CULTURE | 2023/09/15

「AIに奪われない仕事をしよう」という考えは間違い?「できなさ」を起点にした人間観の更新が必要だ

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京都大学で出口康夫氏が行った人気講義を書籍化した『AI親友論』(徳間書店)...

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京都大学で出口康夫氏が行った人気講義を書籍化した『AI親友論』(徳間書店)。

同書はAIと人間との関係性でよく言われる「仕事が奪われる(人間が奴隷にされる)」、あるいは逆に「人間が支配できる程度の性能に抑えるべきだ」といった敵視を前提とした議論ではなく、人間とAIが「親友」として共生するための社会観・人間観をいかにして考えることができるかについて、これまでのAIやロボットにまつわる議論も参照しながら考え抜いた一冊だ。

本稿では、近現代社会におけるデファクトスタンダードとなっている人間観、すなわち「できること」を基軸とする人間観に対するオルタナティブとして、「できなさ」に焦点を当てた人間観を提案する。

※本記事は『AI親友論』の「第一講 「われわれ」としてのAI」を再編集したものです

「人間失業時代」は本当にやってくるのか

数年前、「技術的シンギュラリティ(特異点)」という言葉が話題になりました。この「シンギュラリティ」とは、AI(人工知能)が進化して、人間の知性と並び、ついにはそれを凌駕し、抜き去る事態を意味していました。

もちろん、このようなシンギュラリティがそもそも実際に起こりうるのか、また起こるとすると、いつ、どのような形で起こり、それが僕らや社会にどのようなインパクトを与えるかについては、さまざまな議論が交わされました。

実際、AI研究者の間でも、このような意味でのシンギュラリティが到来する可能性について懐疑的な声(※1)が聞かれました。

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※1 懐疑的な声:アメリカの発明家であるレイ・カーツワイルを中心に、議論は白熱している。レイ自身は賛成派。

一方、シンギュラリティが社会に与える影響の一つとして、さまざまな仕事の担い手が人間からAIに置き換えられ、多くの職業がいわば「AI化」することで、結果として多くの人の働く場が奪われるという「シンギュラリティ大量失業時代」の到来を予測する向きもありました。

そのようななかで、イギリスの新聞に、AIによって奪われやすい職業のランキング一覧(※2)なるものが掲載され、その中には「哲学の教師」が、案外上位に、つまり「奪われやすい」部類にランクされていて、僕も苦笑した覚えがあります。

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※2 AIによって奪われやすい職業のランキング一覧:The Guardian“Why would we employ people? Expertson ways AI willChange work”Fri 12 May 2023 参照。

このようなシンギュラリティをめぐる議論がやや落ち着きを見せたかと思いきや、今度は ChatGPTなどの生成AIの開発が爆発的に進み、それが急激に社会に普及することで、現在、論議を巻き起こしています。

ChatGPTの情報処理・文章作成能力の向上は、まさに日進月歩の勢いです。僕も先日、企業コンサルタント業務をこなす生成AIのデモ(※3)を見せていただきましたが、膨大な情報を博捜し、文字どおり、あっという間にクライアント企業に対する提案書を作成してしまうその手際の良さに、これまた文字どおり、あっと驚きました。

このように ChatGPTが本格的に企業に浸透すると、少なくとも既存の情報を収集し、一定のフォーマットに基づいて分析し、そこから一定の課題解決の処方箋を導出するようなタイプの、ある程度ルーチン化可能な知的業務は、確実にAI化されるでしょう。結果として人間の職が奪われる事態も、容易に予測されます。

数年間は、起こるとしてもまだまだ先の出来事だと思われていたシンギュラリティ、そしてそれに伴うシンギュラリティ失業が、近未来の現実として、僕らの目の前に、突きつけられているのです。

シンギュラリティ失業は、確かに深刻な問題です。AI化によって消え去る恐れのある仕事の一覧、いわば「絶滅危惧種リスト」の上位にランクされた職にある者として、僕にとっても他人事ではありません。

しかし、生成AIの「爆誕」に象徴されるシンギュラリティは、単にコンサルタントや哲学者などの(多かれ少なかれ)知的な職業に関わる個々の失業問題を超えて、より深刻で、より根深く、より広範な問題を、人類全体に突きつけているようにも思えます。その問題を、ここでは「人間失業(※4)」と名づけておきましょう。

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※4 人間失業:「人間失業」については『BEYOND SMARTLIFE:好奇心が駆動する社会』(日立京大ラボ編/日経BP日本経済新聞出版本部)を参照。

では、「人間失業」とはなんでしょうか?それはどのようなメカニズムで発生するのでしょうか?またそれを解決する、ないしは回避する方策はあるのでしょうか? もしあるとしたら、それはどのようなものなのでしょうか?

以下では、これらの問題を考えていくなかで、西洋哲学に端を発し、近現代社会におけるデファクトスタンダードとなっている人間観、すなわち「できること」を基軸とする人間観を炙り出し、それに対するオルタナティブとして「できなさ」に焦点を当てた人間観を提案していこうと思います。そのうえで、この「できなさ」を踏まえ、「WEターン(※5)」と僕が呼んでいる、価値観の転換を素描していきます。

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※5 WEターン:WEターンについては、見出し「WEターン:IからWEへ」で詳しく説明します。

人間は、さまざまな能力を持ち、多様な機能を備えています。僕らは歩くことも、走ることも、言葉を話すことも、考えることも、他人の心を汲み取ることもできます。  

けれども、言うまでもなく、これらの能力や機能はどれもこれも無際限ではなく、 たかだか有限です。従って、ある特定の能力や機能に関して、人間より優れた能力や機能を備えた存在者──これを「凌駕機能体(りょうがきのうたい)」と呼びましょう──も当然、存在していますし、また存在しえます。例えば、人間より速く走ることができる動物はザラにいるのです。

それだけではありません。人間は自分の能力を超えた機能を持つ人工物を次々と発明し、人間の営みを、その人工的な凌駕機能体の動作に置き換えることで、自分たちの生活を便利にしてきました。馬車や自動車や飛行機といった移動手段も、そのような人工的凌駕機能体の一例です。

しかしながら、自然物であれ、人工物であれ、このような機能体によって自分の何がしかの機能が凌駕されたからといって、人間の自尊心、自負心、さらには尊厳や「かけがえのなさ」は1ミリたりとも、すり減ったり、揺らいだりすることはありませんでした。

なぜでしょうか?

答えは、明らかです。人間は、他の動物や人工物が逆立ちしても敵わない能力ないしは機能を持っており、それを備えていることに自らの尊厳や「かけがえのなさ」を見出してきたからです。さまざまな凌駕機能体が登場し、さまざまな能力が乗り越えられ、凌駕されたとしても、そのような、自分が一番だと言える能力や機能──それを「一番能力」ないしは「一番機能」と呼びましょう──に関する優位性が保たれている限り、人間の自負心や尊厳は安泰だったのです。

そのような人間にとっての一番能力ないしは一番機能とは、言うまでもなく「知的能力」です(ここでいう「知的能力」とは、例えばトラクターや車やトラックを運転する能力をも含みます)。

人間は、その「知的能力」に関しては、この地球上のあらゆる存在よりも優れており、それをもっている限り、例えば移動や運搬といった仕事が機械によって次々に取って代わられたとしても、その「知的能力」に関してだけは、凌駕機能体による代替は起こらないし、起こりえない。人間は、そのように考えていたのではないでしょうか。

凌駕機能体によって置き換えられることを「かけがえのなさ」の喪失だとすると、 知的能力に関してだけは、そのような喪失は起こらない。このように「知的能力」は 人間の「かけがえのなさ」、そしてそのような「かけがえのなさ」としての「尊厳」の「最後の砦」だったのです。

しかし、AIの登場によって、この「最後の砦」も危うくなってきました。いわん や、AIが人間の知的能力を凌駕するシンギュラリティが起こってしまえば、「最後の砦」もついに陥落の時を迎えることになります。

人間の「かけがえのなさ」や尊厳、さらには自尊心や自負心を支えていた「最後の砦」である「知的能力」という「一番能力」に対してすら、ついに凌駕機能体が登場し、結果として、人間の「かけがえのなさ」や尊厳が失われ、自尊心や自負心がズタズタになる。これが「人間失業」です。シンギュラリティとは実は、このような人間失業をもたらす事態でもあったのです。

では、人間失業、すなわち人間としての尊厳や「かけがえのなさ」が失われる事態を防ぐためにはどうすればいいのでしょうか? 人間の知的尊厳を守るために、生成AIなどの開発(※6)をやめるべきなのでしょうか?

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※6 生成AIなどの開発:人間失業への処方箋と言うわけではないが、実際に、生成AIの開発をいったん止めるべきだとする提言もなされている。

そのような発想も当然ありえます。しかし、ここではそれに対するオルタナティブ、別の道を考えてみましょう。

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