東日本大震災前後から、急速にSNSが普及したこともあり、「良かれと思ってなされるデマの拡散」も「立場の違う人間同士の罵り合い」も何度も目にしてきた。その度に「自分が震災・原発について語る前にもっとちゃんと勉強しなきゃ」と思わされる。
だが、この10年の間に「ちゃんと勉強」できた人はどれだけいただろうか。自分も恥ずかしながら「できなかった人間」の1人である。だからこそ今回の特集では同じように「この10年間の復興をスルーしてきてしまった、被災地以外に住んでいる人」に向けた、今からでもできることがあるとすれば何か、という記事を作りたかった。
今回インタビューするのは福島県いわき市を拠点に活動する、ローカル・アクティビストという一風変わった肩書きを持つ小松理虔(こまつりけん)氏。地元の生活が少し楽しくなる「ふまじめな場」を作り続けてきた同氏に「震災・原発事故を語るということ」をテーマに話をうかがった。
聞き手・文・構成:神保勇揮
小松理虔(こまつ・りけん)
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1979年いわき市小名浜生まれ。ローカルアクティビスト。いわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、いわき海洋調べ隊「うみラボ」では、有志とともに定期的に福島第一原発沖の海洋調査を開催。そのほか、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わる。初の単著である『新復興論』(ゲンロン)が第18回大佛次郎論壇賞を受賞。共著に『ただ、そこにいる人たち』(現代書館)、『ローカルメディアの仕事術』(学芸出版社)ほか。
中国で「ローカルの魅力」に気づき、地元・いわきに戻る
小松理虔氏
―― 小松さんは大学卒業後に福島テレビに就職し、さらにその後、中国の上海で日本語教師や編集・ライターとして働き、そこでローカルの面白さを知って、自分も地元で何かできないかと思っていわき市に戻ってきたそうですね。
小松:はい。福島テレビ時代はローカルメディアにポジティブな感情を持つことができなくて、結局ネタ抜き競争とか、いかに警察や検察官と密着しているか、みたいなところでアウトプットの濃度が変わってきてしまう。そういう取材方法を垣間見てローカルの報道が非常に狭いもののように思えてしまったんです。今でこそ「ローカルがすごく面白いものだ」ということを身をもって感じているんですけどね。
そんな感じで悶々とする中で退職して上海に行って、ようやくローカルな、本当に暮らしに根付いたものが誰かに深く刺さるコンテンツになるということを身をもって感じて、日本語を学ぶ中国人学生たちの動向や意識みたいなことを「はてなダイアリー」で書いていたら、ニッチなネタだったのに結構たくさん読まれて。
例えば、当時自分の周りにいた上海の人たちは洗濯物をガンガン外に干すんですよ。そうして乱雑に並べられたカラフルなパンツやらブラジャーなんかの写真をウェブにアップすると、高層ビル群や高級レストランの写真よりも面白がってもらえてコメントが付いたりする。そうした中から生まれた縁で日本のレコード会社の人に上海のクラブを案内したり、写真家の米原康正さんの現地アシスタントを一時期やっていたりと、刺激的な体験を数多くできました。
上海時代を通じてローカルなものとグローバルなものが、自分のライフスタイルの中に複雑に交差していくというか、グローバルな時代からこそローカルの個性が浮かび上がるんだなと身をもって体験できたと思っています。
―― そうして小松さんはいわきに戻り、木材商社の会社で働きながらオルタナティブスペースの「UDOK.(うどく)」を立ち上げようとした矢先に東日本大震災が発生してしまったと。
UDOK.は震災から2カ月後の2011年5月にいわき市小名浜の商店街の一角でオープンした
小松:そうですね。「UDOK.」も本来は別の海沿いの場所で3月12日に契約するはずだったんですけど、前日に震災が起きてしまったという。
当時、自分が何を考えていたかというと、編集・ライターとかいわゆる「クリエイティブな仕事」をしたいと思って地元に戻っても、そんな仕事なんかあるのかという不安はやっぱりあるわけです。でも、発想を逆転して「食おうとしなけりゃいいんだ」という感じで、就業後、あるいは土日の活動としてライフワーク的に地元の面白い人を紹介するウェブメディアを作ったり、イベントスペースを作ったりしていました。
木材商社時代も地元の建築家や家具デザイナーなどと接点ができて、いろいろ面白いことができそうだなと思っていたんですけれども、会社ではそうした働きを求めていたわけではないので「お前、なんか仕事が終わってからいろんな人に会っているみたいだけど、何をやっているんだ」「自分で会社をやっているみたいだけど何を考えてるんだ」みたいな感じで誤解が誤解を生んで疑われるようになっちゃって。それで震災後の2012年にその会社を辞めてかまぼこメーカーの広報に転職し、さらに2015年ごろに独立して今に至るという感じですね。
「地元の現場で楽しいことをやっている人」を仕事にするということ
今年1月に出版された新著『地方を生きる』
―― 新著の『地方を生きる』にも書かれていましたが、「ローカル・アクティビスト」とは「ローカル(地元/現場)でなんでも屋的に楽しく活動をしている人」であると定義されています。これは名乗り始めた当初からそうした考えがあったのか、後々考え方が変わってきたのか、どちらだったんでしょうか?
小松:僕は基本的に何か深い考えがあってやるタイプではなくて、取りあえずこれだと言ってピャッと何かやってから後付けになって意味が膨らんでくる、みたいなタイプなんです。何事も。
震災があったことによって、より現場に働きかけていく社会起業家とか、そういう人たちがSNSとかでも大きな影響を持つような時代だったかと思うんですけど、最初は「自分もそういう流れにあやかれるような、それっぽい肩書きを持ちたいな」ぐらいの考えしかなかったんです。
僕としてはゲンロンで出版された『新復興論』のベースとなる連載を執筆していた中で「理虔さんは批評とか哲学とか小難しいっぽいことをやっている」というイメージも持たれていたので、そこに対して僕は「あくまでも現場での活動が主体ですよ」ということを主張したかったというのもあったんだと思います。
ローカルというのは「地方/田舎」という意味だけじゃなくて、「現場(にある課題)」の領域という意味もあるから、やっぱりローカル・アクティビストと言っていた方が自分のやっていることに合致するなと思って、やっているうちに何となくこれで良かったんじゃないかというのが分かってくるような感じでしたね。
―― 独立されてからどんなお仕事をされているのかというのは、小松さんのヘキレキ舎のHPでもまとめて紹介されてもいますが、普段はどういうライフスタイルでどういうお仕事をされているのでしょうか?
ヘキレキ舎HPより、小松氏が携わった仕事の一覧。ジャンル問わず縦横無尽に活躍していることがよくわかる
小松:一言でいうと「田舎の何でもやる広告代理店」という感じでしょうか。会社のホームページを作ったりパンフレットを作ったり、自治体の冊子みたいなものを作ったりとか、そうした活動が多いです。
あとは福島だと、どこかの会社が例えば情報発信のプロジェクトみたいなものを国や県からを取ってきて、その中で僕に「このイベントは理虔さんにお願いしたいので、プロジェクトマネジメントも含めてこれだけこういうかたちで関わってください」みたいな仕事もあれば、ライター・編集の仕事と、書いた文章に関して講演するといった仕事も多いですね。あと地道なのは、地元の中小企業のFacebookアカウントを10個ぐらいやっています。
そうした広告代理店的な仕事をしていると「対象の魅力を伝える」以外の課題、復興の背景とか地域に起きている問題の部分もどうしても見えてくるんですよね。ただその「課題」は広告代理店的な役割として仕事にするのは難しいので、文筆・講演業としてカバーしていったりもしています。
―― 少しずつ多くの企業・団体と仕事をすることで収入源を1つに依存しないというメリットもありますし、活動の幅を広げることで別の仕事のネタも集まって一石二鳥ということですね。
小松:そうなんですよ。木材商社の時に知り合った材木屋さんの社長さんから「小松君は前に記者をやっていたなら文章も書けるはずだ」と言われて、その会社がやっている市内の住宅情報の情報サイトの立ち上げに関わらせてもらって、地域のビルダーさんとか建築家に僕がインタビューするという仕事をやっていたことがありました。
取材すればするほど、いわきでの「いい家とダメな家の違い」が分かるようになってきて、自分の家もその縁で知り合った建築家さんにお願いしましたし、そういう風にネットワークをつくると今度は別の工務店さんから、「この間のインタビューは非常に良くまとめていただいたので、うちのウェブサイト用のインタビューを理虔さんにお願いできますか?」みたいな話になったりとか、友人が家を建てるというので工務店を紹介したら商品券をもらっちゃったりとか。
キモなのは仕事の対価を全部現金でもらうみたいなかたちにするんじゃなくて、常にいくらかの人たちと貸し借り状態というか、「前に良くしてもらったからお返ししなきゃ」という状態を維持して延々と回していけるようにしておくことですね。その縁のつながりに次の仕事のヒントもあるし、自分が生きていく糧とか社会の課題みたいなものが見えてくるんですよ。そういうところが今の自分のスタイルかもしれないですね。
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