CULTURE | 2021/01/25

誰かの再出発を支えるには?—更生保護法人 長崎啓成会

「普通の生活ができるようやり直したい。でも、支えてくれる家族がいない」——。そんな人たちの共同生...

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「普通の生活ができるようやり直したい。でも、支えてくれる家族がいない」——。そんな人たちの共同生活を見守る場所がある。それが、更生保護施設。刑務所を出て、“再出発”を目指す人たちが暮らしている。全国にある施設の中でも、長崎市にある長崎啓成会の歴史は長い。明治時代、刑務所職員が「身寄りのない人ほど再起が難しい」と気付き、服役を終えた人たちを自宅に住まわせたのが始まりだ。それ以来、多くの人の社会復帰を後押ししており、そんな長崎啓成会の活動を、JKAは支援してきた。では、どうして“再出発”を支える必要があるのだろうか。窃盗の罪を犯した、ある男性の話から始めたい。

誰かの再出発を支えるには? —更生保護法人 長崎啓成会

窃盗罪で実刑1年。「金貸して、生活苦しく」

2020年11月、啓成会の2階、藤井啓さん(55歳、仮名)の約10畳の個室には、備え付けのベッドとテレビ、電話、それに加えて、小さな棚だけがあった。映画鑑賞が趣味だといい、テレビ台にはたくさんのDVDが整然と並べられている。

そんな藤井さんの話は、金を「貸した」話から始まった。西日本のある地域で、解体業に従事していた数年前の話だ。

「『お金がない。必ず返すから』と言われ、同僚に数万円を貸しました。その後も頼まれ続け、いつの間にか(総額は)17、8万円になっていました」

藤井啓さん

しかし、貸した金はなかなか戻ってこない。一人暮らしとはいえ、余裕のある生活ではなかった。次第に、自分の生活が苦しくなり始めた。

そんなある日、振り込みのために訪れた郵便局で、落ちていた財布が目に止まり、思わず手に取り、持ち去ってしまう。中身は1万数千円だった。生活費として使った後に逮捕され、窃盗の罪に問われた。

「被害弁償をしていれば、起訴にはならなかったと検察官に言われました」と藤井さんは言う。しかし、財布の賠償費用も含めた2万数千円が出せなかった。金を貸した相手に「一部でいいから」と頼んだが、返ってこなかった。会社の給料も前借りできなかった。頼れる家族や親戚もいなかった。自宅の家電を売ろうと頼んだ知人とは、その後連絡がつかなくなった。「もちろん自分が悪い。でも、誰も助けてくれんかった」と、ベッドに腰掛けた藤井さんが力なく言う。

結局、過去の窃盗もあり、判決は実刑1年だった。今年7月に仮釈放となり、「誰も知らん、新しい土地でやり直したい」と長崎での再起の道を選んだ。

映画を観るのが趣味だという

更生保護施設での滞在期間は原則6カ月まで(少年は延長可能)。それまでに規則正しい生活習慣を身に付け、仕事を見つけるなどして、自ら生計を立てられるようになる必要がある。その間、啓成会は生活支援に加えて、職業の斡旋をしてくれたり、福祉機関とつないでくれたり、今後の生活について相談に乗ってくれたりする。

藤井さんは、7月は働いていたものの、現在は体調を崩して通院中。「健康になったら仕事を探して、自分のできる範囲で生活できるようになりたい」と話す。「再出発に必要なものは?」と聞くと、こう答えた。

「自分にとっては人間関係が一番難しい。長崎は知り合いのおらん場所で、頼れる人もいない。社会で生活できるようになる準備期間に、啓成会のような場所が必要です」

更生保護施設には専属の調理員がいて、1日3食提供される

115年前から「再起」を支える

「ここには、身元引受人のいない人たちがやってきます」と啓成会の施設長、川内哲也さん(73)が言う。川内さんは長年、保護観察官として犯罪や非行をした人の社会復帰のための指導や支援を行ってきた。定年退職後の2008年、観察官時代から縁のあった啓成会の施設長に就任した。

更生保護施設は、出所後に身を寄せる場所のない人の社会復帰を助けるため、全国103施設が国の委託を受けて運営され、年間約6000人を受け入れている。法務省の犯罪白書によれば、2019年の刑法犯認知件数は74万8559件(うち約7割が窃盗罪)と戦後最少を更新した一方、再犯率(検挙人数に占める再犯者の割合)は48.8%と高い。この「再犯率」が課題だという。

川内さんが、自身の経験も踏まえて言う。

「根っから悪い人はそういません。どこかで“落とし穴”に落ちたんです。お風呂があって、お腹いっぱい食べることができて、安心して眠れて、それに仕事があれば、頑張れる。身寄りのない人ほど再起が難しい現状がある以上、彼らを支え、再犯を減らしていくことが安心安全な社会につながる。そのために、更生保護施設はあります」

施設長の川内哲也さん。啓成会で500人近くの社会復帰を支えてきた

更生保護施設の中でも、啓成会は制度の黎明期に生まれた長い歴史を持つ。

啓成会の記録によれば、1905年、長崎刑務所(当時は長崎監獄)の元職員、塩山宗一氏が長崎市内の自宅に出所した人たちを住まわせたことが始まりだ。その後、学校の教員や市内の寺院の支援を受け、多くの釈放者を支援してきた。だが、1945年8月、米国の原爆により、「施設一切が廃墟となり、その折り、職員・収容者も死亡した」という。

敗戦後、生き延びた関係者が再建に動き、1948年に新しい施設が落成。1957年に現在の場所に移転した。その後、施設の老朽化が進んだため、支援や寄付を受け、2020年6月、現在の3階建ての施設を新築した。「(前の施設は)漏水でカビが生え、更生保護施設の機能が果たせなくなっていた。限られた資金の中、支援がなければ建て替えはできませんでした」と川内さんは言う。

新築した啓成会。1957年の移転の前は、この辺りは竹藪だったという

住んでいるのは“怖い人”?

5カ月前にできたばかりの施設には新築の匂いが残っていて、3階の個室はまだ全て空だった。改築にあたり、重視したのは入所者の高齢化や障がい者への対応と「地域とのつながり」だという。

川内さんによれば、近年、釈放者の高齢化が進んでおり、啓成会の最高齢も74歳。車いすの利用者にも対応できるよう、エレベーターも整備した。福祉機関との連携を深めていくため、看護師資格を持つ職員も雇った。

さらに、「更生には地域住民の理解が欠かせない」と地域交流室を新たに設けた。窓は大きめにして、部屋の中にたくさんの光が入り込むようにした。新型コロナウイルスの影響もあってまだ活用できていないが、「地区住民の集まりなどに使ってもらいたい」と川内さんは言う。

「更生保護施設は、怖い人が住んでいる、迷惑施設、と見られがちです。でも、暮らしているのは社会復帰を目指す人たち。彼らにとって、人とのつながりは不可欠です。まずは足を運んでもらって、知ってもらうことから始めたいです」

「社会に孤立を防ぐ場を」

「(更生保護施設があることへの)住民の不安も理解はできる。でも、社会には必要な施設です」と話すのが、啓成会のすぐ東にある田上寺の20代目住職、飛永有斗さん(45)だ。生まれる前から啓成会は今の場所にあったが、初めて足を踏み入れたのは9年前、地域の保護司を引き受けることになってからだという。

飛永有斗さん

保護司は、法務大臣から委嘱を受け、犯罪や非行をした人の立ち直りを支える民間のボランティア。保護観察期間中の人と面接をして生活状況を調べたり、生活相談を受けたりしている。

飛永さんは活動を通じて、「加害者」となった人たちの存在を身近に感じるようになったという。生活が苦しかったり、仕事のストレスで追い詰められたりして犯罪に手を出す人がいた。交通事故で予期せず「加害者」になった人もいた。「自分や身近な人がそういう立場になることも十分にあり得る」と思うようになった。

「話を聞いていると、『自分は前科者だから』と負い目に感じている人が多いんです。人との関わりを避け、孤立してしまう人もいる。家族や友人と疎遠になる人もいる。でも、人が自立して生きていくには、自分を無条件に受け入れてくれる人が必要です。人と関わりながら、少しずつ変わっていく。啓成会での半年間は、社会に適応する慣らし運転のような時間だと思います」

必要なのは、誰かと共にいる時間

啓成会での生活を経て、再起を果たした人もいる。濱崎翼さん(30)もその一人だ。高等技術専門学校に在学中、無免許運転などを繰り返して少年院に入った。退院後、父親が引き取りを拒否したために行き場がなく、18歳で啓成会に来た。

当時から施設長だった川内さんによれば、入居したばかりの濱崎さんは、一緒に暮らす大人たちとよく衝突していたという。それでも、時間が経つにつれて非行は減った。「協力雇用主」の元で解体業の仕事をするようになり、仕事ぶりを評価され、2年後に施設を出た後もそこで働き続けた。親方も、機械の免許取得などを積極的に支えてくれた。

解体業に従事する濱崎翼さん

「翼は、特別な転機があって更生したわけではない」と川内さんが振り返る。濱崎さんに必要だったのは「時間」だった、と。それも、一人きりの時間ではなく、いろいろな人と関わりながら過ごす時間だ。関わりを重ねる中で、濱崎さんの心の棘が柔らかくなっていったという。

濱崎さん本人は「当時の自分は、親の愛情が欲しかったんだ。もっと構ってほしかったんだ」と大人になって気付いたという。家では、父親が男手一つで自分と妹を育てていた。仕事ばかりで家にはほとんどおらず、10歳で養護施設に入れられた。寂しかった。だが、その気持ちを言葉にすることができず、「荒れるに荒れて」非行に走った。

今では、自分も3児の父になり、家庭でも仕事でも責任のある立場になった。「家族や従業員を食べさせるためには、仕方がない部分もあった」と父親の気持ちも分かるようになった。

成長の過程で、「心の依り所」になってくれたのが、川内さんや当時の担当保護司、中村正則さん(80)だったという。濱崎さんは振り返る。

「『こうしたい』『こうなりたい』という話をすると、二人はどんどん背中を押してくれました。否定することなく、対等な立場で向き合ってくれた。昔の友達とは縁を切った中で、信頼できる二人の存在は大きかったです。保護司や啓成会と出会っていなければ、自分はまた別の道に行ってしまっていたかもしれません」

濱崎さんと話す、元保護司の中村正則さん。今でも付き合いが続いている

濱崎さんは昨年に独立し、仲間と一緒に解体業の会社を立ち上げた。事業が軌道に乗れば、自分と同じように「やり直したい」という人たちも雇いたいと考えている。自分も同じ立場だったから、分かることが多い。幸運が重なって、今の自分がここにいることも知っている。

「(更生に)まず必要なのは、仕事。その中から、自分の方向性が見つかっていく。偉そうなことは言えないけれど、働きたい人がいれば、啓成会からも雇い入れたい。うちを、次に踏み出すための踏み台として使ってもらえたらいい」

取材の日、啓成会には新たな住人が増えた。真新しい部屋が一つ、また一つと埋まっていく。年明けには、何人かが旅立ちの時を迎える。

人が自立するためには、誰かに支えられることが必要だ。でも、その「支え」は全ての人にあるわけではない。ないなら、誰かがつくるしかない。つくり続けるしかない。


JKAは、競輪とオートレースの売上を、機械工業の振興や社会福祉等に役立てています。

CYCLE JKA Social Actionより転載