LIFE STYLE | 2022/07/29

人口1万5000人のリゾート地で5000冊の小説を売る。ベストセラー作家が仕掛ける書籍×観光マーケティング【連載】幻想と創造の大国、アメリカ(31)

長年毎年初夏に新刊を出版し、ヒットを続けるベストセラー作家のエリン・ヒルダーブランド

渡辺由佳里 Yukari W...

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人口1万5000人の島で5000冊の本を売り切るマーケティング努力

ヒルダーブランドは、インサイダーとしての島の「味わい方」もファンサービスで教えている。例えば、Nantucket Hotelを使った4泊5日のファンの集いだ。参加したファンは毎日島のツアー、ディナー、ヨガ、ビーチ・ウォーク、カクテルパーティなどをヒルダーブランドと一緒に楽しむことができる。また島に来ることができない読者のために、全米を旅してファンの集いも催している。

ファンの集いに参加できる人数は限られている。けれども、これらの情熱的なファンが口コミでファンを増やしている。サイン会に並んでいる人たちに「何がきっかけで読み始めたのか?」と尋ねたところ、「姉妹、親戚の女性、女友達が大ファンで薦められた」という答えが多かった。妻や母親にプレゼントするために並んでいる男性もいた。

ナンタケット島の老舗書店であるミチェルズ書店は『Hotel Nantucket』の刊行前に5000部予約注文したという。輸送パレットが必要なレベルの数である。子どもを含めて人口1万5000人しかない島のインディペンデント書店がやることとしては無謀な気がする。しかし、書店員に尋ねたところ、夏の間毎週サイン会を行っているにもかかわらず毎回250冊は必ず売れるとのことで、予約注文分は夏のうちに売り切る自信たっぷりのようだ。ナンタケット島での観光中にヒルダーブランドの本を買う人がそれだけ多いということだろう。また、彼女がこの小さな書店を支える大きな力になっているのも事実だ。

ヒルダーブランドのことを「たかがロマンス作家」と見下している人はいるようだ。けれども、毎年必ず1冊は書き上げてプロモーションまでするというのは、凡庸な才能や簡単な努力でやり遂げられることではない。

むろん、彼女ひとりで達成したことではない。大量の予約注文を提案し、島のファッションデザイナーとヒルダーブランドの本とを融合させたファン参加型のファッションショーを企画し、島のブックフェスティバルの運営メンバーも務めるミッチェルズ書店のマーケティング・ディレクターであるティム・アーレンバーグの貢献は大きい。彼はインスタグラムで約1万8000人のフォロワーを持つ読書インフルエンサーでもある。

ほとんどの作家にとってヒルダーブランドの手法をそのまま真似することは不可能だ。書くことだけに専念したい作家も多いだろう。けれども、書店がマーケティングのために専門家(あるいはそれに専念できる担当者)を使うことや、作家と手を組んでファンとの交流をしていくことから学べることは多い。

「コストの余裕がない」という反論はあるだろう。だから既に他の仕事で忙しく、疲れ切っている書店員がマーケティングまでしているのが現状だろう。ナンタケット島のミチェルズ書店もかつてはAmazonの台頭で売上が落ち、コストが足りないため差別化のための施策に対応できず、閉店の危機に直面していたのだ。島にあるもうひとつの書店もそうであり、島から書店がなくなってしまう可能性さえもあった。

それらの書店を買い上げて救ったのは、ナンタケット島に惚れ込み、島のビジネスを救う「インキュベーター(起業支援者)」を作った元グーグルCEOのエリック・シュミットの妻であるウエンディ・シュミットだった。けれども、書店の利益を上げて黒字にしたのは書店の新しいオーナーであるウエンディ・ハドソンと、ハドソンの元で新鮮なアイデアを駆使したマーケティングを実現してきたアーレンバーグの前向きな努力と実行力である。

「費用が捻出できない」と何もやらないことを選択し続ければ、いずれ失敗するのは明らかである。生き延びるためには、やはり何かをするという選択しかないし、その結果なにかが起こるかもしれない。エリン・ヒルダーブランドとナンタケット島のミチェルズ書店は、希望とモチベーションを与えてくれる例である。


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