CULTURE | 2020/09/08

芸能人の「誹謗中傷はやめよう」発言に違和感。覚悟なきものは人前に出るべきではない【連載】青木真也の物語の作り方〜ライフ・イズ・コンテンツ(10)

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15年以上もの間、世界トップクラスの総合格闘家として、国内外のリングに上り続けてきた青木真也。現在...

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辰吉丈一郎の発言に込められた真理

格闘家やアスリートはよく、「◯◯のために」とモチベーションの所在を語ることがある。もしそれが、テンプレ的に耳障りのいいコメントをしているのではなく、本心からの言葉であるなら、主語が自分にあるとは言えない。ファンのため、家族のために頑張る気持ちは大切だが、その言葉を分解して整理してみれば、最終的にはすべて自分のための努力であるはずなのだ。

ボクシングの辰吉丈一郎さんがかつて、ファンのためではなく自分のためにやっているとカメラの前で明言したことがあった。あたかも熱狂する多くのファンを突き放すような言葉であったが、僕にはその言葉に大きな真理が込められているように感じられた。はっきりと自分を主語として捉え、まるで「勝手に応援してくれてありがとう」とでも言うようなスタンスは、自己満足に浸らない格好良さがある。

僕自身のこれまでの試合を振り返っても、試合に勝った直後のリング上で、ファンに対する感謝が先に立つようなことは、実は一度もない。まず湧き上がるのは自分に対する喜びであり、勝利という結果に対する達成感だ。まして、「皆さんの応援のおかげで勝てました」とは、正直なところ微塵も考えていないのが現実なのだ。

ファンの存在や声援はもちろんありがたいが、これもあくまで主語が自分であればこその考え方と言えるだろう。

一方で、自分にそこまでの自信がなく、主人公はあくまで自分だという気概を持てない人も多いだろう。しかし、気持ちを育むのは状況だ。試しに考えてみてほしい。今の仕事を突然失い、明日から何もやることがなくなってしまった場合のことを。

それでもよほどの蓄えがないかぎりは、食べていくために何かをしなければならない。そこでただ、ひたすら「どうしよう」と項垂れているようでは何も解決しないし、人生も先には進まない。自分を主語に物事を考えていれば、すぐに「では何をやろうか」と具体策を検討し始めるはずだ。

僕は格闘家としてデビューして以来、これまでチームや団体に依存することのない競技生活を送ってきた。だから必要があれば上に対しても遠慮なく進言、提言をしてきたし、もしかするともっと波風を立たせることなく生きる術もあったのではないかと思う。

ただ、波風が立ったことへの後悔はまったくないし、そうした軋轢があったからこそ今の自分が形成されたと確信している。こうした納得感は重要で、人生の主人公が自分であるかどうかの判断基準は、いかなる過去であってもそれを糧と捉えられるかどうかなのだ。

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