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井の頭公園に立ち続ける「まだ73歳」顔面紙芝居師ピカさんの壮絶人生
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  • 2018.08.27
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井の頭公園に立ち続ける「まだ73歳」顔面紙芝居師ピカさんの壮絶人生

世界でただ一つの「顔面紙芝居(特許庁商標登録済み)」。休日に、吉祥寺にある井の頭恩賜公園へ行ったことがある方は、一度は目にしたことがあるかもしれない。私の地元の友人も東京に遊びに来た際に、今でも一番強烈に覚えているのは「顔面紙芝居」であると言う。

『おへそのうた』 独特の世界観である。

何かが手に入ったら、何者かになれたら、いつか自分は変われる。でも、もうこんな歳だからできない。そんなことを考える人も多いかもしれない。

今年73歳になるピカさんはこの顔面紙芝居を20年以上続けている。インタビュー中もたくさんの親子に声をかけられ、子どもに大人気の顔面紙芝居だが、元々は大人向けのものとして誕生したという。

暑い日も風の日も、井の頭恩賜公園を中心に顔面紙芝居を続けるピカさん。その活力はどこから来るのだろうか?ツヤツヤの頰をあげて明るく笑うピカさんだが、かつては地獄を見たことがあると言う。波乱万丈のピカさんの人生について聞いてきた。

聞き手・文・写真:立石愛香

ピカ(本名 後藤功)

顔面紙芝居師

1945年岩手県出身。高校卒業後、実業家を夢みて上京し、帽子の商社へ入社。脱サラ後、都内劇場やイベント会場でDJやイベントプロデュース業を始める。1977年、踊るDJとしてプロデューサー業をし、「劇団東京乾電池」の結成の起点を作る。その後パフォーマンスDJ、スポーツDJと名を変えて活躍し、10数台のTVモニター駆使したビデオパフォーマンスを生み出す。1998年「顔面紙芝居」を考案し、井の頭恩賜公園にて毎週上演を始める。2009年「R-1グランプリ」一回戦突破。2012年「東京都ヘブンアーティストライセンス」取得。2016年「特許庁商標登録」認定。
ブログ(公演スケジュールはこちら)

演劇は社会人になったらやめるつもりだった

―― ピカさんは学生時代は演劇部に所属していたそうですね。

ピカ:中学3年の時に、学校にお芝居が好きな先生がいて、有志を募って劇をつくったのが、はじまりですね。その時はただ芝居って面白いなと思っていただけでしたが、高校に入学しても、僕は身体が弱かったので、他に何もやることがなくて。軽い気持ちで演劇部に入りました。

2年生の時から演劇部の部長になって、新入生への自宅訪問をして40人の仲間を集め、4時間あるトルストイ原作の『闇の力』の演出を担当しました。

―― 高校卒業後は岩手から上京したのは演劇のためですか?

ピカ:いいえ。当時の夢は実業家になることでした。ですから、はじめから5、6年で辞めるつもりでした。小さい会社に入った方が、いろんなことが学べるはずだと思い、東京の真ん中にある、帽子の商社に入りました。

―― その間に副業として、演劇はしていたのですか?

ピカ:その間はまったくしてませんでした。芝居はお遊びで、高校時代にもう全部やったと思っていましたね。会社員時代、僕は小柄で童顔だから、中卒に見られることも多かったですが、3年半で花形のセールスマンになれて、その会社には合計6年半いましたね。

とにかく実業家になろうとさまざまなイベントを企画

―― 1970年、25歳で会社を退職されましたが、その後、どんな形で起業されたのでしょうか?

ピカ:今まで誰もやっていない、イベントのサービス業を始めました。会場の壁に海外で撮った写真を映写機で映し、曲を流しました。今で言う、ミュージックビデオみたいなものです。

―― 当時としては斬新だったでしょうね。

ピカ:はい。大きな映写機とスピーカーを買って、あちこちのイベント会社に売り込みに行きました。初めて、新宿西口会館の屋上のビアガーデンで仕事をしたのですが、それが大失敗しましてね。新宿のネオンの光が強くて、スモッグに反射してまったく投影できなかった。急遽対応もしたのですが、周りのビアガーデンでは生バンドが演奏しているし、水着のお姉ちゃんがいたりして、みんなそっちの方に行っちゃいました。

1カ月半だった契約が1週間で打ち切られ、仕舞いには借金を250万円ぐらい抱えてしまいました。今の時代でいうと返せないくらいの相当な金額で、事業家への道は大失敗のスタートでした。

渋い表情のピカさん

ピカ:借金を返済するために2つのアルバイトを掛け持ちしながら、再びクビになったビアガーデンに営業しに行きました。その時に新しく考えたのは、DJの合間に、カラオケやビール早飲み、じゃんけんをするゲームのイベントです。当時はまだなかった、歌の出だしを聞いて曲を当てる序曲クイズ(今でいうイントロクイズ)を生み出して、これがウケて7年間ぐらい続きましたね。1977年の32歳の頃で、僕は司会兼、プロデューサーのようなことをやっていました。

そこで今は俳優のベンガルも一緒にイベントをやっていたのですが、ある日、彼がコントをやりたいと言い出してきて。仲間として呼んできたのが柄本明綾田俊樹でした。チームの名前を考えてきてって言っても、誰も考えてこなくて(笑)。元気がいいから、「東京乾電池」という名前にしました。その後、高田純次も入りましたね。

―― あの有名な「劇団東京乾電池」の名付け親だったんですね!

ピカ:でも、売れる前に引っ張り出しただけで、彼らが勝手にやったんです。僕は場所を提供しただけですね。

その後、イベントプロデュースの仕事が軌道に乗リ始めました。1987年の42歳の頃が一番儲かっていた時で、当時は、池袋を中心にお店を4カ所ぐらい押さえて、20人ぐらいのDJを雇っていました。そのうち酒場での、お客さんの中のチャンピオンと、お店代表の僕が、懸垂をしたり漫画雑誌を破ったりする体力対決コーナーができました。はじめは負けてばかりだったのですが、その悔しさで猛練習して、だんだん勝つようになりました。

―― わお。面白い店ですね!

ピカ:その勢いで原宿で「怪人ハテナ」として出没し、写真週刊誌『FLASH』など、マスコミにも取り上げてもらう機会もありました。その時、自分の体が大勢の前にポンと出ていって、みんなにジーっと見られるという、人前に出る快感を味わいましたね。

人の心に訴える作品を作りたい

クイズの時間。毎回、大盛り上がりになる。

ピカ:でも、ずっとそんなことをしているうちに、ある日気づきました。今までは若者向けの肉体パフォーマンスだったんですが、単なる自己顕示だったんですよね。何も中身がなくて、テレビにも紹介されても1回こっきりで。だから、テーマがないといけないなと思って、次は、人間の奥深い心の動きや、環境などをテーマに、世の中に残るものを作ろうと考え始めました。

―― そういったものをつくるにあたって影響を受けた作品や人物はいますか?

ピカ:アルバイト先のレンタルビデオ店で借りて観ることが多かったです。黒澤明の『羅生門』を観て、社会風刺の作品を作りたいという想いが強くなり、チャップリンからは人間愛を学びました。今までのような覆面をかぶっての体力勝負なんてのはバカだなと反省して(笑)。

1992年の47歳の頃には、原宿のホコ天にて、「人類宇宙侵略批判と地球保護を訴える」テーマで、無音の社会風刺パフォーマンスをし始めました。そのうち人を使う余裕もなくなってきて、ここら辺から一人芝居や顔面紙芝居の原型ができてきました。

顔面紙芝居はもともと大人向けで誕生した

冒頭の動画、大人気の歌『おへそのうた』。子どもたちが大熱唱するからびっくりする。

―― 今は子ども向けの顔面紙芝居が多いように見えますが、実際は大人向けのもたくさん作っているんですよね?

ピカ:はい。顔面紙芝居は元々、大人向けとして演じることでブレイクしたいという野心がありました。でも、なかなかうまくいかなくて、地元の親子が常連にいたので、その子たちに向けて作ってみたら、だんだん子どものお客さんが増えてきましたね。20年間やってると、小さい頃に通って観に来てくれていた子が、久しぶりに声をかけてくれたり、親子三世代で観てくれたりすることもありますね。実は、顔面紙芝居を始めて3年くらいはあまり子どもが好きではなかったんですけど、大人しい子が元気になったり、子どもの成長が見ているうちに大好きになりました。 

ゲームに勝つともらえるプレゼントで、100種類以上あるという。「もらったカードを家で宝箱に入れて大事にしてくれて子もいる。だから、喜んでくれるかなと考えながらいろんな工夫をします。楽しいですね」(ピカさん)

待ち構えていたのは、多大な借金、息子の薬物依存…たくさんの困難

舞台の裏にはたくさんの小道具達が出番を待っている。

ピカ:実は、以前から借金があったのですが、顔面紙芝居を始めてから雪だるま式に増え、親戚・知人友人・サラ金も入れて1,100万くらい借りていました。今もまだ、700万くらい残っている状況です。友人や後輩から、無利息無期限で借りているのが多いのですが、そうではないものもあります。もちろん返さなきゃいけないですが。

このことはブログにも書いて公表していて、切迫詰まった状況の時に、それを読んだDJ時代の弟子が、20年ぶりに電話をくれました。彼は仙台で事業に成功していたので、200万円くらい振り込んでくれて、自己破産を免れました。

―― その苦しい状況でも顔面紙芝居をやめようとは思いませんでしたか?

ピカ:それは思わなかったですね。借金が多くてどうしようもない時は、ガードマンの仕事もしていましたが、「やめてほかに何する?この仕事が一番で、やめたらもっと苦しくなるぞ」と思っていました。

―― 20年間舞台に立ち続けて自分自身の変化は?

ピカ:一番の変化は、息子がサーファーの仲間からの誘いで薬物にハマってしまって、精神病院の入退院を繰り返していました。警察の署長さんに、署が始まって以来の重症中毒者で、普通の人間には戻れない、せいぜい庭の掃除程度しかできないと言われました。それには堪えましたね。息子が地獄を見ているということで、僕も息子と同じ気持ちで、とても辛い時期でした。

しかし、息子はなんとか退院できて、11年間一緒に顔面紙芝居をやりました。(現在は妻の富子さんがサポートをしている)今は、正社員として介護の仕事をして、浜松で奥さんと元気に暮らしています。絶対に回復しないと言われていたけど、今は幸せに暮らしているから、それが何よりも最高にうれしいことです。

息子のことで、今までの自己中心のツンツントゲトゲしていたものがなくなって、人の苦しみがわかってきました。それまでは出世したいという野心が強かったけど、やっと僕も少し人間らしくなった。息子が元に戻ったのは、周りのたくさんの方のおかげで、とても感謝しています。

地獄を見て、そこを通り抜けたらなんでもできるんじゃないかな

素早い早着替え。衣装もすべてピカさんの手作りである。

ピカ:会社をやめたのは、起業して儲けたかったからだったんですが、今は方向性がまったく違います。新橋界隈に「魚金」っていう居酒屋チェーン店があるんですが、その社長と何十年も一緒に仕事をやっていたんだけど、今では成功しています。僕も、元々はそっちを目指して脱サラしたんですよね。

でも、今は自分なりに初心とは真逆のやりがいを見つけました。地獄を見て、そこを通り抜けたらなんでもできるんじゃないかな。人が体験していないことを体験して、そこを通り抜けたらすごい世界があるよと。覚悟を決めたら怖いものはないですよ。

これからのことも、やってみないとわからない。時代や年齢によって目的も状況も変わってきますからね。

僕は73歳だけど、まだまだ学ぶべきことや反省が多いです

公演のある日は、公園でほぼ一日中過ごす。取材時の最高気温は35.4℃。この夏の最高気温を記録した日であった。

―― 最近では「人生100年時代」とよく言われますが、これからやってみたいことはありますか?

ピカ:まだ73歳ですからね。まだまだ良い作品が作りたいし、作れると思います。でも金銭的になかなか大変です。でも金銭的な余裕がなくて作品が作れないようじゃ、ダメですから。余裕なくても作るべきだと思いますし、チャンスがあると思っています。

30代で人生とは?人間とは?って言ったって、誰にも通じないわけですよ。でも70代になると聞いてもらえる。長くやってきて、その強みはあると思いますね。今の僕の信条は、素直に正直な心で物事を見て、受け止めることです。これがあれば若者にも負けないかなと。

紙芝居を通して「優しさ」とか「正義」とか「強さ」とか、もっと人間って、大事なものがあるんだよってことを伝えていきたい。大人しくて、引っ込み思案だった子が、紙芝居を観ながら大きな声で歌えるようになって、学校でも挙手して発表できるようになりました。そんなことをお母さんが報告しにきてくれるんですよ。それがうれしくて。だから、恩返しの気持ちも込めて子どもたちに力を与え続けたいですね。

大人に向けては、「平等」をテーマに作品を作りたいんです。生き物、動物、草花、虫、みんな平等に命があります。

それで、『ゴキブリの逆襲』という大人向けの作品を作りました。この作品は、なかなか強烈なテーマだから、受け入れてもらえるのが難しいんです。

試しに去年の秋に井の頭公園でやってみましたが、中には、子どもさんと一緒にきたお母さんからクレームを受けたこともあります。「いくら大人向けだと言ってもこれはひどすぎる。ピカさんはそこまでひどいことはしないと思っていた。子どもに見せないようにやってください」と。だから公園じゃなくて、新宿2丁目のライブハウスでやったり、ハコの中でやらねばいけませんね。僕は73歳だけど、まだまだ学ぶべきことや反省が多いですよ。

ピカさんに付いていくだけ

奥さんのトミチャンこと富子さん

―― 続いて奥様の富子さんにお聞きします。ピカさんと出会ったきっかけは?

富子:私はピカさんの帽子商社の後輩でした。ピカさんとは8月6日の誕生日が同じで、それがきっかけで、銀座のビアガーデンで初めて乾杯しました。はじめは、騙されているのかな、なんて思ってましたが、免許証を見たら本当でした(笑)。

会社は寿退社で辞めたんですが、まさかその時は、将来、顔面紙芝居をやるとは思いませんでしたね。普通に結婚して、普通に生活していくんだろうなと思っていました。でも今の生活の方が、断然楽しいですよ。

―― 富子さんは今71歳ですが、65歳まではパートでお仕事をしていて、土日はお弁当作り、顔面紙芝居のお手伝いもしていたそうですね。たまには寝ていたいと思う時はありませんでしたか?

富子:全然そんなこと思わないですよ。ピカさんが、「さあ行かなくちゃ」って言うから。

今日みたいな「熱中症厳重注意!」の日は、「えー、今日はお子さん来ないかなあ。誰が来てくれるかな」って、子どもたちに会えるのが本当に楽しみなんですよ。

観ている人を幸せにする笑顔。二人が踊っている姿は、まるで某有名キャラクターのミ○キーとミ◯ーを彷彿させる。

顔面紙芝居の後継者!?

―― 「エンタの神様」や「R−1グランプリ」などお笑いの登竜門にもチャレンジされていますね。

ピカ:はい。R−1では一回戦突破したこともあります。そういえば、「せきあっし」という芸人が僕に顔面紙芝居の許可を求めてきたことがあります。彼は群馬の沼田に住んでいるんですが、東京にもたまに来てステージに立っているみたいなんです。

普通のパフォーマーはお客さんが3、4人しかいないと上演しないんですよ。でも、僕はあっしくんに、「0人でもやるんだよ!」なんて、お説教みたいなことを言ってますね(笑)。

歳を重ねると、人生の粋も甘いも知って、生きやすくなるのかもしれない。そんな風に思わせてくれるほど、ピカさんと富子さんは顔面紙芝居の世界を自分たちのものにしていた。

自分の人生を悲観せず、背伸びせず、受け入れてきたからこそ、2人の周りには多くの笑顔があるのだろう。

「これからはもっと大人向けの作品に挑戦していきたい」というピカさんだが、子どもはいつか大人になる。

他人に振り回されず、世の中の常識に縛られず、自分の人生の舵をしっかり握って取っていくことが人生の充実には欠かせないのだ。

人生100年時代、これからの人生で何に挑戦してみようか。


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