CULTURE | 2021/03/25

あらゆる違いを越えて人々が手を取り合う社会を想像できますか?—飯塚国際車いすテニス大会

日々を暮らす社会にはさまざまな「壁」がある。言葉、世代、宗教、肌の色、そして、障がい。小さな違いが「壁」となり、差別や社...

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日々を暮らす社会にはさまざまな「壁」がある。言葉、世代、宗教、肌の色、そして、障がい。小さな違いが「壁」となり、差別や社会の分断を生む。異なる人々が手を取り合う——そんな社会があるとしたら、どんな姿をしているのだろうか。

「人と人の間にあった壁がなくなっていく」。そう言われるテニス大会が福岡県飯塚市にある。飯塚国際車いすテニス大会。各国を代表する選手たちが集まる、アジアで最も高いグレードの大会だ。延べ約2000人のボランティアによる市民参加型の運営は「イイヅカ方式」と世界で呼ばれ、「この大会は特別」と選手たちも口々に言う。決して大都市とは言えないまちで、どうしてそんな大会が生まれたのだろうか。2019年春、35回目を迎えた大会を訪ねた。

「飯塚は特別な大会です」

4月下旬、大会4日目。福岡空港から車で約1時間、周囲を山に囲まれた大会会場に着くと、各コートではすでに試合が始まっていた。スマッシュを打とうと力む選手たちのうなり声、ラケットがボールを弾く乾いた音、好プレーに送られる拍手が会場に響く。

大会4日目、男子シングルスの準決勝が行われていた。手前はサーブを打つ国枝慎吾選手

一際多くの観客を集めていたのが、世界ランキング1位の国枝慎吾選手の戦う男子シングルス準決勝。国枝選手は北京、ロンドンパラ五輪のシングルスで金メダル、グランドスラム(車いすテニス最高峰の世界4大大会)のシングルスで26回の優勝を誇る。本大会では2006年に初優勝して以来、シングルスだけで8度も頂点に立った。

ライン際のボールを打ち返す国枝選手

この試合、国枝選手はトム・エバーリンク選手(オランダ)をセットカウント2-0で下し、決勝へ。9度目の優勝まで、あと1勝。

多くの国際大会を経験してきた国枝選手も「飯塚のような大会は世界を見渡してもどこにもない」と言う。

「多くの方々がボランティアで支えてくれる。誇りに思うし、こういった大会で勝ち進めることは幸せです」

世界トップクラスの選手になると、大会は海外開催がほとんど。国枝選手とダブルスを組んだ眞田卓選手も「飯塚では日本の方々に生で見てもらえる。格付けの高い、名誉ある大会です」と話す。

眞田卓選手=左=と国枝選手。今大会、男子ダブルスで準優勝を果たした

この大会は国際テニス連盟によって、アジアで唯一、世界6大大会「スーパーシリーズ」の一つとして、「グランドスラム」に次ぐ格付けがされている。世界ランキングにも影響するため、今年も日本を含めて16の国と地域から選手100人が集まった。

南アフリカから出場したホターチョ・ムンジャーネ選手は世界ランキング6位。南アフリカの黒人女性として初めてウィンブルドンのコートに立った選手だ。「(この大会は)地域の方々、子どもやボランティアとの距離が近く、交流もできる。私たち選手にとって特別な大会です」と言う。

地元の小学生とハイタッチを交わすホターチョ・ムンジャーネ選手

飯塚市で世界的な国際大会が生まれ、しかも、選手たちを魅了し続けているのはなぜなのだろうか。

当初は「障がい者はじっとして余生を」の声も

車いすテニスのルールは、2バウンドまでの返球ができる点以外、基本的にはテニスと同じ。コートもネットも変わらない。近年は日本人選手の活躍もあって知名度が高まったが、大会会長を務める前田恵理さんによれば、大会は最初から順風満帆だったわけではない。

前田恵理さん。大会を主催する「NPO法人 九州車いすテニス協会」の副理事長、「一般社団法人 日本車いすテニス協会」の会長でもある

飯塚国際車いすテニス大会は1983年、飯塚市内にあった脊髄専門病院「総合せき損センター」が、リハビリの一環として車いすテニスを始めたのがきっかけだ。

「日本ではリハビリにスポーツが取り入れられたばかりでした。障がいがあると、隔離された世界で焼き物をしたり、将棋を指したり。安静第一、手厚い看病をするからじっとして余生を送りなさい、という時代でした」と前田さんは振り返る。

1984年、レクリエーションで海外選手と試合の機会を得たことをきっかけに、翌年から海外選手を招待した第1回大会を開催した。だから、最初から「国際大会」を掲げた。「リハビリの一環」だった大会は、次第に多くの人に知られるようになり、今ではトップクラスの選手が集まる大会に成長した。

「私たちボランティアの仕事は、障がい者の手助けではありません。選手たちが最高のパフォーマンスを発揮できる環境をつくることなんです」

大会には世界トップクラスの選手が集まるようになった

前田さん自身は、飯塚で車いすテニスが始まったころから、趣味で所属していたテニスクラブを通じて選手たちと関わり始めた。「最初は関わり方が分かりませんでした。聞いたらいけないことがあるんじゃないか、って」

当事者と接していくうちにそうした「壁」はなくなった。もともと持っていた「障がい者は暗い人」というイメージは間違っていた。明るく、前向きな人も当然いる。関わってみないと気付けないことばかりだった。

自身の経験もあり、選手と住民の交流の場は、機会を見つけてはつくってきた。けれども、まだまだ「障がい」に対する差別や偏見はなくならない。「究極の目的は、壁をつくる必要のない社会を目指すことにある」と前田さん。35年間で確実に変化は生まれていて、少なくともこの大会では、障がいの有無は「壁」ではないと言い切る。

例えば、2009年の大会。国枝選手の試合を観た高校生が「かっこいい!」と興奮し、「すげえ、おれも(車いすに)乗ってみたい」とつぶやいた。それを聞いた前田さんの目からはどっと涙が溢れたという。「車いすを見て、『かわいそう』『大変やね』はいっぱい聞いてきた。でも、『かっこいい』は初めて。ようやくここまできたんだ、と」

2013年には、中学生時代から出場していた上地結衣選手が女子シングルスで優勝した。しかも、昨年まで6年連続だ。

上地結衣選手。子どもたちに話を聞くと、「憧れの選手」として名前が挙がることが多い

近年の日本人選手の活躍は、車いすで生活する子どもたちの夢も変えた。前田さんは言う。

「以前は、子どもたちに将来の夢を聞くと、立ってみたい、歩いてみたい、でした。それが今は、テニスプレーヤーになりたい、国枝選手、上地選手みたいになりたい、と目を輝かせるようになったんですよ」

大会には多くの子どもたちが観戦に訪れる。もちろん車いすに乗った子どももいる。

大会には多くの観客が集まった。子どもの姿も目立つ

中学2年生の甲斐日珂梨さんは鹿児島県曽於市から観戦に訪れた。上地選手の試合を最前列で観た後、「スマッシュの迫力がすごい」と、数分前の試合の興奮が続いている様子で言った。将来の夢を聞くと恥ずかしそうに、でも、はっきりと「車いすテニスプレーヤーになりたいです」。

同じく中学2年生の森本航大さんは脳性小児まひで、脚に障がいがある。テニスを始めたのは小学6年生の時。同級生たちと比べてできないことが増え、「現実」を前に塞ぎ込む日が増えていた、と母の由紀子さんは振り返る。

森本航大さん=右。大会スタッフで、選手としての出場経験もある有吉繁喜さん=左=がコーチ役。「やれば、なんだってできるんだと子どもたちに知ってほしい」と有吉さん

「車いすテニスと出会って、この子の人生は明るくなりました」。由紀子さんは、病院で勧められ、初めて車いすテニスを体験した息子の表情を、今でも鮮明に覚えている。「もう、初日、その瞬間。私には見せたことのない笑顔で、こんな最高なものはないっていう。それでね、自分の全てをこの子のテニスに注ぎたいって思うようになったんですよ」

航大さんの憧れは国枝選手。この日、観戦後に初めて言葉を交わし、帽子のつばにサインをもらった。目標にしていることを伝えると、国枝選手はにやりと笑って「先は長いぞ」。国枝選手が立ち去った後も、航大さんはうれしそうに何度も帽子のサインを眺めていた。

国枝選手=右=にサインをもらう航大さん

「垣根がなくなる瞬間をよく目にします」

飯塚国際車いすテニス大会の開かれる飯塚市は、決して大きなまちではない。設備や利便性がずば抜けているわけでもない。大会会長の前田さんによれば、この大会が高い格付けを保っているのは、多くの市民ボランティアと地域の協力が高く評価されているからだという。市も全面的に大会を支え、設営や誘導、通訳などとして、毎年多くの職員が参加する。市内に駐屯する陸上自衛隊も選手や物資を運ぶ役割を担う。

大会は、まちにも変化をもたらしている。商店街が車いすに対応したトイレをつくったり、駅や飲食店にスロープができたり。「ほとんどのタクシー運転手は車いすの操作ができますよ」と大会関係者は得意げに言った。目に見えるところでも、見えないところでも、まち全体が着実に変わっている。

飯塚市内のイタリア料理店で注文する選手たち。この店は改装を機に、車いすでも難なく入れるよう設計したという

運営スタッフの一人、佐々木留衣さんは子どもの頃から大会に参加してきた。大人になってしばらくは離れていたが、4年前から再び運営に携わるようになった。

佐々木留衣さん。「この大会では選手もスタッフも、皆がなにかの主役。多くのスタッフが毎年のように集まります」

この大会では、人と人の間にあった壁がなくなる瞬間をよく目にするという。例えば、見学に来た小学生。最初は障がいのことを聞いていいんだろうかとか遠慮がちだが、試合を観ると目が変わる。

「ヒーローを見る目に変わっちゃうんです。この人はすごい人だって分かると、垣根がなくなっていく。どんどん関わっていく。選手との距離の近さはこの大会の魅力です」

通訳ボランティアの高倉正則さん=左=は82歳。海外選手と共通の友人の話題で盛り上がっていた。「差別や偏見はまだある。なくす方向に向かうことが大事です」と言う

「誰とだって関わり合える」

決勝前夜、隣町の福智町で毎年開かれる交流会は、地域住民と選手たちが関わる大切な場だ。

夕刻、町の体育館に選手たちが続々と集まってくる。地域住民は手料理でもてなし、中学生による吹奏楽や、子どもたちの太鼓パフォーマンスには選手たちも大喝采。餅つき体験には会場全体が沸いた。

子どもたちによる和太鼓演奏は圧巻で、選手たちも住民たちも大きな拍手を送った

交流会中、住民と選手は自由に交流ができる。最初は遠慮がちだった子どもたちも、通訳ボランティアと一緒に選手たちの元へ。会場のあちこちに小さな輪がつくられた。

地域住民の指導の下、力強い餅つきを披露する選手たち

最後は皆で一つの大きな輪をつくり、炭坑節を踊ってフィナーレ。会場を後にする選手たちも、それを見送る住民たちも全員が笑っている。何度も何度も握手を交わす、ハグをする。最後の瞬間まで別れを惜しんでいた。

会場を後にする選手たちと、笑顔と拍手で送り出す住民たち

翌日、大会は6日間の日程を終えた。今年の観客動員数は、過去最高の約7100人。男子シングルスでは国枝選手が本大会9度目の優勝を果たし、女子シングルスでは上地選手が準優勝、男子シングルスのセカンドクラス(選手の国内・世界ランキングによって階級が振り分けられる)では、12歳の小田凱人選手が最年少優勝を成し遂げた。

今回の取材で、地元の小学生と交流したムンジャーネ選手が「子どもたちに伝えたい」と話していたことがある。「スポーツには人々を一つにする力がある。年齢や人種は関係ありません。互いに尊敬し合えるし、誰とだって自由に関わり合える」

「この大会に出ている私たちには障がいがあるかもしれません。そこには確かに違いはあります。けれども、障がいがあることは、私たちが何もできないということではありません。違いはあっても、同じように人間であり、話すことも、笑うこともできる。そういう意味で、私たちの間に違いはありません。そのことを感じてほしいです」

来年は東京でのパラ五輪が控えている。観客はさらに増えるだろうし、大会はこれからも成長を続けていくだろう。大会を支える地域と共に。

ムンジャーネ選手と地元の小学生たち


JKAは、競輪とオートレースの売上を、機械工業の振興や社会福祉等に役立てています。

CYCLE JKA Social Actionより転載