Jini
ゲームジャーナリスト
note「ゲームゼミ」を中心に、カルチャー視点からビデオゲームを読み解く批評を展開。TBSラジオ「アフター6ジャンクション」準レギュラー、2020年5月に著書『好きなものを「推す」だけ。』(KADOKAWA)を上梓。
ゲームゼミ
Twitter
フロムソフトウェアらが開発し、2月25日に発売されたアクションRPG『エルデンリング』が好調だ。世界出荷本数は1200万本、国内だけでも100万本を超え、ディレクターの宮崎英高は「とても驚いている」とコメント。世界的にも1000万本を超える作品は極めて稀で、あの任天堂の『リングフィット・アドベンチャー』(1353万本)にも匹敵する。
フロムソフトウェアは決して大きな企業ではない。本社は笹塚の中規模オフィスビル内にあり、従業員数も2021年6月時点で332名。もちろん共同開発のバンダイナムコを含め、本作にはフロム以外にも様々な企業が携わっているといえ、カプコン(3152名)や任天堂(2621名)といった誰もが知る大企業の約10分の1規模の会社が、1000万本を売り上げる作品を完成させたのは、衝撃的だ(なお、フロムが中小企業かどうかについては、GCC'18「複数タイトルの開発を維持しつつ大規模化に適応した中小企業エンジニアの取り組み」より引用)。
さらに『エルデンリング』は万人受けするようなタイトルではない。『氷と炎の歌』などで有名なジョージ・R・R・マーティンが参加した本格的なダーク・ファンタジーの世界を舞台に、過酷極まる戦いが繰り広げられる。決して簡単なゲームではなく、筆者自身もプレイしていて何度もゲームオーバーを迎えた。
そんな中規模のスタジオが作り上げた、硬派なダークファンタジーのゲーム『エルデンリング』は、一体どうして1200万本も売れたのか。
「本作が純粋に面白い、優れた作品だから売れた」それは紛れもない事実だ。本作の魅力については、すでに多くのメディアで論じられている。しかし、「良いものだから、売れる」なんて単純な市場はどこにもない。ゲーム業界においても同様で、だからこそ『エルデンリング』が「売れる」には、マーケットやコミュニティと関連した大きなポイントがあったと考えるべきだろう。それは一体何だろうか。
マーケティングの限界とSNSへの挑戦
ゲームの「売り方」、つまりプロモーションにはさまざまなアプローチが存在する。メディア等に出稿される広告の量であったりとか、ゲームシリーズ(IP)のブランド力、また「Metacritic」などのレビューサイトに反映されるゲームメディアによる事前の評価などだ。
この点『エルデンリング』は、プロモーションの規模は十分だったと言えるだろう。特に共同開発のバンダイナムコによるれば、独自の海外ネットワークを駆使したマーケティング能力を活かし、「14言語の同時展開」や「発売前のネットワークテスト」を実現。さらにフロムには『DARK SOULS』などの実績があり、『エルデンリング』に関してもMetacriticで100点中96点(2022年3月、PS5版)を記録するなど、一般的なゲームファンには十分認知されるタイトルだった。
とはいえ、単純に人気作品の続編を大量の広告で宣伝すれば売れるのかといえば、そこまで単純でもない。従来どおりのマーケティングではよくて数百万本が限界であり、1000万本の大台にはどんな大企業ですら中々届かない。1000万本に到達するにはただのマーケティングでは届かない層、つまりユーザーが自発的にSNSで話題を拡散する必要があった。
インターネットの口コミからゲームが「売れた」例は少なくない。典型的な例は、2020年に発売され3000万本以上も売り上げた『あつまれ どうぶつの森』だ。穏やかな無人島で自由気ままにすごす平穏な内容ながら、マイデザインやファッション、インテリアなど自分のオリジナルを作れる要素が多く、InstagramなどSNSで自分だけの島や家を共有する遊び方が作品のヒットを後押しした。
また、2018年発売の『Among Us』も口コミから大きく広がった作品だ。インディーゲーム規模の予算からほとんど広告などなく、従ってリリース当初は全く話題にならなかったものの、徐々にそのアートの秀逸さやお手軽さがSNSで話題となり、更にYouTubeやTwitchなどの配信サイトでインフルエンサーがプレイすると人気が爆発。2020年には2億ダウンロードを突破した。
全ての作品がそうと限らないが、現代のゲームのセールスにはSNSでの話題性が強く影響する。実際、PS4のコントローラーから導入された画面を撮影できる「SHAREボタン」や、多くのゲームソフトにはユーザーが自由にゲームの世界を撮影できる「フォトモード」が存在するなど、ゲームハードやソフトメーカーがユーザーにSNSで共有してもらおうと腐心しているのがその証左だ。
「難しいゲーム」と「情報共有」のシナジー
このような「SNSでのバズに期待する流れ」にあって、実は『エルデンリング』には直接的に「シェアさせる要素」がほとんどない。今では多くのゲームに搭載される「フォトモード」もないし、ダークファンタジーの重厚な世界観は(筆者にとっては最高に美しいが)インスタにアップして「映える世界」でもない。
さらに、『エルデンリング』は現代の大作ゲームとしては難易度がとても高い。本作には各地に無数のボスが待ち構えているのだが、その多くがプレイヤーを殺す手練手管に長けており、故にプレイヤーは何度も死に、心が折れそうになる。特に序盤の難敵「忌み鬼マルギット」は本作の登竜門として知られ、多くのプレイヤーを屠ってきたことで話題となった。
このように決して簡単とは言えない本作だが、その分、非常に多様かつ自由な攻略方法が用意されているのも特徴だ。特に本作は従来のリニアな進行から、オープンフィールド(≒オープンワールド)といって、広大なマップの中から自由にルートを編み出すことも可能な構造となっている。よって、どうしても倒せないボスはスルーすることができたり、簡単にキャラクターのレベルを上げたり、強力な武器を得ることができる。すると、あっさりと難敵を打開できたりする。
かくして自然にSNSに溢れるのが、膨大な攻略情報だ。どの敵にはどのように対処すればいいとか、この場所にこんな強いアイテムがあったなど、攻略において有用な情報がSNSでは出回る。難しい場面で詰んでいるプレイヤーほど、貪るように情報を集め、さらに拡散してくれる。
本作は確かに難しい。だがその分、打開するための手段も豊富にある。そのため、難所や難敵など「共通の敵」を見出したプレイヤー同士で盛り上がり、彼らを打倒するには具体的にどうすればいいのかと攻略情報を共有する愉しみが見出せる。さらに無関係なプレイヤーも、こうしたプレイヤー同士の議論を見聞きすることで断片的に作品を知り、自分もこの議論に参加したいと考える。
このように、『エルデンリング』はその難易度と自由度が相まって、結果的にプレイヤーが思わず情報を交換したり、攻略を議論するような「シェアしたくなる魅力」に満ちている。これがSNS上で『エルデンリング』が話題を作り出せたきっかけの一つだ。
ゲームプレイそのものが「物語」
もう一つ、『エルデンリング』の魅力といえば、あのアメリカを代表する作家ジョージ・R・R・マーティンも手掛けたストーリーだ。2019年に先駆けて公開された「デビュートレーラー」では、真っ先にディレクターの「HIDETAKA MIYAZAKI(宮崎英高)」と共に「and」と「GEORGE R. R. MARTIN」の名前が記載されるなど、本作の宣伝にもマーティンの名は一役買った。
しかし、本作のストーリーをマーティンが直接描いたわけでは、実はない。マーティンは作品の前日譚となる「神話」を描き、それを読み込んだ宮崎らフロムのスタッフが、本作の舞台を描いている。
具体的には、マーティンは「エルデンリング」に制御される超自然的な世界を描き、宮崎らはその「エルデンリング」が砕かれたことで、崩壊へと突き進んでいく世界をゲームの舞台としている。宮崎は冗談めかして、「マーティンは自分が作ったキャラクターたちの末路を知ってショックを受けるかも」とも語っている。
従ってプレイヤーは、マーティンが描く豪華絢爛な神話から一転、ポストアポカリプス的な世界を冒険する。この世界にはそれらしい大義も、もっともらしい目標もない。よって本作のストーリーはキャラクターの僅かな台詞、膨大なアイテムの説明文など、断片的に語られていくのみであり、プレイヤーは自身の選択と感性によって物語を紡いでいく。
一見すると、カットシーンなどをリッチに盛り込んだ現代の大作ゲームと比べれば「ストーリーが薄い・弱い」と考えられる本作だが、実際にはマーティンの描く神話に加え、多様な信仰や文化が混ざる重層的な群像劇として鑑みれば、本作の物語は質・量ともに膨大だ。
それでもあえて、本作が断片的な語り方を好むのは、ゲーム体験と共にプレイヤー自身で物語を発見する喜びを尊重しているからだろう。
つまり、「エルデンリング」が砕かれ、理性を失われた過酷な世界、残酷な運命といった「客観的な物語」と、プレイヤー自身が体験する強大な敵に何度も蹂躙され、その度に挫折し、冒険を繰り返して強くなり、やがてその強大な敵に復讐するといった「主観的な物語」が重なり、画面内のキャラクターではなく画面の前にいるプレイヤー自身が、今まさに冒険をしているのだというロールプレイに繋がる。
具体的には、この過酷な世界でどんな壁にぶつかり、どんな対策を打ち立て、そして乗り越えていったのか。そこでどんな人物と語り、どんな武具を手に入れていったのか。全てが自分ごととして吸収され、それ自体がストーリーとなる。その万人が紡ぐ、万通りのストーリーがSNSで共有され、それぞれが興味深いものとして語られるのである。
このような「自分ごと化できるストーリー」が最も顕著に現れるのが、今まさに話題となっているYouTubeやTwitchでのゲーム実況だ。今や「大手」と呼ばれる、登録者100万人を超えの国内外の実況者、配信者の多くが『エルデンリング』をプレイし、その様子を外部に配信している。例えば大手配信サイトTwitchでは『エルデンリング』のタグは33万人にフォローされており、数あるゲームタイトルの中でも特に配信が盛り上がった作品だ。
断っておくとゲーム実況がどこまでマーケティングに影響を及ぼすのか、その影響がポジティブかネガティブかは、作品や分析によって変わる。だが『エルデンリング』はまさにここで述べた、恐ろしくも美しい世界を冒険し、強大なボスと何度も戦い、作中の人物たちとの絆を深めていく過程に、実況者ごとに発見や感情が反映されていくことで、実況ごとに物語が築かれていく。
これはまさに、SNS時代において求められる「個人の物語」の風潮と奇跡的にマッチしている。
今、SNSや動画サイトを通じてそれぞれが自分の物語を語り、企業においても「ブランドストーリー」が求められるようになった。『エルデンリング』の物語とゲームプレイの重畳は、まさにSNS時代において求められる「個人の物語」を、極めて独自かつ高度に達成しうるのである。
アーケード時代のコミュニケーションと非同期型ネットワークに見る、ヒットの予見
奇妙なことに、この『エルデンリング』を取り巻くコミュニケーションの在り様は、1980年代のアーケードゲーム文化に近いのではないかと思う。
当時は、一人用でも容易に攻略できない作品や、隠しコマンドや裏技など、対戦ゲーム等でも未知が多くあった。さらにインターネットも普及していなかったため、プレイヤー同士が一層攻略情報を共有したり、戦術について議論する余地が大きかったことで、一つの作品を巡るコミュニケーションが活発だった。
事実、ディレクターの宮崎英高が作った最初のARPG『Demon’s Souls』のコンセプトには原点回帰が含まれており、アーケード作品やファミコン作品など、ビデオゲーム黎明期の魅力を現代的に再構築した成果でもあった。つまり「難しい」「複雑だ」という作品からプレイヤー同士のコミュニケーションを促し、それが現代のSNS社会と相まって一層マッチしている。
ここで注目したいのが、宮崎が「原点回帰」に加え、ゲームの中に一種のSNSを導入した先見性である。宮崎は「同場性」を重視したネットワーク要素として、例えば、「メッセージ」と言ってプレイヤーがさまざまなメッセージを地面に書き残したり、「血痕」と言ってプレイヤーの死に様が他者に共有されるなど、それこそSNSのような機能を作中に備えている。(『エルデンリング』にもこの機能は継承されている)。
この「非同期ネットワーク要素」からうかがえるのは、まさに『エルデンリング』における困難を冒険によって克服していくゲームデザイン、その過酷さを裏付けるようなストーリー、そしてこれらを自分ごと化していくロールプレイにあって、プレイヤー同士のコミュニケーションを活性化しうる可能性だ。無論、最初から「SNS時代に向けたゲームを作ろう」と企画したわけではないだろうが、それでも本作には現代のデジタル社会に生きる人々に向けて、ある種の希望を与える作品だと思う。
事実、宮崎はインタビューなどで何度も重ねて「ユーザーさんに楽しんで欲しい」と話す。これほど難しいゲームを作っておいて、一体何が「楽しんで欲しい」なのかと憤る人もいるに違いないが、宮崎はそんな憤りさえもゲーム内で共有させようとしているのだ。
本作がヒットしたのは、圧倒的な完成度、そしてSNSにマッチするゲームの原体験もさながら、そもそも心の底からユーザーを楽しませたいというクリエイターの願いに最大の理由があるのは、言うまでもない。