美味しい地魚の試食イベントで「ついで」に放射性物質の計測データも聞いてもらう
うみラボのHPより
―― 小松さんの活動のひとつである「うみラボ」の話をうかがいたいと思います。福島第一原発から1.5km離れた沖で海底土と魚を採取し、近くにある水族館「アクアマリンふくしま」にて放射性物資を測定、採った魚はその場で捌き料理して食べるというイベントです。あれはどういったきっかけで始めたのでしょうか?
小松:さっき僕がかまぼこメーカーの広報として働いていたという話をしましたが、自社製品が安心かどうか明白な説明ができなきゃいけないという時に、「県が安全だと言っています」「東電は大丈夫だと言っているんで」という返答では非常に心もとないし、自分自身も海の状況がどうなっているのかということが全然分からないわけですよね。
自分が勤めていたメーカーでは震災前から福島県沖以外で採れた魚を多く使用していたので、いわゆるBtoB向けの商品ではありましたが「どのような原料が使われ、どんな工程を経て生産されているのか」を広く一般に公開し理解を深めてもらったという経験がありました。
そうした中で、たまたま知り合った人のツテを辿っていったら釣り船をやっている人がいたりとか、ずっと東京で最先端の取り組みをしていた社会学者の先生がいたりとか、同じような思いを持っているような仲間が集まって自然と「とりあえず海に行ってどういう状況になっているのか見に行こう」ということで、DIY的なプロジェクトとして2013年秋ごろに始まったというのがうみラボです。
「うみラボ」で釣った魚の放射性物質を計測し専門家がデータの解説をしつつ、その場で調理して試食する「調べラボ」の模様。水族館で行われるイベントということもあり、ふらっと立ち寄った親子連れが「なんだか美味しそう」と参加することも多いという(写真はうみラボHPより)
ーー ただ計測されたデータを報告するだけではダメで、魚釣りも試食イベントにしても、パッと見ですごく「楽しそう」なのが良いんだろうなと感じました。
小松:やっぱり人って面白そうとか、おいしいとか、そういう動機で動くものじゃないですか。最初から「測定します」「福島の海の現実を」と言っても来てくれない。それに、ほとんどの活動が自前ですし、自分たちの持ち出しなので、自分たちが楽しまないとやる意味ないじゃんっていう話はしていました。
―― どのぐらいのペースで、いつごろまで開催されていたんですか?
小松:大体2016年ぐらいまでは月1で、冬の時期は海が荒れるのでやらないですけど、大体5月から11月ぐらいまでは毎月船を出して測っていました。ただ17年以降ぐらいは魚を採っても放射性物質が全然出てこないので、測るという行為自体が「まだ危険だからやっているんでしょう」みたいに思われるのは嫌だということでフェードアウトしていった感じです。
小松氏の配信番組「【泥酔放送 NICEST #3】福島の、いわきの海の話 原発事故が何をもたらし、そこから何を学ぶべきか」で公開された資料「地域活動から考える福島の海(1)」より。番組視聴料金を支払うと誰でもPDFをダウンロードできる
僕らの場合は、釣り自体が本格的に面白くなってきちゃって「調査じゃなくて普通に釣りを楽しめばいいんじゃねえの?」という話になり、それはそれで継続していたり、16年からは「さかなのば」という、単に福島の美味しい魚とお酒を味わうイベントもスピンオフ企画として始めています。
―― 「うみラボ」の活動を通じて、2017年には海底土にも魚にも放射性物資がほとんど検出されなかったということが分かり、そのうえ今年3月31日には福島県沖での試験操業を終了する方針も出されました。ただ一方で、第一原発で生じる汚染水が2022年の夏から秋にかけてタンク容量がいっぱいになってしまうということで海洋放出する(※)という決定が2020年10月に一度なされ、その後決定は撤回され先送りにはなりましたが、かなりの賛否両論がありました。地元では何が懸念されているのでしょうか?
小松:たとえ印象論でしかなかったとしても「国や東電は安全とか言うけどやっぱり危ないんじゃないの?」という不安は誰しもが持ちますし、放出したら確実にメディアはじゃんじゃかじゃんじゃか連日報道すると。そうすると風評被害を懸念せざるを得ないですよね。
風評被害の一番の問題は、実は「消費者が心配して買わなくなる」ということではなくて「市場やスーパーのバイヤーなど、大量に商品を取り扱う人が注文を止めてしまう」ということなんです。
例えば1000人いるお客さんの2割、つまり200人が福島県産を買わなくても、800人分を買ってくれれば売上はゼロにならないんですけど、バイヤーさんはたった一人が1000人分の注文をするという業態なので、そのバイヤーさんが「これを買ったらいろいろせっ突かれるかな」とか、「上司に説明しなくちゃいけないから面倒くさいな」と思って注文をやめちゃうと、1000人分が一気に止まっちゃうと。それが風評の実態なので、処理水を海洋放出すると、恐らくそういうようなことが出てくるだろうということです。
実は原発事故から10年経った現在、産品によっては福島県産は震災前よりも、特に農産品の中には震災前の価格を上回るぐらいの農産物が出てきているんですね。なので「また10年我慢すれば大丈夫なんだ」と言う人もいるにはいます。
ただ、そもそも何が問題かというと、東電は「漁業者の承諾がなければあらゆる汚染水は海に流しませんよ」と約束しちゃっていますし、漁業者には何一つメリットがないので当然反対します。でも国としてはやっぱり流したいと。
僕がそこですごく問題だなと思うのは、そういう構図をつくればつくるほど外側にいる僕らは「この問題で一番被害を被るのは漁業者なんだから、漁業者が納得すればいいんじゃないですか」と思ってしまうことなんです。
「当事者が決めればいい」という正論が社会課題を「他人事化」させる
―― 確かにそうですね。
小松:そうなってくると、強い言葉で言えば「他人事」みたいになってきちゃうんですよ。
「漁業者が納得するように賠償なり何なり決めればいいじゃん」というような思考は、正論のように見えてそうすればするほど漁業者にある種の責任を押し付けていくみたいな話になっていってしまうんです。大事な問題を国民全体が考えることには絶対つながらない。
廃炉の問題も核の廃棄物の問題もそうだと思いますけど、当事者に気を遣えば遣うほど当事者自身に非常に厳しい決断を迫るということを何度も何度も見てきて、ずっとモヤモヤしてきたんです。『新復興論』を出版してからも続けているゲンロンでの連載タイトルは「当事者から共事者へ」としているんですが、この「共事者」という造語もそうしたモヤモヤから生まれました。
例えば取材対象から「あなたが福島にいなかったなら、僕の気持ちなんて分からないと思いますけどね」と言われたら「そしたらもう何も言えないよ」と思うじゃないですか。
―― おっしゃる通りです。
小松:そういうスタンスが僕はあまり気持ちのいいものではないなと思っていて。震災・原発事故というとあたかも被災3県(岩手・宮城・福島)の話のように思えますけど、例えば東京とか九州とかの人も、あの時に絶対に何かは体験しているはずなんですよね。電車に乗れなかったとか、めっちゃ家まで歩いたとか、コンビニの品物がなくなったとか。
―― 僕もあの日は東京で働いていて、5時間ぐらい歩いて家に帰りました。
小松:そういう自分の被災体験みたいなものを、より当事者性の強い被害を受けた人に忖度して語ってこなかったから、震災が他人事になったんじゃないかと僕は考えていて。
つまり「自分の被災体験」「自分の復興」みたいなものとリンクしていかなきゃいけないというか、「福島に来て美味しいものを食べ、いろんなことを学んだ結果、自分の人生がより良くなった」というような、もう少しふわっとした関わりみたいなものを許容していかないと意味がないというか。
僕は食とかそういう観光みたいな小さな場を作っているのも、不真面目にすごく楽しそうだなみたいな人を巻き込んでいって、参加した人たちが最後に「自分も震災のことを語ってよかったんだな」とか「福島でこういう面白いことがあって、これって下手すると俺の人生とか自分の考えもすごく変わったかもしれない」みたいな体験をしてもらうことで、復興の当事者性を持ち帰ってもらえればいいかなと思ってずっと活動しているので。
―― 『新復興論』では、「当事者性を持ち出す人は感情を利権化したいだけなんじゃないか」という憤りが綴られていました。
小松:例えばジェンダーとか障害みたいに、自分自身に対する困難みたいなものをどうしても背負ってしまっているという意味での「当事者」は確実にいると思うんです。
『新復興論』を出版してしばらく経ってから、ある編集者の方が「小松さんの言う『みんなが当事者なんだ、当事者性で濃淡なんかつけるな』という議論は、まぎれもなく困難を背負わずにいられない、障害のある人などの存在を見えなくさせる言葉なので、そこは納得できない」というような感想を寄せてくれて、それには自分も非常に納得しました。
けれども、原発事故とかある種の社会課題みたいなものを取り上げる文脈で、多くの人が自分の都合がいいように当事者を利用している側面も確実にあるんですよね。「当事者の人がこう言っているからお前は間違っている」みたいな、他者を批判するために利用しているだけだということが多かったように思えてしまって。そういう振る舞いを良しとしていくと、結局、語れなくなっていくんですよ。誰もが。
本当は社会全体に対して訴えかけられている問題もあると思うんです。それなのに、当事者ではないのだから、専門知識がないからと気を遣っていくうちに、みんなが腫れ物に触るようになっていってしまう。その結果、本当に苦労している人たちは「みんなと一緒にこの問題を考えたいんだ」と言っているにも関わらず、その声が聞こえてこなくなってしまう。
つまり、そこで必要なのは、当事者は紛れもなく存在するから守る必要がある一方、周囲にいる人の当事者性に気づくには、「当事者」という言葉では足りないんじゃないかという風に考えていったわけです。その概念に当てはまる言葉が「共事者」なんじゃないかと。
こういう言葉を生むことで遠方にいる人が、「俺も何か楽しく関わってみたらいいんじゃないか」とか、「こんな俺だけど何かできることがありそうだな」と思ってくれたらそれで勝利なので。
ーー その「楽しさ」的なところで言うと、小松さんがゲンロンの動画配信プラットフォーム「シラス」で配信する番組「小松理虔のローカルNICEST」の第3回で福島の海の話をするということで観てみたんですが、冒頭30分でものすごく感動しました。本題にまったく入らず延々と地魚料理と地酒の食レポをしていたわけですが、小松さんがあまりにも美味しそうに飲み食いするので「早く本題に入ってくれよ」と不満を持つ以前に「俺も福島行ってこれを喰ってみたいな…」と思ってしまって。考えの違いを超えて視聴者にそう思わせたらそれこそ完全に「勝ち」ですよね。
小松氏の配信番組「【泥酔放送 NICEST #3】福島の、いわきの海の話 原発事故が何をもたらし、そこから何を学ぶべきか」より、「本日のおつまみ」である福島県沖で採れたウスメバルの煮付けを紹介しているシーン
小松:そう言っていただけるとすごく嬉しいです(笑)。やっぱり僕もいろんな活動する中で、「食」というものが本当に大きいコンテンツ力を持っているなということを痛感しているんです。「福島の食品を食べるか食べないか」って、データの捉え方を超えて大きな分断ができてしまっていると僕も感じますが、すごくおいしそうに食べている人を見る時、あるいは自身がおいしいものを食べている時はそうした立場を超えてすごく幸せな気持ちになるじゃないですか。
そこをいったん味わってから小難しい話をした方がいいのかもしれない、一緒に何か食べている感じを共有してもらうことが大事だなということはすごく意識しています。
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