CULTURE | 2020/07/28

誰ともつながらない時間にこそ価値がある。SNS時代の「孤独」のマネジメント【連載】青木真也の物語の作り方〜ライフ・イズ・コンテンツ(9)

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15年以上もの間、世界トップクラスの総合格闘家として、国内外のリングに上り続けてきた青木真也。現在...

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アスリートの孤独について考える

かくいう僕は現在、妻と子どもと別居中で独り暮らしをしている身である。細かい事情は割愛するが、物理的に独り身に戻ってみて痛感しているのは、今の状況がとにかく楽ということだ。

これについては人それぞれ個人差があるだろうから、一概に言えることではない。僕の場合は、別居=孤独とはならず、むしろ今のところは身軽な生活を満喫している。気の早い知人からは、「誰か新しいパートナーを見つけなよ」と勧められることもあるが、正直、今はとても考えられない。独りの自由さを思い知ってしまったからだ。

仮に、不意に寂しくなって誰かと話したくなったなら、そんな時こそオンラインでも何でも使えばいいだろう。たいていのことはリモートで解決できるのだ。

それに比べて、もう一度誰かと1から関係を構築し、一緒に暮らす準備をし、共同生活を維持することには、絶大な労力を要するだろう。何より、ミニマリストの僕からすれば他人との生活は、自分の預かり知らない物が身の回りに溢れることを意味し、なかなか許容し難いものがある。つまり独り暮らしは、僕が自身の性分とこれまでの経験を踏まえた上で導き出した、ベストの形なのだ。

それでも、完全に独りの世界を構築したいわけではないから、理想の形は気のおけない友人でも恋人でも、互いに近くに住んでいる程度の関係だろうか。イメージとしては学生時代、大学周辺に複数の仲間が暮らしていた、あの感覚に近い。独りの時間を確保することも可能だし、暇を持て余したときには誰かの家に突撃すればいい。それは非常に自由な日常だ。

とはいえ、自分が70代、80代を迎えた頃に、不自由な体で孤独を謳歌する自信があるとは思えない。元気な60代のうちにポックリ逝けるのであればいいが、そうでないならさすがに老後不安の解消のために、僕も再び誰かとの共同生活を考えなければならないときが来るかもしれない(先のことはわからないが)。

あるいは単なる老後対策なら、独り者の仲間を募ってコミューンのような共同生活を確立するのも一案だろう。超高齢化社会が進む中、今後の時代の流れによっては、案外こういう形態が定着するかもしれない。

一方、格闘技やスポーツにおける孤独についても、しばしば考えさせられることがある。

アスリートにも実にさまざまな考え方があり、たとえば僕のように普段は単身でトレーニングを積み、スパーリングなど必要なメニューをこなすときのみ仲間と合流するのを理想とする選手もいれば、常にチームで練習に取り組みたい選手もいる。

個人的には、強くなるために常に仲間とべったり一緒にいる必要はないと思っている。場所と時間を合わせてトレーニングを始め、終了後は皆でメシを食いに行く。それはそれで楽しいひとときなのだろうが、選手はそれぞれ強くなるための方法論が異なるはずだし、ライフスタイルや生活のペースだって違うのだから、フリーの立場で動くほうが合理的だ。

もちろん、異論もあるだろう。あくまで大切なのは、自分にとってベストな形を模索することであり、それこそが孤独のマネジメントなのである。

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