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矢野利裕
批評家/ライター/DJ
1983年、東京都生まれ。批評家、DJ。著書に『SMAPは終わらない』(垣内出版)『ジャニーズと日本』(講談社)、共著に大谷能生・速水健朗・矢野利裕『ジャニ研!』(原書房)、宇佐美毅・千田洋幸編『村上春樹と二十一世紀年代』(おうふう)など。
『新潮45』の杉田水脈・小川榮太郎問題にどう向き合えばよいのか
数カ月前、『新潮45』に杉田水脈氏の文章が掲載されて問題視された時、「教育現場でLGBTをどのように教えているか」というテーマはどうか?、という提案を受けた。それも大事な話だなとテーマ候補のひとつに考えていた矢先、小川榮太郎氏の騒動が起こり、あれよあれよのうちに『新潮45』は休刊。現在では、文芸誌『新潮』の編集長・矢野優氏が、『新潮』2018年11月号の「編集後記」で『新潮45』を批判、同号に掲載された高橋源一郎氏の「「文藝評論家」小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた」がウェブ公開され話題を呼んでいる、という状況である。
個別に考えるべきことはたくさんある。杉田氏と小川氏の文章は明らかに問題含みである。杉田氏の論考を真正面から批判したものとしては、『すばる』(2018年11月号)に発表された、詩人の榎本櫻湖氏による「それでも杉田水脈はわたしを差別していないと言い張るのだろうか」が、地に足をつけた議論で、冷静かつ痛烈である(榎本氏の議論に関しては、「「性同一性障害」だったわたし」『現代詩手帖』2017年11月号も参考されたい)。
一方、高橋源一郎氏の文章はおおむね評判が良いみたいだが、個人的にはあまり良いとは思わない。例えば、「そう思うと、おれは、彼らを、簡単に責めることができないのである」という末部の一文。全著作を読んだ高橋氏の誠実さのあらわれと取れるが、個人的には、「簡単に責めることができない」うえでなお、そこに向き合ったうえでなされる批判の方が誠実だと思う。一方、ちらほら言われるように、全体的に悪意に満ちた皮肉なのだとすれば(俺は「皮肉」という表現方法を察知すること自体が苦手なのだが)、それはそれで向き合っていない、と感じてしまう。加えて、文芸誌『新潮』の態度についても、批判する気持ちにはそれほどならないし応援したい気持ちもなくはないが、読者の視線としては、内輪の騒動を見せられている、という気分も正直ある。
ネットでは抽象的な理念「だけ」が振り回されすぎている
どうも、立場の違いにかかわらず、ところどころ、現実との接点が見失われがちな気がする。一連の騒動で疑ってしまったのは、おもにネット上で、あまりにも抽象的な理念だけが振り回されているのではないか、ということだ。「平等」という理念、「人権」という理念、「多様性」という理念……。この文章で主張したいことは、以前書いた部活動をめぐることとほぼ同じである。すなわち、抽象的な理念が具体的な現実と接触する部分に目を向けるべきではないか、ということだ。
参考記事:「酷暑下の部活問題」について現役サッカー部顧問が考えたこと―「正論」をいかに現場に接続できるか
https://finders.me/articles.php?id=354
このことについては、批評家・綿野恵太氏の「差別を批判する論理が、「アイデンティティ」から「シティズンシップ」に代わりつつある」(「「みんなが差別を批判できる時代」に私が抱いている危機感」)という議論も示唆に富む。理念的には、「平等」であるべきだし「人権」はないがしろにされてはいけない。「シティズンシップ」という観点から、なんの文句もない。しかし、理念やイデオロギーが実体や現実と離れて振り回されることには、綿野氏と同様、警戒する。
「教育現場でLGBTをどのように教えているか」ということに引きつけて言えば、例えば、教員としての僕が考えるのは、以下のような場面である。クラスには、LGBT当事者がいる(実際に、過去にはトランスであることをカミングアウトしていた生徒もいた)。一方、同じクラスには、LGBTに関する知識がなくて、軽率に「キモっ!」みたいなことを言うヤツがいる。彼/彼女らは、同じクラスメイトで友人同士だ。お互いに話をしているし、一緒の教室で勉強をしている。
敵味方の分断にも、内輪のポジション確認にも与しない「言葉」を探すこと
すごく当たり前なことだが、大事なのは、適切な知識を持つことで隣にいる友人を傷つけない、ということだ。そこには、抽象的な理念以前に、現実的で具体的なコミュニケーションの問題がある。授業の流れでLGBTに言及することはしばしばあるが、その点で言うと、気をつけていることがあるとすれば、話を現実的なコミュニケーションのレヴェルに落とし込むこと、理念的な話にいたるまでの文脈を作ること、とかだろうか。
なんのことはない。具体的な例を挙げると、学生時代、男の人に告白された友人(男性)の相談を受けた思い出を紹介したり、トランスジェンダーの生徒との実際にあったエピソードを紹介したりするなど、まずは、LGBTの話題をコミュニケーションにおける「あるある」の話題として提示する。そのさなかで、n人にはn通りの性のありかたがあることを強調する。ニヤニヤ顔も出てくるので「え、なんかおかしい話してる?」的な少し抑圧的な振る舞いも、意識的に行っている気がする。勉強モードで、LGBTの割合を数字として明確に示すこともする。そして、本人の努力ではどうにもならないことをあげつらうのが「差別」の定義なのだ、と、ここは厳密性をもって示す。加えて、近代社会(近代がどういう時代かは、さまざまな教科で学んでいる)は「差別」を許してはいけないのだ、と熱を込める。ここにいたっては理念に巻き込んでいきたい。この理念的に部分から、もう一度、現実のコミュニケーションを振り返って欲しい。振る舞いは演技的だが、込めている熱は本心のつもりだ。
もちろん、現実的な水準に落とし込むというのは、LGBTの話題に限らない。理念が先行しすぎるような抽象的な議論は、教室空間のなかでいまいちリアリティを獲得しないと感じる。差別はいけない? 人権が大事? もちろん、そのとおりだ。しかし、その愚直な正論は、かなり戦略を立てたうえで口にする。正論がわざとらしく響かないように、周到に文脈を作っている意識がある。ちなみに、「他者の痛みを想像しなさい」という言いかたも、もはや弱い気がする。「他者」「痛み」「想像」というワードがすでに、手垢にまみれたお決まりの言葉で、あまりにも説教臭いからだ。
教室内で発される言葉もまた、コミュニケーションの言葉としてある。LGBT当事者、「キモっ」と言ってしまうヤツ、あるいは、どこかから良くない情報を仕入れてきて強い偏見を持っているようなヤツなどなど。その他、さまざまな考えと関係性の人たちが一緒に肩を並べている空間において、同時に届いていくような言葉とはどのようなものだろうか。少なくとも理念先行の言葉は、ともすると、当事者の側からも偏見を抱いている側からも、等しく「きれいごと」として響いてしまいそうだ。なにより自分自身、話しているそばから、嘘くさく偽善的に思えてしまう。教員‐生徒という非‐対称的な関係性のなかで、ましてやマジョリティであることを棚上げしているから当然だ。
では、そういう空間において、お互いが傷つけないように、傷つかないように、楽しくやっていくために、どのように働きかけるべきだろうか。そんなことを考え、少なからず実践している時、ひたすら理念を振りかざし敵と味方を認定していくような論調を見ると、つい「現実との接点が見失われているなあ、脆弱だなあ」と苛立ってしまうことがある。どこか、仲間内だけに流通する言葉のようにしか見えない時がある。
理念は大事だ。しかし、理念は具体的な実践と両輪であるべきだ。理念で示されたほうに向かって、現実的な悪路を進んでいくことが必要だ。理念のみが振りかざされた言葉は、内輪におけるポジションの確認としてしか機能しない。言葉は厄介な現実に向けられて欲しい。別に現場主義をうたう気はない。ただ、とくにネット上で、現実との接点を見失った言葉が、敵/味方というポジションを固定化するためにのみ発されているような、そんな印象を受ける。僕らの言葉はどこに向けられているのか。