CULTURE | 2020/09/08

芸能人の「誹謗中傷はやめよう」発言に違和感。覚悟なきものは人前に出るべきではない【連載】青木真也の物語の作り方〜ライフ・イズ・コンテンツ(10)

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15年以上もの間、世界トップクラスの総合格闘家として、国内外のリングに上り続けてきた青木真也。現在...

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SNS時代に求められるメンタルタフネス

ここ10~15年の格闘技界を俯瞰して、桜庭和志さんと僕の対比を語る人がたまにいる。ファンに求められるならいつでもリングに上がると公言する桜庭さんのスタンスは、僕のそれとは確かに好対照だ。僕はいかなる試合も、自分がやりたければ引き受けるし、そうでなければいくら積まれてもやらないと決めている。

何より、少なくとも僕はファンのためにキツい練習を積んでいると思ったことは一度もない。見方を変えれば、他人のために頑張れる程度のトレーニングであれば意味がないし、その結果として負けた場合、それは自己責任であるべきだ。

語弊を恐れずに言わせてもらえば、ファンとは移り気な存在である。ある意味、ファンとはとても幸せな立場で、嫌いなものは見なくてもいいし、見たくないものにお金を払う必要はないという、選択権を持っている。僕自身も単なるファンであった時代があるからこそ、そうした彼らの立場は尊重しているし、競技者として過度にあてにすることもないわけだ。

スポーツでも格闘技でも、競技者として身を立てるのは本来、覚悟のいることだ。人前に立つということは、場合によっては批判の矢面に立つことに等しい。だからこそ、自分を主語に物語を創る、ぶれない強い意思が必要なのだ。たとえばプロレスラーがデビュー戦を迎える前に何百回、何千回とスクワットをこなさなければならないのは、体力面以上に人前に立つ覚悟を醸成するための期間なのだと僕は考えている。

ところが、近年ではSNSの登場により、そうした構図に少し変化が生じている。覚悟がなくても、誰でも簡単に大勢に向けて意見を述べられる時代がやってきたのだ。これは実は、現代社会の大きな問題である。

なぜなら、メンタルタフネスが鍛えられることのないまま発信力を持つと、予期せぬ批判や中傷に耐えられず、潰されてしまうからだ。SNS上の心無いコメントが原因で心を病む人がいる現実には、そんな構造的な問題が潜んでいる。

表に出て物を言えば、その発言に対する賛否の評価を浴びるのは当然のこと。場合によっては正当な評価ではなく、理不尽にNOを突きつけられることだってあるだろう。人前に立つこと、公に向けて発信をするということは、そうした覚悟を持つ必要がある。

その意味で僕は、芸能人やスポーツ選手が最近こぞって「誹謗中傷はやめよう」と発言していることが、どうにも気持ち悪くて仕方がない。人に知られる存在になり、大勢に向かって意見を言えば、批判の対象になるのは当たり前のことなのだ。

誹謗中傷を避けようとするのは、表に立つことのメリットは享受するが、リスクやデメリットについては受け付けたくないという、身勝手な言い分に過ぎない。清濁併せ呑む覚悟がなければ、そもそも人前に出るべきではない。

僕の周囲にも、批判されたことで落ち込んでいる選手はたくさんいる。中には「どうすればいいでしょうか」と相談に来る後輩もいる。しかし叩かれるということは、話題として認知されていることの証しなのだから、落ち込む必要などないはずだ。

僕とてすっかり慣れてしまったとはいえ、誹謗されれば腹も立つし、批判されれば凹むこともある。でもそれこそが、自分が選んだ物語なのだから仕方がない。自分を主語に物語を語れば、良いことも悪いこともすべて物語の起伏に過ぎない。問題は。それを楽しめるかどうかなのだ。


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