CULTURE | 2020/10/01

青木真也は「老い」をいかに受け入れてきたのか? 頭打ちの状況でも結果を出す処世術【連載】青木真也の物語の作り方〜ライフ・イズ・コンテンツ(11)

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15年以上もの間、世界トップクラスの総合格闘家として、国内外のリングに上り続けてきた青木真也。現在...

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老いが与えてくれた思考プロセス

結果を左右する要素としてもうひとつ、アスリートには“老い”がある。実際、僕の実感としても、加齢によって勝てなくなるというより、歳を取るほど伸びなくなる現実がある。

若い頃は鍛えれば鍛えるほど強くなれたし、練習すればするほど上手くもなった。何事においてもやった分だけ右肩上がりに成長できるのは、若さの特権だろう。

ところが、こうして三十代も後半に差し掛かると、昨日より今日、今日より明日という上昇は見込めない。その代わりに、今ある限られた資源の中で、着々と落ちていくパフォーマンスをどう維持するかという発想へ切り替わる。まるで日本社会の縮図のようである。

ただ、これも受け止め方なのだろう。老いによる衰えというのもまた、受け入れなければならない結果なのだ。視点を変えてみれば、モノづくりは制約がある方が面白い。落ちていく体力、限られた技術、それらをどう組み合わせ、どう工夫して活用するか。これは伸び盛りの頃にはなかった醍醐味だ。

僕に言わせれば、若くて右肩上がりに伸びていく時期の面白さは、格闘技においてまだほんの“さわり”の部分に過ぎない。伸び止まり、制約が生まれてからいかにパフォーマンスを上げていくかが本当の面白さであり、かの武藤敬司も「ムーンサルト・プレスが飛べなくなってからの方が面白い」と語っている。

練習の時点で若い選手にヤラれることはあっても、試合となればいかに帳尻を合わせるかということに、全力で知恵を絞り、努力をする。それもまた強さだろう。

だからこそ、若いうちから創意工夫に頭を使うことを怠ってはいけない。逆説的ではあるが、何も考えずにバンバンやっていた選手というのは、老いが始まると一気に勝てなくなってしまうことがある。知恵を使う訓練をしてこなかったからだろう。

僕がこの年齢まで競技を続けて来られたのも、若いうちからいかに合理的に、いかに誤魔化しながら勝利を手繰り寄せるか、知恵を絞り続けたからである。それというのも、僕のキャリアは最初からうまく事が運んだものなどひとつもなく、小学校で始めた柔道にしても、総合格闘技にしても、「どうすれば勝てるのか」「どうすれば強くなれるのか」という試行錯誤の連続だった。

その思考のプロセスは、自分に考える癖を与えてくれた。すべての技術に意味を求め、考え続けてきたからこそ、加齢によって伸び止まった今も、リングに上がることができるのだ。

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