CULTURE | 2020/12/17

なぜVTuber「おめがシスターズ・レイ」の出産報告はここまで祝福されたのか?YouTubeという場所に”最適化”しない勇気

「実は、出産しました」より

Jini
ゲームジャーナリスト
はてなブログ「ゲーマー日日新聞」やnote「ゲーム...

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「実は、出産しました」より

Jini

ゲームジャーナリスト

はてなブログ「ゲーマー日日新聞」やnote「ゲームゼミ」を中心に、カルチャー視点からビデオゲームを読み解く批評を展開。TBSラジオ「アフター6ジャンクション」準レギュラー、今年5月に著書『好きなものを「推す」だけ。』(KADOKAWA)を上梓。

絵が喋るだけで1億円稼げるという誤解

今YouTubeにアクセスすると、画面の片隅にコミカルに戯画化されたキャラクター(多くは美少女、次いで男性、中には動物やロボットもいる)が直立不動の姿勢でこちらを向いたサムネイルの動画が、検索結果いっぱいに表示されるだろう。

それらの一つをクリックすると、美少女ないし何らかの有機物は口をパクパクさせ、目をたまに見開いて、思うまま自分の考えを訴えたり、本人の操作するビデオゲームの画面に多様なリアクションを取ったり、時折、スーパーチャットというファンが投げ入れたおひねりに感謝の言葉を述べている。

彼らは、典型的なバーチャルYouTuber(以下、VTuber)である。元々、日本のZ世代~ミレニアム世代を中心に構築されてきた「動画配信文化」は大きく分けて、「Hikakin」や「はじめしゃちょー」など等身大の人間が出演する「YouTuber」と、「弟者」や「キヨ」など肉体は一切公開せず声のみでアピールする「ゲーム実況者」の2パターンあった。VTuberは、ポリゴンのテクスチャで形どったアバターでこの2つの中間を埋め、瞬く間に人気を博した。

本格的にVTuberの存在が広く認知されるきっかけとなったのは、2016年の「キズナアイ」の登場だった。

VTuberの中でも、とりわけ注目を集めるのが生放送を中心に活動するVTuberたちだ。動画とは異なり、リアルタイムでファンと会話したり、ゲームをプレイする様子をカメラに映して配信している。「にじさんじ」や「ホロライブ」のように複数のVTuberタレントを擁する事務所も現れ、事務所内で相互にコラボするなどして交友関係を演出。組織的な影響力を発揮し、一躍YouTubeの中心的存在となっている。特にファンの膨大な「投げ銭」の収益は破格で、日経も「Vチューバー、雑談で1億円 投げ銭世界トップ3独占」というタイトルで記事を出した。

「にじさんじ」には、多くの人気VTuberたちが在籍する(にじさんじホームページより)

だが多くの読者は疑問に思うはずである。なぜ、とびきり有名な芸能人でもなく、まして自分の姿すら晒さない女性が何千万円も稼げるのか?と。長い間、動画を含むネット文化に浸ったオタクですらそう思うヒトは少なくない。

発想は逆である。有名でもなければ、姿すら晒さないからこそ、ファンは彼女たちに投げ銭をするのだ。

VTuberとは「距離感の芸能」だと私は思う。中でも生放送中心のVTuberは、ファンが自由に発信するコメント内容に合わせて雑談や反応をするし、特に投げ銭=スパチャに対しては、感謝の言葉に加えて、同時に送信される質問に答えたり、要望によって何らかのモノマネをしたりもする。ここでのスパチャは、少なからず性的な疑似接触を期待する動機を付帯するものもあれど、本質的には相互的かつ対等なコミュニケーションだ

スパチャに入れ込む私の友人はその感覚を「まるで友達と話しているような感じ」と話す。限りなく視聴者に近い距離を維持しながらも、ピクセルで出来たアバターを介することでギリギリ「一線」を保ち、電子的な「放課後の教室」を作り出すことにVTuberの魅力はある。

利己的な姉妹に、心奪われた

このような数々のVTuberがいる中で、私がずっと一貫してチャンネル登録し、動画を視聴し続けているVtuberがいる。それが今回紹介する、レイとリオの2人組のVTuber、「おめがシスターズ」だ。

私は彼女たちが好きだ。誤解を恐れずに主観を述べると、彼女たちは良い意味でもっとも「利己的(Selfish)なVtuber」の1組なのだ。

レイが「新しい趣味を見つけたい!」というなんともふわふわした動機で最新のカメラ(40万円)を購入してリオに呆れられる動画。個人的に2人の掛け合いがとても微笑ましい名作だ。

レイも、リオも、2人は視聴者やYouTubeというプラットフォームにおける、再生数や高評価を効率的に生むための空気や伝統に縛られず、ただ自分がやりたいことをやり、言いたいことを言い、自分たちらしさをどこまでも貫く。当たり前のようで、芸能界や映画業界、そしてYouTubeという世界観でさえ、長い時間の中で無自覚の裡に蓄積した「空気」と「収益」を、2人はまるで意に介さない。それが「利己的」と、好意的に私が考える理由である。

それでいて、彼女たちは自分たちのある種(考えようによっては)欠点とすら考えられる性質も、惜しげもなく見せる。例えば初期と比べて声のトーンが2段階ぐらい下がってること……ではなく、リオが漢字を全然読めなかったりすることや、レイの浪費癖が止まらないことも、すべて動画にしてしまう。

何より、彼女たちは双子の姉妹とは思えないほど、人格も価値観もまったく異なる。例えば、レイは年中ゲーム三昧の私でも圧倒されるほどのオタクで、開封していないガンプラ(=積みガンプラ)だけで自分の背丈を超えるのかみたいな動画を出している一方、リオはまったくオタクの気がなく、レイのオタクトークを「うんうん、わかるぅ~」と間の抜けた相槌で流しつつ、レイが愛好する遊戯王の話題が唐突に出る度に「で~た~な~遊戯王!」と冷やかす。では彼女が何に熱中するかといえば、小学生みたいに「うんち…ぷふふw」だのと下ネタで騒いでいて、それをレイが軽くバカにしながら流すといった具合だ。

この2人は驚くほどちぐはぐで、正反対で、一体どうしてコンビを組んでるのかわからないのに、それでいて驚くほど仲がいい。というより、それは家族愛そのものだ。レイが趣味全開の長話を始めたら、リオがそれを優しく笑って聞き、またその逆のパターンもある。けれどそれを矯正しようとはしない。姉妹はお互いの「個性」を尊重しているからだ。彼女たちは常に等身大の姿を、自信たっぷりに見せる姿に、ある種のカリスマを見出さずにいられないのである。

もちろん、彼女たちには卓越したタレントもある。中でもレイのガジェットに対する情熱と知識は、他のオタクの追随を許さない。現実の映像に3Dモデルをはめ込んだり、レイが中心となっておめシスの技術力は日々向上しているし、一方でリオは素人とは思えない歌唱力で(レイもすごいが)、King Gnuの「白日」をうたった動画は160万再生を記録。実はおめシスの再生数トップの動画はほとんど歌動画だ。

欠点と強み、その2つをごまかすでなく驕るでなく、ただありのままの自分の姿として、彼女たちは動画の形で表現し続けてきた。それは良い意味で、とても利己的だ。レイはVTuberを始めた理由を「(キズナアイやねこますに憧れて)楽しそうだからやってみた」とインタビューに答えているが、これは本心だと確信できる。何をやるにも、とにかく楽しそうなのだ。その飾らない魅力が、私がおめシスの動画に夢中になる理由だ。

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VTuberの出産報告が祝福された理由

おめシスは、最初に紹介した「にじさんじ」や「ホロライブ」に所属するような主流のVTuberと比べると、対照的に思える。生放送ではなく動画が中心で、忌憚なく自分の趣味や主張を表現し、アバターもリボンと、セクシーさよりはキュートさをアピールしたショートパンツで、どちらかといえば中性的なスタンスだ。

ただ、わたしは今の主流のVtuberが下品だとか、がめついとは思わない。彼ら・彼女らとおめシスは対照的だが、それは優劣の問題ではなく、スタンスの問題なのだ。

すなわち、「VTuber」という様式と技術を用いて、一体何を表現するのか?という問題である。スパチャを交えて生放送でがやがやとお祭り騒ぎをするのも一つの「VTuber」だし、ただ自分の趣味を動画にパッケージして公開するのも一つの「VTuber」、つまり各々の数だけ「VTuber」はあっていい。その多様性こそむしろ面白いと思う。

問題(あるいは、気味悪さ)があるとするなら、それは視聴者とプラットフォーム(YouTube)の側にあると私は思う。Vtuberに限らず、表現者と視聴者の距離感が近くなりすぎると、次は表現者をローカルルールや風習でコントロールしようとする視聴者もまた出てくる。そしてプラットフォームはアルゴリズムや広告の「勝者総取り(Winner takes all)」の構造を作り出す中で、ひたすら表現者に「空気を読むこと」を迫り続ける不毛なラットレースに双方を追い込んでいってしまう。その結果、ごく一部の過激なファンが暴走し、それを巷で「炎上した」と冷やかされる。

文化が発展すると同時に、ムラ社会化していくグローバルプラットフォームの中で、おめがシスターズは自立を模索し続けている。一時的にupd8という事務所に所属した時は、少なからずムラへの帰属を検討しているように思われたが、実際にはupd8に所属している間も、また(事務所のクローズにより)再び独立してなお、そのパフォーマンスには一貫したおめシスイズムが存在する。

その最たるものが、11月19日の20時に、おめがシスターズのレイが自身の子供を出産したことを堂々と打ち明けた、「出産発表動画」だろう。

肉体を持たないバーチャル的存在が、(レイの生身としての存在である、おめがのハコという代理人を用意したとして)新たな生命を誕生させた限りなく肉体的事実を表現する動画を投稿することに、レイ自身ですら「賛否両論あると思う」と戸惑いがあったという。

だが実際には、動画のコメントは無論のことSNSにまで祝福の声が溢れ、Twitterではトレンド入りするなど、多くの人に喜ばれた。

私自身、この動画を見て思わず震えていた。

これまで、VTuber文化はピクセルで構成された肉体に精神を宿すという構造から、その背後にある「後ろめたさ」を邪推する人は少なくなかった。

しかし、おめシスは(他の表現者たちと変わらず)「後ろめたさ」など欠片ほども見せず、これまでと同じようにバーチャルの姿を自己主張するために最適化された肉体を用いて、己の定義する自己を表現しきった。

ここに、元来アーティストやエンジニアたちが期待したVTuber的な技術、文化、形式の可能性が、「1億円稼ぐ」ことよりも余程未来のある形で、一つの結実を迎えたと私は確信している。

即ち、自立するためのVTuberである。レイの浪費癖やリオの下ネタ癖の上に、1人の母親として生きるという大きな決断さえ包んだ、自分の信じる自分らしさを、プラットフォームやコミュニティを尊重しつつも束縛されるでなく、貫き通す。彼女たちの対照的な青と赤の衣装と、(自立式)リボンは、正にそのための外装だったのだ。

近頃、私は以前と比べSNSや動画投稿サイトから距離を置くようにしている。本来こうしたグローバルプラットフォームは多様な人々を結び、新たな議論を呼ぶと期待されていた。だが実際には、むしろ同質的な人々の繋がりをより限定された生暖かい暗所でカビのように慰め、プラットフォームは広告展開を最適化する上でますますこの暗所化を促すばかりで、むしろ中世以前のムラ社会を再現していることに、私は失望したのだ。

そんな中、プラットフォームの促す最適化に対して、一部のクリエイターやアーティストが適応する一方でオルタナティブを提示し、ただ楽に流されるだけでない遊び方でコミュニティを形成していく光景も生まれつつある。

おめシスは正にそのオルタナティブの一つであり、こうした表現者たちの勇気こそがプラットフォームの中で新しい価値観を再生していくのではないだろうか。