CULTURE | 2020/09/16

アカデミー賞の新たなルールで映画は変わってしまうのか。新規定の内容と歴史的経緯を解説【連載】松崎健夫の映画ビジネス考(23)

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第77回ヴェネチア国際映画祭の監督賞にあたる銀獅子賞を『スパイの妻』(20...

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アカデミー賞のルールは時代に合わせて変更されてきた

アカデミー賞の規定が変わったのは、もちろん今回が初めてではない。時代の変化や映画技術の革新によって、ノミネートの条件だけでなく、候補となる部門そのものも変化してきたという歴史がある。例えば、撮影賞や美術賞。モノクロだった映画がカラー化されていった1930年代後半、撮影賞はモノクロ作品に対する賞とカラー作品に対する賞とが1939年から分けられるようになった(ちなみに1936年から1938年までは“名誉賞”という特別賞扱いだった)。同様に美術賞は1940年からモノクロとカラーに部門が分けられている。そしてカラーで撮影される映画が主流になった1966年を最後に、モノクロ部門は廃止になったという経緯がある。

技術革新によってノミネート条件に追記がなされたという例はほかにもある。例えば、作品賞のノミネートには「35ミリや70ミリのフィルムによる作品」との規定があったが、2010年代以降は映画のデジタル化によって「および、デジタルフィルム」という一文が追加されている。さらに、映画の中でCGによる合成パートが増えたため、CGアニメーションとの境界が曖昧になっていたことに対応する必要性が生まれた。例えば、『LEGO ムービー』(14)のように一部実写のあるような作品は、実写なのか?それともアニメーションなのか?を判断しなければならなくなったのだ。そこで、長編アニメ映画賞におけるアニメーションの定義を「キャラクターのパフォーマンスがコマ送りのテクニックで作り出され、上映時間の75%以上にアニメーションで作られたキャラクターが登場する作品」と規定している。

また今年、韓国映画である『パラサイト 半地下の家族』(19)が第92回アカデミー賞にて受賞した国際長編映画賞は、昨年まで外国語映画賞という名称だった。これまでは映画内の言語を英語としない作品を外国語映画賞として讃えてきたのだが、国際的な映画製作が成され、作品の“製作国”が曖昧になってきた時代に「外国語映画という名称は時代遅れなのではないか?」との議論があり、1956年から使われてきた名称が変更されたのだ。国際長編映画賞とともに作品賞にも輝いた『パラサイト 半地下の家族』の快挙は、英語を言語としない、さらにはアメリカ資本の入っていない作品である点にも言及されてきた。前述通り、これまでのアカデミー賞は「ハリウッドの映画産業に従事する映画人たちによる身内(ハリウッドの映画人)を祝福する賞」という保守的なものだったからだ。

しかし、今年の第92回アカデミー賞授賞式に問題がなかったわけではない。『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』(19)以外の作品賞候補作品は、すべて男性が主役。『パラサイト 半地下の家族』を除くと、「白人男性」が主人公の作品ばかりだったと言えるし、監督賞の候補になったのも男性監督だけだった。さらに『パラサイト 半地下の家族』は、俳優部門にひとりもノミネートされなかった点が指摘できる。アジア系俳優に対する冷遇はこれだけでなく、例えば、ゴールデングローブ賞では『フェアウェル』(19)でコメディ・ミュージカル部門の主演女優賞に輝いたオークワフィナ(中国系アメリカ人の父親と韓国系アメリカ人の母親を持つ女優・ラッパー)がノミネートすらされなかった。それだけでなく、中国系の家族を描いて数多の賞に輝いたこの映画は、アカデミー賞のすべての部門で無視された。

アメリカ映画界におけるダイバーシティはどうあるべきか?

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今回の新たなルールの発表は、アメリカの黒人男性銃撃事件を発端とする差別撤廃への抗議運動が影響している。映画の中でも公平な表現が促進されるべきではないか?という考えから、多様性受け入れのルール化をハリウッド映画産業の課題としたのだ。

しかし、この発表に対しては賛否が分かれているという現状もある。前述の新たな規定や基準によって「映画が変わってしまうのではないか?」と危惧する声も少なくないのだ。だが、現状のルールは「白人男性」がキャストやスタッフを独占しない限り、条件をクリアできるようなオールマイティなものになっていることがわかる。また規定の【D】のように、マーケティングや宣伝に対して白人男性以外も関わるようルールを設けることで、炎上するような偏向や偏見が防止できるという側面もある。重要なのは、これらのルールを必要としている人々がアメリカの映画産業にいるという点だ。

一方で、ポリティカル・コレクトネスを重視するあまり、「映画に対する表現が窮屈になるのではないか?」という意見もある。俳優の中には、マイノリティ側にいるからキャスティングされるのではなく「自身の俳優としての実力を認めてもらうことで作品に関わりたい」と考えている人たちもいる。もし立場が逆であれば、人種や民族、性別を理由に選ばれたであろう事実に嫉妬するかもしれないというのだ。俳優としての実力以外のことで仕事を誰かから奪うことは、誰にとっても本意ではない。ダイバーシティが、ある一個人を万能にするための武器となってはならないからだ。

人間が万能ではないからこそ、足りないところを相互で補い、自分の得意な部分で才能を活かす。多様性は、自分だけでなく、さまざまな相手もいることを認めるということだ。「多様性はかくあるべし」と規定してしまっては、そのこと自体が新たな同調圧力を生みかねない。すべての条件を満たさなければならないというわけではないという点では、映画芸術科学アカデミーが提唱する新たなルールは、その盾となるのではないだろうか。

むしろ危惧するのは、ドイツのベルリン国際映画祭が男優賞と女優賞を廃止し、最優秀主演賞と最優秀助演賞に変更すると発表したことにある。時代の変化によって、賞から性別をなくすという意向を示したのだ。ジェンダーへの配慮は理解できるものの、俳優側が本当にこの変更を求めているのかどうかは疑問だ。賞に対する性別をなくすことで、男優にとっても女優にとっても受賞の機会が減ることは間違いない。例えば、女優が連続して受賞しても、男優が連続して受賞したとしても、異論は噴出するだろう。「ジェンダーへの配慮」というベルリン国際映画祭プログラミング・ディレクターの言葉を実践するならば、例えば、トランスジェンダーを演じた俳優に対して、その役自体をどう解釈し、どのような賞を新たに設けるのか? あるいは、設ける必要はないのか? という議論の方が先のように思えるのである。

また、こういった考え方を言葉にし難い同調圧力がハリウッドの映画界にあるのも事実だ。俳優の側からは炎上を恐れるあまり、著名な立場であればあるほど意見が言いにくいという雰囲気がある。同調圧力によって声を挙げられなかったマイノリティへの配慮が、新たな同調圧力を生んでしまってはやぶ蛇だ。

アカデミー賞では、LGBTQ+の立場にある人たちに対する賞のあり方だけでなく、不遇な評価を受けているスタントマンに対する賞を設けようという議論が以前から成されている。しかし、未だ実現できていない。課題もまた“多様”なのである。今回発表された新たなルールも、実際に運用するまでには3年ほどの猶予がある。そして、作品賞以外の部門についてはまだ発表がないことから、現時点ですべてを判断するのは時期尚早だとも言える。映画産業に携わる側、また、映画ファンの議論・異論が広がれば、規定は実施までに変わってゆく可能性があるからだ。新たなルールの表層的なイメージによって過剰に反応するのではなく、実施まで賛否に対する徹底的な議論を行う。ルールを遵守することばかりが重要になって、映画そのものの多様性が逆に失われてしまわないようにするためには、映画館へ通い、映画料金を払い、映画を鑑賞する観客の声が一番重要だと思うのだ。


参考文献

・OSCARS「ACADEMY ESTABLISHES REPRESENTATION AND INCLUSION STANDARDS FOR OSCARS® ELIGIBILITY」

・BBC NEWS「Oscars push for more gender and ethnical diversity」(2016.6.30)

・ベルリン国際映画祭「Berlinale 2021: Festival Planned as Physical Event / New: Gender-Neutral Performance Awards」

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