ITEM | 2019/06/24

10年超の沖縄ヤンキー参与観察録 輪郭をつかみにくい「地元」という土台【ブックレビュー】


神保慶政
映画監督
1986年生まれ。東京都出身。上智大学卒業後、秘境専門旅行会社に就職し、 主にチベット文化圏...

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神保慶政

映画監督

1986年生まれ。東京都出身。上智大学卒業後、秘境専門旅行会社に就職し、 主にチベット文化圏や南アジアを担当。 海外と日本を往復する生活を送った後、映画製作を学び、2013年からフリーランスの映画監督として活動を開始。大阪市からの助成をもとに監督した初長編「僕はもうすぐ十一歳になる。」は2014年に劇場公開され、国内主要都市や海外の映画祭でも好評を得る。また、この映画がきっかけで2014年度第55回日本映画監督協会新人賞にノミネートされる。2016年、第一子の誕生を機に福岡に転居。アジアに活動の幅を広げ、2017年に韓国・釜山でオール韓国語、韓国人スタッフ・キャストで短編『憧れ』を監督。 現在、福岡と出身地の東京二カ所を拠点に、台湾・香港、イラン・シンガポールとの合作長編を準備中。

なぜ「沖縄のヤンキー」にこだわるのか

打越正行『ヤンキーと地元』(筑摩書房)は、沖縄のヤンキーに焦点を絞って、彼らの「その後」も含め2007年から粘り強く調査がなされた研究録である。

著者が沖縄のヤンキーを対象に参与観察(社会調査の手法の一つで、調査者自身が対象の社会や集団に加わって観察・情報収集する方法)するきっかけとなったのは「ゴーパチ」の存在だ。「沖縄の大動脈」とも言われている国道58号線の通称で、海をまたいで鹿児島市・種子島・奄美大島にまで及んでいる。沖縄で唯一の片側三車線道路であるこの場所を暴走していたヤンキーたちは、地元民にとっても「見もの」で、調査をし始めた当時に著者は100人ほどのギャラリーと「暴走見物」の時間を共有したこともあるという。

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地元は彼らの領分であり、先輩が正しい。他方で、パトカーの車内や取調室は相手の領分で、殴られても仕方がないと彼らは考えていた。地元の論理と警察の論理がぶつかり合うのが、ゴーパチだった。そこは地元の中学生が一人前の暴走族としてデビューする場所でもあった。(P31)

本書でも紹介されている通り、ヤンキーの参与観察に関しては1984年に出版された社会学者・佐藤郁哉の著作で、フィールドワークの基本書としても有名な『暴走族のエスノグラフィー モードの叛乱と文化の呪縛』(新曜社)がある。著者が明るみに出そうとしたのは、第二次世界大戦後から今に至るまで本土から沖縄に突き付けられてきた負担と、貧困率が全国平均を10%ほど上回る沖縄で暮らすヤンキーたちの現実がどう関わり合っているかであった。

著者が沖縄での調査を決めたのは、数学の教師になるつもりで進学した琉球大学在学中の1998年に、たまたまコンビニにたむろしているヤンキーたちと話し、成り行きで地べたに座って彼らと乾杯した記憶からだった。著者は沖縄の前に自分の地元である広島で暴走族の参与観察をしていたが、この出来事に強く惹き付けられ、「もうひとつの地元」である沖縄にフィールドを移したのだ。

著者は参与観察をより充実したものとすべく、広島時代は暴走族のパシリになることでバイクの後部座席に乗せてもらい、沖縄では10年にわたって実際に建設現場で働いてきた。よそ者による「潜入」ではなく、仲間として「同化」することによって初めて見えてくる地平を本書では詳らかにしている。調査を始めからは10年強だが、「沖縄のヤンキーと同じ地べたに座った」という原体験から起算するならば、本調査は約20年がかりのプロジェクトといえるだろう。

観察者に徹する著者を踏み台にして、ヤンキーの地平を展望する

20代、30代と歳を重ねた元ヤンキーたちは、どのような「その後」を送っているのか。著者が調査した社会集団は慢性的な仕事不足状態にあったため、「キセツ(県外へ出稼ぎに出ること)」に行く者が多かった。キセツをした後、地元に戻ってきた仲里(おそらく取材当時20代後半か30代前半)という男性は、解体屋で10年以上働いて一人前になったものの、日々将来に不安を抱えながら過ごしていたという。

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仲里は借金を重ねていた。大手金融会社から借りて、引っ越すことで借金を踏み倒すということを繰り返していた。彼は「住民票、移さんかったら、大手(金融会社)は追いかけてこない。そもそも俺、いま住民票もどこあるかさえ、わからんしよ」という。借金を踏み倒す代わりに、年金や各種保険などの公的扶助を受けられなくなっていた。 (P120)

職場と生活の場はどちらも地元で、学歴もお金も欠く彼らはモチベーションだけでは容易にそこから抜け出すことができない。そうした中で、「沖縄ではトップにならないと意味がない」と事業を立ち上げる者もいた。「こき使われるのが嫌だから」という理由で、元ヤンキーの洋介は20代後半で風俗業界に足を踏み入れた。

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建設業やキセツでの経験から、合法的な仕事で人の上に立つのは困難だと身にしみてわかった。こうして彼は、「白い粉と女を売」ること以外で、上に立って稼ぐ道を模索し、「女で食ってく」と決意するにいたった。 (P164)

著者が本書の描写で一貫して守っているのは、彼らの存在を「まだ見ぬ異質な存在」として読者にひけらかさないスタンスだ。「逆境に負けずに元ヤンキーたちは頑張って生きているのだ」と肩入れすることもなく、読者の踏み台となるような視点に徹している。ヤンキーの土壌のど真ん中にある台の上へ連れてこられた読者は、その土の上に足を踏み入れること強いられない。読者と書中の登場人物たちの人生は一生交わることはないかもしれないが、どこかに彼らは確実に生きているのだという「存在感」が読者の心に残るような姿勢が守り通されている。

ヤンキーたちの足跡が示してくれる、「異なる人生の土台」の存在

おそらく本書を手に取るのは、描かれている人物たちと境遇が同じ者より、異なる者が圧倒的に多くなるだろう。なぜならば境遇が同じ者は、あえて本書に書いてある事実を知る必要がないからである。つまり、読者のほとんどは自分の人生とは違うものとして、本書で描かれている人生を眺めることになる。著者はこうした「差異」を強調して踏み台を高くしてしまうのではなく、「人にとって地元とは何か」という問いかけから、読者をあくまでヤンキーたちと同じ地平に留め、ひとつでも多く共通点を提供しようとしている。

たとえば、ヤンキーたちは地元の価値観を毛嫌いしているが、いざ地元を離れても「地元の考え方」や繋がりが染み付いて簡単に切り離せない事を示すエピソードが本書に収録されている。下記の引用は、中卒の勝也が本土(本州)にいる先輩から「出し子(オレオレ詐欺のATM出金代行)」の誘いの電話を受けた直後の発言だ。

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勝也 俺なんかしーじゃ[先輩]ばんない[たくさん]いたんですよ。マナブ先輩。やってるの、内地で。俺なんか、しーじゃ(が)成功してから帰ってきてるんですよ、詐欺で。やっぱり、まわりもみんな捕まるみたいなんですよ。やっぱり、あれって言ってました、「人間、欲が出てくる」って。(P240)

出し子の誘いが来ることはなかなかないかもしれないが、ばらばらに散らばった「地元の仲間たち」が思わぬ機会に思わぬつながりで再浮上してくることは、境遇が異なる人にも起きる、ごくごく一般的な出来事ではないだろうか。こうして、ヤンキーたちの存在を引き寄せたアプローチを、著者は読者に惜しみなく分け与えてくれる。

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人が生活し働くうえで土台となる文化を理解すること、その理解をもとに想像をめぐらすこと。いかに地道な営みであっても、そのことを手放すことはできない。(P292)

「異なる土台」を理解することは、沖縄基地問題を含め、世の中の諸問題を解決する重要な糸口となる。本書執筆のための調査を継続的に行うにあたって、約130万円がクラウドファウンディングで調達された事実からも、著者のそうした姿勢が多くの人に支持されていることを伺い知ることができる。

現在の「ゴーパチ」は取材開始当時の賑わいを失っているという。その約10年で沖縄を取り巻く現状も激変してきた。しかし、本書ではそうした「沖縄像」はあまり映り込んでいない。これは、著者が全体ではなく部分的・断片的な「若者たち」と彼らのその後を継続的に追うことで、その実像をより強く映し出すことを選択した結果である。「“そう”ではない人生」をそっと読者のそばに置いてくれる本作は、沖縄を取り巻く諸問題を超越して、他者との関わり合い方がどうあるべきかという普遍的な事柄を読者に説いてくれる。