CULTURE | 2020/10/29

格闘技は本来、強い人間が挑戦するものではない?戦い続ける原動力はコンプレックス【連載】青木真也の物語の作り方〜ライフ・イズ・コンテンツ(12)

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15年以上もの間、世界トップクラスの総合格闘家として、国内外のリングに上り続けてきた青木真也。現在...

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人はいつまで頑張り続ければいいのか

では、いったいどこまで頑張り続ければいいのかというと、それは僕にもわからない。少なくとも「引退」という概念を僕は持っていないからなおさらだ。

正確に言えば、引退を宣言することはなくても、試合をしない状態になることはいつかあるだろう。極端な話、事故で片腕を失うような事態に見舞われれば、二度と試合に出場することは叶わなくなるが、それでも僕は格闘家として何かと戦い続けるはずなのだ。単なる言葉遊びと思われるかもしれないが、そのくらい、格闘技は僕の中で当たり前の日常である。

僕にとって、日常の一部を切り取って世間に提示することが「試合」だとすれば、切り取り方や提示の仕方を変えることで、僕の中での格闘技は引退後も続いていくことになる。逆に、引退というステータスを設定すると、格闘技が僕の日常ではなくなってしまうことになるから、矛盾が生じる。

もし、引退を決めた瞬間に格闘家であることを辞められるのであれば、それは幸せなことなのかもしれない。なぜなら、それは生活と格闘技を切り分けられている証拠だからだ。

しかし現実には、僕にとって生きていくことと格闘技は常に並立しているものであり、どちらか一方だけを放棄することは難しい。だから、「引退って何だろう?」となる。

その意味で、自分の寿命があらかじめわかるのだとしたら、これほど楽なことはないだろう。僕はあと2~3年で40歳を迎えることになるが、40代で死ぬのか、60代まで生きるのか、いずれであってもゴールからの逆算が利くとなれば、今やるべきことのプランは立てやすい。でも、人生はそうではないから難しい。

逆に、昨年の老後2000万円問題などを見ていると、大騒ぎしている人々に対して、「なぜそこまで自分を信用できるのだろう」と思わず首を傾げてしまう。80歳、90歳まで生きられる保証などどこにもないのに、どうしてそこまで深刻に不安視できるのだろうか、と。

僕の場合、格闘家という職業柄もあってか、とてもじゃないが80代まで生きている自分に現実味を感じることはできない。それは決して、明日をも知れぬ不安な日々ではなく、余計な不安を排除する、極めて現実的な視点のひとつであると思うのだがどうだろうか。

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