CULTURE | 2020/10/29

格闘技は本来、強い人間が挑戦するものではない?戦い続ける原動力はコンプレックス【連載】青木真也の物語の作り方〜ライフ・イズ・コンテンツ(12)

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15年以上もの間、世界トップクラスの総合格闘家として、国内外のリングに上り続けてきた青木真也。現在...

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格闘技とは本来、強い人間が挑戦するものではない

結局のところ、人は20代であろうが30代であろうが、“今やる”しかないというのが僕の実感だ。これはきっと、40代、50代になっても変わらないだろう。なにしろ僕自身、20代の頃にはまさか37歳になった今も試合に出場しているとは、夢にも思っていなかったのだ。

過去、現在、未来を人間は切り分けることはできない。なぜなら、たとえば格闘家の場合、過去の経験を踏まえて戦術やトレーニング法をアレンジして戦うのが常であるし、未来をイメージするから勝ちたい欲求が生まれるものだ。

つまり、人は過去、現在、未来が地続きであるからこそ、不安にも欲望にも駆られる生き物である。そうした過去や未来を一切考えることなく現在に集中できるなら、雑念のない毎日を送ることができるかもしれないが、それではまるでマシーンだ。

それでも、できるだけ意識的に過去や未来を切り離すことで、不安や煩悩を排除することは可能だろう。曖昧な老後に思いを馳せて貯蓄に励むのもいいが、今に目を向け、今を真剣に生きる方がパフォーマンスは上がるはずだ。

では、僕がいつの日か試合をしなくなり、事実上の引退状態になるとすれば、その理由は何だろうか?

それはおそらく、競技に対して緊張感を持てなくなった時ではないかと想像することがある。緊張しないということは、自分に対して100%に近い自信を得てしまった状態に等しく、きっと僕は戦う意味を見失ってしまうに違いない。

緊張感とは、「負けたくない」という気持ちの裏返しであり、強くない自分を自覚しているからこそ生まれるものだ。

もっと言えば、格闘技とは本来、強い人間が挑戦するものではない。弱い人間が強さに憧れて手を染めるものであり、あるいは自分が弱いことを受け入れられない人間がやってくる世界なのである。

自分が弱いという現実を受け入れられない弱さ。それが格闘技を志す、すべての人の共通点なのだと僕は思う。もちろん僕も例外ではない。自分に対する多大なコンプレックスがあるからこそ、戦い続けているのが現実だ。それを失ったなら、もはや試合をする意味もないだろう。

中には格闘技をステップアップのための手段として捉え、自己実現につなげるためにやって来る人もいる。昨今、YouTubeチャンネルを解説する格闘家も多いが、そもそもの目的がステップアップにある場合、格闘家としての矜持を逸脱したコンテンツ作りが目に付きもする。

でも、それも彼らなりに思い描いたプランに沿ってのこと。それによってどのような人生が待っているのか、やがて答え合わせの時期が来るはずだ。そこで本人が満足するなら、勝ちである。

これは格闘技に限らず、あらゆる分野に通ずる真理だと僕は思っている。僕自身、こうして戦い続ける先に待っているものを楽しみに、今を目一杯頑張っている。そして今が過去になった時、それが自分にとってポジティブな時間であったと胸を晴れるように、努力を重ねるのが最善なのだ。


本連載は今回を持って最終回となりました。今までご愛読いただき、誠にありがとうございました。

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