は「単なる一国平和主義」を戒める文章でもあるはず
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とはいえ、こういう「軍事的均衡関係」をちゃんと作った上でなら、反安倍勢力の左派的良心が発揮されるべきポイントは沢山あるはずなんですよ。
「無意味に中国人に対する蔑視感情を焚きつけるべきではない」とか、「米軍基地が周囲にもたらす圧迫についての軽減策を考えるべき」とか、「軍事費を増やすといってもその内容を適切に監視して、ドローンなどが進化する時代に合った合理的な出費になっているか精査すべき」といった左派的良心は、この「勢力均衡によって本当に戦争が火が吹くのを防ぐ」算段の上なら、大事な意味を持っているはず。
しかしそれが、
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「中国が攻めてきたら俺が一緒に酒を飲んで説得するから心配するな。むしろ俺は日本政府が中国を侵略することを心配する」
…みたいな自己満足とセットだったらどうでしょうか。
常にこういう発想をベースに徹底的に妥協せずスジ論を述べることしかしない勢力に対して、安倍氏が多少強引に事を進めた点があったとしても、これはそれほど責められるものでもないと私は考えています。
そもそもそういう発想は、旧民主党政権が結局短命に終わった理由とちゃんと向き合っている姿勢とは言えないのでは?
もちろん「米中冷戦はあくまで米中の都合であって、日本は巻き込まれるべきではない」というのは一つの発想ではあります。
しかし、日本がどうあれ中国の経済成長が続けば米中は当然ぶつかるわけです。
そして、まずは最低限の軍事的拮抗関係を作り出さない限り何かの“ほんとうに些細なキッカケ”で戦争が起きてもおかしくない。
それは「日本には憲法9条があるから関係ない」でいいんでしょうか?
その「拮抗関係」を作る努力を尊重した上でなら、左派的良心が役に立つ場面は当然あるはずですし、その時はじめて「9条的な理想」だって現実的な意味を持ってくるのでは?
中国政府がウイグルに対して行っている圧迫や、あるいは香港の自由と民主主義が近年急激に奪われていったようなことが、台湾に対して行われかねない情勢にどんどんなっていっているわけですが、それについては何も考えなくていいのでしょうか?
日本国憲法序文にある
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いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて
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われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ
…といった精神に合致するものが、安倍氏の中にも存在するということを理解することによってのみ、「もっと左派的な良識が反映された日本」を作っていける道もまた開かれることでしょう。
要は、安倍政治を乗り越えるとは、こういう「20世紀的な紋切り型で全てを見て何かを断罪することが政治」という発想自体を乗り越えることなのだと私は考えています。
6:20世紀的ないつもの罵り合いを超えて、もっと「問題自体」を真剣に考えなくては!
戦後最長政権になるほど自民党に投票し続けた日本人の多くが、自民党の一部にある「非常に国粋主義的」な部分を好感しているわけではないはずです。
しかし上記の安倍氏の功績部分のように「時代的にどうしても必要な改革」と「セット売り」になっているのが「右」の政権だったから仕方なく投票していた人も多いはずです。
逆に言えば、そういう「米中冷戦という巨大な構造変化」の上で最低限の軍事的拮抗の成立という「宿題」をこなした上で、「セット売り」されている部分では左派的価値観が中心になっている勢力があっても別に良かったんですよ。
昨今の「リベラル退潮」的な情勢を盛り返すのは、自民党を呪詛することでなくそういう「本当の真剣さ」を持ってニュートラルに今の日本にある課題と向き合っていくことから生まれるのではないでしょうか。
結局安倍政権の問題とは、ありとあらゆることを「20世紀的な図式対立」で見てしまう狂気が溢れていたゆえに、「米中戦争を起こさないために必要な情勢変化」を作り出すためにはかなり右翼的なエネルギーに依存せざるを得なかったということだと私は思っています。
私だって、上記のような意味において「安倍政権が当時は必要だった」と思って投票していたけど、過剰に「国粋主義」的な部分はそりゃ無いほうがいいよね、というぐらいにはリベラルな人間ですよ。
だからこそ、今必要なのは、「善玉・悪玉」に全てを分けて騒ぐ狂気ではないんですね。正確に言えば「狂気」はあってもいいがそれを活用するための「揺るぎない理性の軸」が必要なんですよ。
先程の例で言えば、統計不正やコロナの使途不明金があったら陰謀論に走る前に、公務員のマンパワー不足とデジタル化の遅れを疑い、それを粘り強く改善する動きを地道に後押ししていくような姿勢こそが必要なのです。
新聞やテレビなどの伝統的なメディアの中の人も、「ありとあらゆることが政治闘争課題に見えるビョーキ」のお年頃の方々が引退して、今30代〜50代前半の中堅世代が中心になることで、「全部権力闘争課題にせずに問題自体を詳しく見る」姿勢が徐々に見られるようになってきたと私は感じています。
こういうことを書くと、実際に同世代の伝統メディアの中の人が「全く同意です!これからのメディアはそう変わっていかねばいけないと常々私も思っています」などと感想を送ってきてくれたりするんですよ。非常に心強く思いますし、ぜひ一緒に変えていきましょう。
そしてそういうメディア人だけでなく、この記事をここまで読んだ読者のあなたも、右とか左とかそういうのはもういいからちゃんと山積みの問題を解決してってくれよな…という発想の人である率が年々高まっているはずです。
先程も言いましたが、幕末の侍が辻斬りをしまくっていた「狂気」が時代を進めたように、統一協会を攻撃する「狂気」が、安倍時代に多少の「無理」をしていた国粋主義的な要素をはね飛ばしていくエネルギーには意味があるかもしれません。
しかしそれが本当に意味を持つのは、「辻斬りする侍」とは別にちゃんと明治開国政府の構想を理性的に考えていた人たちが多く存在していたからでしょう。
「狂気」が意味を持つのは「揺るぎない理性」とタッグを組んだ時だけです。
今の日本は課題が山積みですが、それらの山積みの課題にはそれぞれ個別の具体的なミスマッチがあり、なんでもかんでも「私欲のために暴走する権力者VS抑圧される無垢なる民衆」的な構図で陰謀論化すれば解決するものではありません。
確かに、外交面ではともかく経済面では安倍氏の功績は賛否両論で、「言いっぱなしで放置された課題」が山積みになっています。
それらを一つ一つニュートラルに高精細にちゃんと見極めて、一つ一つ解決していきましょう。
そういう「リアルな課題解決」にちゃんと向き合って普段から考えて行動している人は、明らかに左寄りの人の方が多いよね…という情勢に持っていくことによってのみ、本当に「リベラルな理想を掲げる政権」が成立する可能性もまた初めて見えてくるはずですよ。
そういう「今必要な本当の真剣さ」の一環の関連記事として、安倍政権時代の経済面での「経産省的に言いっぱなしの無責任」的課題を超えていくために必要な事が何なのか?についてはこちらの記事をお読みください。
また、主に「文化面」における左派的理想を日本社会とすり合わせていくために必要な課題が何なのかについては、今月号のスタジオジブリ発行の雑誌『熱風』の記事で、ネット論客の“白饅頭(御田寺圭)”氏と対談してきた件についての記事をお読みいただければと思います。
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