ITEM | 2021/06/27

「DVや虐待を受けても家族だから仲良く」ではなく「抵抗してもいいんだ」と伝えること【信田さよ子『家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ』】


神保慶政
映画監督
東京出身、福岡在住。二児の父。秘境専門旅行会社に勤めた後、昆虫少年の成長を描いた長編『僕はも...

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神保慶政

映画監督

東京出身、福岡在住。二児の父。秘境専門旅行会社に勤めた後、昆虫少年の成長を描いた長編『僕はもうすぐ十一歳になる。』を監督。国内外で好評を博し、日本映画監督協会新人賞にノミネート。第一子の誕生を機に、福岡に拠点を移してアジア各国へネットワークを広げる。2021年にはベルリン国際映画祭主催の人材育成事業ベルリナーレ・タレンツに参加。企業と連携して子ども映画ワークショップを開催するなど、分野を横断して活動中。最新作はイラン・シンガポールとの合作、5カ国ロケの長編『On the Zero Line』(公開準備中)。
https://y-jimbo.com/

行動に起こさなくても、想像する時点で「抵抗」は始められる

「母が重い」という一言が何を意味するか、読者の皆さんは大体見当がつくのではないかと思う。進学・就職・結婚などのライフイベントに際して、母から娘に価値観の押し付けや過干渉が起こる。そうした「重さ」に関するエピソードはSNSの登場で数多く明るみに出るようになり、「母を重荷に感じるのは私だけじゃなかったのか」という気付きを多くの女性に与えることになった。FacebookとTwitterが日本に上陸した2008年には、信田さよ子『母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き』(春秋社)が書かれ、「墓守娘」という三文字に集約された、娘を縛る母と「NO」と言えない娘の関係が話題を呼んだ。

DVの加害者・被害者両方に対するカウンセリングを長年行ってきた著者・信田さよ子の新著『家族と国家は共謀する サバイバルからレジスタンスへ』(角川新書)は、「重さ」の知識が共有された今、虐待や暴力被害の有無に関わらず誰しもが抱える「重み」に対する対処法の認知普及が必要だと訴えかけている一冊だ。対処法のキーは題名にもある「レジスタンス(抵抗)」で、この言葉をより具体的にイメージしてもらえることを、本記事のゴール地点とできればと思う。

「レジスタンス」という言葉はやや硬い印象だが、「墓守娘」という言葉同様に、多義的な意味合いを持つ。補語のように働いているのは、同じく題名にある「サバイバル(生存)」だ。親や夫・妻から直接的暴力、言葉の暴力を受けた際、愛想笑いのような「やり過ごし」や、単なる悩みのようにも思える「自虐」は、実はサバイバルではなく「レジスタンス」的な行動であるというのが著者の主張だ。

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家族の関係とは、父と母の夫婦関係、父子、母子の親子関係から成る。この「関係」はしばしば愛情やはぐくみ、思いやり、やさしさ、温かさとともに語られてきたが、私たちはそれらを一切消去する。代わって登場させるのが、支配、力、被害、加害、戦略、駆け引き、作戦といった言葉である。
いわば、心理学から政治学へのパラダイム転換である。(P137-138)

つまり、家族関係を円滑にするためのアクションを起こすことが抵抗なのではなく、それを想像している時点で抵抗は始まっているということだ。「家族は互いに思いやるべきだ」などのふわっとしたスローガンで問題を隠蔽するのはなく、支配構造に自覚的になり、改変を意図・意識しながら日々暮らすことが「レジスタンス(抵抗)」の意味するところであり、それがより多くの人によって自律的に行われることを著者は究極の理想としている。

『天気の子』の主人公を「気持ち悪い」と感じることと「レジスタンス」の関係

本書序盤ではルーマニア・スウェーデン・カナダなどの洋画や、宮崎駿監督作『千と千尋の神隠し』など、何本かの映画に描かれている家族像が参照されているが、本書では言及されていないものの筆者が序盤のページをめくっている時に真っ先に思い出したのは新海誠監督作『天気の子』だった。ご覧になっていない方もいるかと思うので、簡単にあらすじを紹介しながら、作中でどのようにレジスタンスが行われているか説明できればと思う。

『天気の子』は、伊豆諸島の島から親と仲違いして東京に家出してきた16歳の少年・穂高が、バイトをしつつ「生存(サバイバル)」を模索する中で、晴れ女パワーを持つ同世代の少女・陽菜(両親がいない)と出会い、「晴れ女ビジネス」を考えつくなどして共に助けあいながら「抵抗(レジスタンス)」が生まれていくとも言えるストーリーだ。

穂高が家出した理由は劇中ではあまり詳しく描かれないが、父からの暴力によるものだと説明されている。もちろん家出も「抵抗」のひとつだが、東京で暮らす穂高には違う形で外部から「抵抗」の意思表明を強いられる。たとえば、歌舞伎町のスカウトマンと口論になり、たまたま彼の店前にあるゴミ箱で拾った銃を発砲するというシーンがある。銃は雲が気象条件によって空に生み出されるように、社会環境によってゴミ箱の中に生み出された。だが穂高が銃を手に入れて使う一連の描写には「現実味のなさ」が際立っている。この点について「銃を物語に出す必要があったのか?」という疑問を感じる観客が少なからずいたことがネット上のレビューでわかるが、銃は貧困・格差の象徴であり、発砲は「サバイバル」から「レジスタンス」のステージへ踏み出す号令のようなものと考えると、各シーンの見え方がかなり違ってくる。

登場人物の心情優先で感情移入する見方をするならば、穂高の言動や行動に「気持ち悪い」と感じる箇所はその他にも多くあり、映画の感想としては少々残念になってしまうが、実はこうしたネガティブな印象は登場人物たちに対する嫌悪ではなく、劇中の根底で描かれる政治的な権力構造に対する気持ち悪さなのだと筆者は思う。制作陣が表現しようと試みた「貧困・格差を生み出す社会構造」への反意は、「気持ち悪さ」を感じた観客こそが、実は受け取れているのかもしれない。

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息子にとって、母を批判することは単なる個別の親子関係を超えて、男性である自分を問い直す意志的な行為であり、決して女嫌い(ミソジニー)につながるものではないことを強調したい。母への批判を否認し、安易な赦しの自己陶酔や乗り越えの錯覚こそがミソジニーを生むのだ。(P38)

「心理学から政治学へのパラダイム転換」が行われた観点からすると、穂高は家出という形で「父を止められない母」への反意を間接的に表明し、東京で「男性である自分」を問い直す機会を多く得たので、著者が懸念するようなミソジニーを穂高が生み出すことはないだろうと、映画のエンディングにも希望を見出すことができる。

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