長年毎年初夏に新刊を出版し、ヒットを続けるベストセラー作家のエリン・ヒルダーブランド
渡辺由佳里 Yukari Watanabe Scott
エッセイスト、洋書レビュアー、翻訳家、マーケティング・ストラテジー会社共同経営者
兵庫県生まれ。多くの職を体験し、東京で外資系医療用装具会社勤務後、香港を経て1995年よりアメリカに移住。2001年に小説『ノーティアーズ』で小説新潮長篇新人賞受賞。翌年『神たちの誤算』(共に新潮社刊)を発表。『ジャンル別 洋書ベスト500』(コスモピア)、『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)など著書多数。翻訳書には糸井重里氏監修の『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経ビジネス人文庫)、レベッカ・ソルニット著『それを、真の名で呼ぶならば』(岩波書店)など。最新刊は『ベストセラーで読み解く現代アメリカ』(亜紀書房)。
連載:Cakes(ケイクス)|ニューズウィーク日本版
洋書を紹介するブログ『洋書ファンクラブ』主催者。
「Kindle本を実質無料で読む裏技」に作家たちが憤慨
アメリカでTikTokの読書インフルエンサーが 「#BookTok」タグを活用しベストセラー本を生み出している現象について、以前FINDERSのこの連載で書いた。だが、同時に大きな問題も発生している。Amazonにはデジタル書籍(Kindle本やAudibleのオーディオブック)を購入から一定期間返品できるシステムがあるが、読了した本を返品する「裏技」をTikTokで広めるインフルエンサーと、その裏技を利用して多くの本を無料で読むインフルエンサーが出てきたのだ。
多くの読者は知らないが、カスタマーがAmazonからデジタル書籍を購入すると送信のコストがかかる。そのコストは、ある自費出版の作家(インディ作家)によるとKindle書籍1冊につき7セントから15セントだが、そのコストを負担するのはAmazonではなく出版社側(インディの場合は作家自身)なのだ。返品数が1カ月で3倍近く増加していることに気づいた作家が原因を探ったところTikTokのインフルエンサーが広めた情報のせいだとわかった。読者は増えているのになぜか売上が減るだけでなくコストが増えている、という体験をしている作家は多いようで、Amazonにポリシーの変更を求めるChange.orgでの署名運動を始めた作家もいる。
紙媒体の書籍をTikTokのビデオで使ったり、全部読んだ後に返品する者も少なからずいるらしい。インディ作家らがTikTokで「1冊の返品によって5冊分の利益が台無しになる」と返品がどれだけ作家の収入を圧迫するかを説明しても、「そんなの私たち読者の問題じゃない」と平気で反論するユーザーもいる。
SNSのバズに頼らないベストセラー作家、エリン・ヒルダーブランド
こういったTikTokのインフルエンサーに頼らずに毎年全米No.1のベストセラーを出し続けている女性作家がいる。マサチューセッツ州のナンタケット島に住むエリン・ヒルダーブランド(Elin Hilderbrand)だ。
2022年6月14日に発売された『The Hotel Nantucket』は、ブックスキャンによると発売の週にハードカバー7万部を売り、ハードカバーのフィクション部門で全米No.1ベストセラーになった。ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーでもトップになり、7月11日現在でもNo.1を維持している。なお、同書のレビューを筆者が運営する「洋書ファンクラブ」にて掲載しているので、こちらもぜひご覧いただきたい。
「本が売れない」と言われる時代に、これだけ売れる本はどんな作品か気になるだろう。大富豪が最高級ホテルにする野望を抱いて作り直した、リゾート地のホテルでのミステリとロマンスで、幽霊を含めた風変わりな人間の関わりがユーモラスに描かれている。女性読者を対象にした大衆小説の「女性小説(chick-lit)」と呼ばれるジャンルに属する。
最近の作品にはミステリが含まれているが、2000年にデビューした頃のヒルダーブランドの作品はロマンスが中心だった。ゆえに、その頃には私も「ヒルダーブランドの本なんて……」と見下していたようなところがある。けれど彼女が文芸作家の登竜門として全米で最も有名なアイオワ大学の「アイオワ作家ワークショップ」(大学院レベルの文章創作のプログラムで、卒業者は修士号を取得する)の卒業者だと最近になってから知り、驚いたのは事実である。なぜならアイオワ作家ワークショップは、シリアスな文芸作家や詩人を生み出すことで知られているからだ。当時、彼女は自分の作品を「そんなものは出版してもらえない」と酷評され、惨めな思いをしたようだ。ところが作家のリクルート目的でワークショップを訪問した文芸エージェントに認められ、ワークショップに参加する前から書き始めていたナンタケット島を舞台にした処女作『The Beach Club』を2000年に刊行することができた。
ヒルダーブランドは2000年から2022年6月までに32作の小説を出した多作の作家だ。ことに、新型コロナのパンデミックが始まった2020年には4作、2021年には2作も刊行している。それだけでなく、近年の作品のすべてが発売と同時に全米でNo.1のベストセラーになっている。アイオワ作家ワークショップの卒業生の中でも、これほどまでの達成をした作家はほとんどいないだろう。
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