ベラさん・ミハエル君(写真左)と松浦さん一家
最愛の息子ミハエル君(11歳)を連れて、ウクライナのキーウ(キエフ)からオランダに避難してきたベラさん。母と息子の二人は今、オランダ在住の日本人建築家の松浦寛樹さん(建築事務所「MADMA」と「MASA」のCEOを務めています)のご自宅に身を寄せています。
松浦さんは建築の仕事を通じて、ロシア、そしてウクライナ両国に深い繋がりがあります。今回は、多くの人にウクライナ避難民の現状を知ってもらいたいという思いから、壮絶な国外脱出を行い数週間前にオランダに避難してきたお二人、そして松浦さんのご協力のもと、ご自宅にてインタビューを行いました。
吉田和充(ヨシダ カズミツ)
ニューロマジック アムステルダム Co-funder&CEO/Creative Director
1997年博報堂入社。キャンペーン/CM制作本数400本。イベント、商品開発、企業の海外進出業務や店舗デザインなど入社以来一貫してクリエイティブ担当。ACCグランプリなど受賞歴多数。2016年退社後、家族の教育環境を考えてオランダへ拠点を移す。日本企業のみならず、オランダ企業のクリエイティブディレクションや、日欧横断プロジェクト、Web制作やサービスデザイン業務など多数担当。保育士資格も有する。海外子育てを綴ったブログ「おとよん」は、子育てパパママのみならず学生にも大人気。
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それは2月24日の朝、突然やってきた
子どもを守ために、ウクライナに自分の母親を残して命からがら避難してきたベラさん(32)、ミハエル君(11)。とにかく、早く戦争が終わってほしいと願っている
「確かに、噂はありました。国境付近にロシアの大軍が集まってきていました。でも、21世紀の中央ヨーロッパで、まさかこんなことが起こるとは夢にも思わなかったし、誰も本当に、こんなひどいことが起こるなんて、全く想像してませんでした」と話してくれたのは、一児の母であり、英語の先生をしていたベラさん。キーウに住んで、普通の市民として暮らしていたと言います。
「私たちのような普通の市民にとって、たとえロシア軍が攻めてくるという噂があったとしても、その噂を信じてキーウでの仕事、生活、人生、そして家も持ち物も、何もかも全て捨てて避難するという選択肢はありませんでした」
欧米ではロシアが侵攻を開始した2月24日の前から、国境付近で緊張が高まっているということがニュースになっていました。それなのに、どうして避難しなかったのだろうか?実際に、ベラさんの話を聞くまではそんなことを思っていたのですが…。
確かに自分だったら、実際には何も起こっていない段階で、何もかも捨てて、あてもなく国外に逃げるという行動が取れただろうかと自問すると、やっぱりノー。キーウにも、これを読んでくれている読者のみなさんと同じように、何万人、何十万人もの「普通の生活」があり、何か起こるまで「何もかも全て捨てて避難する」という行動は取れないのが普通ですよね。当事者であるベラさんから話を聞くまで、そんなことも想像できなかったということなのです。
「私たちのいた家はシェルターもなく、近所ではそこらじゅうでアラームが鳴り続け、爆撃の音も聞こえる大変危険な状態でした。そこでその日は、一番安全だと思われたバスの中で寝ました。もっとも私は、子どものことが心配で一睡もできませんでしたが…」
「爆撃はひどくなるばかりで止む気配はない。街では学校や病院、スーパーなど民間の施設も爆撃されました。ウクライナにいては、どこでも100%の安全は保障されないと分かり、私は出国する決意をしました。国の未来でもある子どもを守らなければならなかったのです」
出国する前には、キーウを離れられない自分の母親のために食料の備蓄をしたりしたそうです。ロシア軍の爆撃開始から約2週間ほどでオランダの松浦さん宅に避難できることが決まったので、まだ見たことも、会ったこともない、オランダ在住の日本人建築家とWhat’s Appで連絡をとりながら、一路、オランダを目指しました。
冒頭に記述した通り、ロシアやウクライナでの建築デザインや施行などの仕事が多かった松浦さんの事務所には、ウクライナ在住のウクライナ人スタッフがいたのです。そのスタッフは爆撃が始まる前にウクライナを出国しており、オランダにて迅速にウクライナ人ネットワークを作り、避難民を受け入れる活動を始めていました。松浦さんは自社のウクライナ人スタッフ経由で、ベラさんとマッチングがあっという間に決まり、一刻も早くの出国に急いだそうです。
困難を極める出国事情
「オランダに行くために3カ国を通ってやってきました。この旅路は今までの人生の中で最悪のもので、一番辛いものでした。まず初めにキーウから西に向かって22時間、800kmを運転し続けました」
去年、免許を取ったばかりのベラさんは、ミハエル君を守るために、必死で寝ないで運転し続けました。
「違う街に入る度に、ウクライナ軍の検問がありました。ロシア兵が車に隠れていたケースがあったりしたのです」
途中の給油も大変だったようで、そもそもガソリンスタンドに行っても売り切れだったことも多かったようです。
「それでも出来るだけ止まらずに走り続けました。止まっているとロシア軍が発砲してきたり、誘拐されたりするケースもあったからです」
なんとか800kmを走ってきましたが、古い車でオーバーヒートも相次いだので、最終的には車を捨てて、国境に向かうバスに乗ったそうです。国境へ向かうにはバスの方が安全でした。
この時のウクライナでは多少の例外はあるものの、基本的に国外退去できるのは女性と子どものみ。成人にあたる18歳から60歳までの男性は国を守るために、残らなければなりませんでした。つまり逆を言えば、国外脱出をしようとしているのは、女性か子どもしかいないということなのです。
これはロシア軍にとって、まさに赤子の手を捻るがごとく容易い相手になります。避難民にとっては、守ってくれる男性は一人もいないという状態です。国境に着いても、そこでの待ち時間は想像を絶する状態らしく、ベラさんは国境超えのためにバスの中で18時間待ったそうです。外は危険なためにバスの外へ出ることはできず、トイレも食料もないバスの中は、小さな子どもやペットが泣き叫ぶ、地獄だったようです。
また国境付近はまさにカオスで、女性や子ども相手の犯罪が蔓延しており、その取り締まりもなく、誘拐なども多発しているようです。大混雑でパニック状態の群衆の中では、一度子どもの手を離したら、二度と会えなくなってしまうような状態のようです。
こうした国境超えの混乱は、日を追うごとに増しているようで、「10時間歩いて国境に着き、さらに7時間待つ」といったような状態で、国外脱出のモチベーションを大きく削いでいるようです。
また、これも「我々がいきなり国外退去しろと言われてできますか?」という話に繋がりますが、着の身着のまま外国に逃げ出せたとして、その国の言語(もしくは英語)を話せるか、外国でも通用する仕事スキルを持っているかも、迅速な避難が決断できるかどうかに大きく関係します。
「私はたまたま英語教師だったために国外に出ても話ができますが、ウクライナ語しか話せない人も多いです。そもそもの話をすれば国外に行くあてのある人の方が少ないです。またウクライナの人にとって、ヨーロッパの他の国は物価が高く、ただでさえウクライナの通貨(フリヴニャ)がユーロに対して下落しており生活ができません。私もオランダではウクライナで発行した自分のクレジットカードが使えないことが多いです」
ベラさんは、ウクライナを出てポーランドへ。そこから電車でベルリンへ。ベルリンへ向かう途中、チケットを持っていたにも関わらず深夜3時に突然、理由もわからず電車から全員降ろされる事態に遭遇。ポーランド内の体育館のようなシェルターで一晩を過ごしました。ベラさんは、ミハエル君を守るため、ここでも一睡もしなかったようです。
理由も分からず、ベルリン行きの電車から、全員下車させられて収容されたポーランド内の避難所。ここではベラさんは一睡もできず
その後、ベルリンからオランダへ。オランダ国内に入ってからも、数々のトラブルに見舞われるものの、ポーランドでの苦い経験があったために絶対電車から降りなかったそうです。
最終的には、予定とは違う都市に着いたものの、現地に松浦さんが迎えに来てくれたため会うことができて、3日以上かけた移動でようやく目的地に到着したというのです。
もちろん、受け入れる側も相当な覚悟が必要です。受け入れたは良いものの、いつまで滞在するのかは誰にも分からないし、受け入れる側にも当然それなりの負担がかかります。実際に、一度受け入れたあとに「やっぱり出ていって欲しい」となってしまった例もあるそうです。そしてヨーロッパに住む人は今回の侵攻で何らかのビジネス的な影響が出ている人も非常に多いです。松浦さんも今回の件で95%の仕事が吹っ飛び、ウクライナでのプロジェクトも当然ストップ。ロシアで進んでいた案件も経済制裁の関係で資金回収が非常に困難になってしまったそうです。
とはいえ同時に周囲からの支援もそれなりにあります。松浦さんは「受け入れる直前に近所の人に呼びかけて、避難してくる人たちに合った、洋服や靴などがあったら分けて欲しいというビラを配ったら、あっという間に山のように集まりました。中にはXboxを提供してくれた人もいたんです」と話します。今回の取材中にも、近所の子どもがミハエル君を遊びに誘いにくるということもあったりして、上手に近隣でも受け入れられている様子です。
松浦さんファミリーが、ウクライナ避難民を受け入れる前に近所に配った支援物資援助のお願い。あっという間に山のような洋服屋や靴が集まったという
もっとも、筆者の感覚では、こうしたことはそのコミュニティが、そもそもきちんとまとまっていること、また松浦さん自身が、ご近所コミュニティに普段からコミットしていることが大きいと感じます。つまり、仮に自宅に余っている部屋があったとしても、誰もが簡単に受け入れることはできない、と思うのです。
ミハエル君が避難してきた日に描いた画。普段遊んでいた公園で、ロシア軍の戦車がウクライナの人々に対峙しているシーンだという。母親のベラさんも、子どもの心理的なトラウマを非常に懸念している
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