メタバースへの誤解③:メタバースが善意と慈愛によって運営されるとは限らない
ここまでメタバースを「現在」と「はるか未来」に分けを、特にメタバースの現在地として考えられるコンテンツを「誰が作るのか」という目線で精査した。
そこで最後に、筆者として「はるか未来」に至るまでの現在のうちに、私たちが議論すべきは、「一体誰がメタバースを統治するのか」という正統性(レジティマシー)ではないだろうか。
そもそも、メディアの進化は私たちが何を言おうと確実に訪れるだろう。仮に大衆のメタバースやビデオゲームへの興味を失われることがあっても、その土台になり得る次世代のメディア、和田洋一氏が指摘したXR、AI、IoT、5G、クラウド、ブロックチェーンが混淆する「環境コンピュータ」は、全てでないにせよ部分的にメディアの選択肢になりうるはずだ。
よって我々が注意深く監視するべきはテクノロジーではない。それはメタバースではなくても必ず誰かが形にする(してしまう)。いずれ、テレビやインターネット以上のスケールで世界を覆う次世代のメディアにおいて、支配的地位を得た企業こそかつてない影響力を及ぼすだろう。
すでに旧Facebook社はメタバースの「支配」に意欲的だ。そもそも旧Facebook社自体が個人情報の扱いに対し無責任にすぎることが批判され、特に若年層から懐疑的だったことも「Meta」への転換の遠因だったと考えられる。旧Facebook社は表面上、プライバシーの尊重を掲げてはいるものの、Oculus Quest 2では当初Facebook認証を半ば義務づけるなど(2022年に変更予定)、その姿勢には釈然としないところが残る。
プライバシーの他にも大企業による個人情報の扱いには問題が多い。経済面では、GoogleやYouTubeが検索情報などのトラッキングによって展開する広告の中に、ユーザーのコンプレックスを刺激し、消費を煽る「コンプレックス広告」を大々的に用いたり、政治面でもケンブリッジ・アナリティカのスキャンダルのように恣意的に作られたサイバーカスケードが言論をますます偏らせ、分断を引き起こすことも繰り返された。これらテックジャイアントによって支配される社会を、ショシャナ・ズボフは「監視資本主義」と呼び、話題となった。
PCからスマートフォンへメディアが広がるだけでこれだけ問題が浮上している現状、それ以上に厚く、広くメディアの網がかけられる環境コンピュータ時代、またはメタバース時代において、技術や情報が一部の企業により独占されることは、楽園ではなくディストピアに繋がりかねない。
そこで問うべきは、オープンソースを前提としたユーザーによるオンライン空間の自律と自治だ。プライバシーが完全に保護されるだけでなく、経済活動においてもプラットフォームによる搾取を防がなければいけない。サービス全体が公共のものとみなされ、運営には透明かつ公平な民主的ガバナンスも問われるだろう。こういった運用はブロックチェーンを活用したエストニアのデジタルガバメントを参考に議論していくことができるかもしれない。
その一方、悪意のあるユーザーによるハラスメントやハックも防ぎ、各ユーザーに責任を問う仕組みもまた必要だろう。これらを表現の自由やプライバシーの権利と両立するにはどうすればいいか、ユーザー間の議論により常に線引きされなければいけない。
またアバターを介して人間が自分のジェンダーを含むアイデンティティを定義できる、そんな倫理観を現実の旧態依然としたモラルの輸入によってかき消されることも防ぐべきで、それにはデジタル上の人間としての尊厳を前提とした憲法、憲章が必要になるかと思う。
メタバース議論は夢と希望にあふれたものになりがちだ。しかし夢と希望は、あくまで巨大企業による「プロダクト」と「マーケティング」の一部であって、我々は常に中立的な目線からその運用を議論し、監視する必要があるのではないか。今回はまずメタバースの「現在」と「はるか未来」のへだたり、そして「現在」から「はるか未来」に向かうまでのコストという大きな課題、それから生じうる様々な懸念点について示したが、こうした議論も必要だと思われる。
余談だが、このような理由で筆者は『レディ・プレイヤー1』の結末を好まない。ヒロインとのキスを見せつけながら「現実だけがリアルなんだ」というシーンにイラッとした……わけではなく、むしろ、主人公ら”トップ5”でのみオアシスの統治を決定したことである。メタバースに民主主義を導入しなかったという点で、結局ハリデーやソレントとまったく同じ過ちを繰り返しているだけではないか。