LIFE STYLE | 2020/04/06

新型コロナウイルスNY感染体験記(未確定)

闘病中、妻がつくってくれたお粥を食べながら、iPadでテレビを見る。テレビでは、ニューヨーク市による新型コロナウィルスの...

SHARE

  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • line

闘病中、妻がつくってくれたお粥を食べながら、iPadでテレビを見る。テレビでは、ニューヨーク市による新型コロナウィルスの警戒CMが流れている

個人のnoteアカウントで公開し、反響を頂いた、未検査ながらも新型コロナウィルスに感染し回復した体験記を、いつも寄稿させていただいているFINDERSに掲載させていただけるということで、より多くの方々の参考にして頂ければと考え、若干の加筆修正を加えたうえで転載させていただきます(元記事: https://note.com/qantasmz/n/na170878156cc)。

いくつかの写真追加と、記事の末尾に、反響を頂いた後に考えたことを追記しました。

清水幹太

BASSDRUM / whatever

東京大学法学部中退。バーテンダー・トロンボーン吹き・DTPオペレーター・デザイナーなどを経て、独学でプログラムを学んでプログラマーに。2005年12月より株式会社イメージソース/ノングリッドに参加し、本格的にインタラクティブ制作に転身、クリエイティブ・ディレクター / テクニカル・ディレクターとしてウェブサイトからデジタルサイネージまでさまざまなフィールドに渡るコンテンツ企画・制作に関わる。2011年4月より株式会社PARTYチーフ・テクノロジー・オフィサーに就任。2013年9月、PARTY NYを設立。2018年、テクニカルディレクター・コレクティブ「BASSDRUM」を設立。

発症直前

YouTubeでのタイムズ・スクエアのライブ中継からのキャプチャ画像。もはやほとんど人がいないタイムズ・スクエアのレッドカーペット前に、「I♥NY」の文字が。
https://www.youtube.com/watch?v=mRe-514tGMg

「NY非常事態日報」と銘打って非常事態下のニューヨークについてレポートしよう、ということで文章を書いていたのが3月17日から19日までの3日間。無観客開催となった大相撲春場所も後半に差し掛かる頃だった。この段階ではまだ外出禁止令的なことにはなっておらず、しかし数日中にそういう状態になるだろうと言われているくらいのタイミングだった。

0317「NY非常事態日報・1」
https://note.com/qantasmz/n/neeb724c76a97

0318「NY非常事態日報・2」
https://note.com/qantasmz/n/ne6525902ffd9

0319「NY非常事態日報・3」
https://note.com/qantasmz/n/n3075a0db7c5f

3/19時点でのニューヨーク市(州ではなく、市)の感染者数は1871名。学校はすべて休校になっていたが、完全なリモート授業はこの段階では始まっていなかった。日を追うごとに非常事態の深刻度が大きくなっていく、そんな非常事態を目の当たりにして、「これは書かなきゃ」なんて思い、文章を書き始めたものだ。実際、それから約2週間経過しつつあるいま、ニューヨークの街は歴史上類を見ない封鎖状態となり(厳密には完全には封鎖にはなっていないが)、株価は乱高下した。自分たちは歴史というものの渦の中に生きているのだ、ということを嫌が応にも強く認識することになった。

実は、そんな文章を書きながら、我が家は日本への脱出を検討していた。歴史の渦の中で歴史を体感することに興味はなくはなかったが、何より家族だ。ウィルス感染はまあ、家に閉じこもっていれば大丈夫だろう。問題は経済の落ち込み、失業者の増加による治安の悪化だ。暴動も怖い。ウィルスに罹患することなどよりも私はそれに伴う人間の行動が恐ろしかった。家族を守らなくてはならないときに、そういう意味においてまだより安全ではあるであろう日本に戻るということは1つの有力な選択肢だった。そしてマイルをやりくりして、3/23の便で日本に帰国できるよう手配を行っていたのだ。妻は、空港に移動するまで、あるいは空港内の移動の間のウィルス感染を恐れていたが、私はウィルス感染は隕石に当たるようなものだろう、普通に気をつけていれば大丈夫だろう、とタカをくくっていた

発症

3/19の日記の冒頭に、

undefined

undefined

あろうことか、なんか体調が悪いのだ。妻に申告すると、鼻うがいセットを用意してくれて、鼻に水を注入され、オエッとしながら鼻にうがい薬を通したり、いろいろやることになった。当然ながら、外に出てはいけない。そもそもそんなに出る用事はないわけだが、参った。これは非常に憂鬱だ。とりあえず様子を見る。

という記録が見える。喉の奥がややいがらっぽかった。37.2度くらいだったが、ちょっとだけ微熱もあった。嫌な予感はしていた。まあしかし、そんなはずはないと思っていた。これを書いたのが3/18の深夜で、日付は3/19だった。

翌3/19。長男の学校の先生に、リモート授業のシステムの詳細を電話で聞いたりしているうちに、どんどん気分が悪くなっていく。ふらつく。私はぶっ倒れた。体温がどんどん上がって、またたく間に40.0度に到達した。40.0度なんて数十年ぶりではないか? 一番体調を崩してはいけない時期に体調が崩れてしまった。というか、40.0度で、咳も大して出ないし、鼻水であるとか下痢であるとかの症状は別にない。「まさか…?」とは思った。妻と話して、この時点で、自分が新型コロナウィルスに感染して発症したという前提で行動することにし、長男の勉強部屋に自分自身を隔離し、そこからトイレ以外の時間、一切出ていかないことにした。子供たちとも触れ合ってはいけない。

妻がかかりつけの医者に電話してくれた。

コロナウィルス感染の可能性は大。しかし現時点では軽症なので呼吸困難等の症状が出たところでもう一度連絡をくれれば、検査センターを紹介して入院できるようにする」ということを伝えられた。糖尿病の薬を飲むのをさぼっていたことが看護師さんにばれ、ものすごく怒られた。そう。私は糖尿病の気があるので、新型コロナウィルスの重症化リスクが高い部類の人ではあるのだ。血糖値の数値は極悪状態からは脱していたものの、とにかく怒られた。しかし、現時点では「解熱剤を飲んでがんばって治ってください」というのが医者の見解だった。この時点で、「今軽症で病院に行って検査キット消費されても困る…」という空気がすでにあった。

妻は、元々東京の都立病院の看護師だった。隔離状態になった私に、ビタミン剤を持ってきたり、お粥であるとかうどんであるとかを配膳してくれる。もちろん、その後は手洗い・消毒を徹底する。子供たちは私のいる部屋に近づいてはいけない。

熱が高くて、フラフラする。日記のような文章を書くにしても、現時点のよくわからない状態の中では、ちゃんとしたことも書けない。そもそももはや、部屋から出ることができていなくて外界に接することができていない。非常事態日記以上の非常事態が起こってしまった感がある。

ANAに電話をして、帰国便のキャンセルを行う。この状態がすぐに回復したとして、あと数日で自分がウイルス感染の疑いから開放された状態になっていることは到底思えないし、ウイルスに感染していたとして、自分が空港に、そこから日本に移動するだけで、多くの人にそれを感染させてしまう。いろいろ心配だが、日本に帰るのは、体調も状況もクリアになってからにする他ない。覚悟を決めた。

結論から言うと、そこから約2週間、私は家の外に一歩も出ることができない状況になる。今現在、この文章を書いている時点においても、3/19以来、家の外に出ることができていないし、家族以外の人間とはほとんど接していない。

あろうことか、まさかの自分自身が新型コロナウィルスに感染してしまった。

実はこの文章を書いている時点で、医師から「あんたそれ完全に新型コロナウィルス感染してるよ」という「診断」は受けているが、いわゆる検査というものはしていないので「陽性」ということは確認できていない。状況証拠はたくさんある。まあこれは、どう客観的に見ても感染して発症しているということだろう。

さらに書くと、私の発症後、数日以内に家族全員が何らかの症状を発症した。1月に、家庭内でウィルス性胃腸炎が蔓延してしまう日記を書いたばかりだが、そこから2カ月後、家族全員でもっと深刻な謎のウィルスの蔓延を経験することになってしまった。

筆者の家族構成は、私(43)・妻(43)・長男(13)・次男(5)・長女(3)だ。いまは全員症状も治まり、平熱になっているが、各々経過は結構違った。最も深刻化したのは私自身で、その次が妻だと思われる。私と妻は、最終的に何がしか肺に症状を感じることになった。

3/19以降の経過を時系列的に書くことも考えたのだが、そのへんはまた改めて、気持ちの動き的に書くこともできるかと思うし、今現在日本語で自分の感染体験を書く意味を考えると、恐らく優先して書くべきことは、「実際に体験した症状」と「治癒のプロセス」だと考えた。

特に、世の中には感染を予防するための「手を洗おう」とか「顔を触るな」とかのいろいろな情報は存在しているのだが、いざ感染して症状が出てしまった場合に参考になる情報が、もう全然ない。「熱はいつ下がるのか」「どのように下がるのか」「呼吸困難はどう改善するのか」「いつ呼吸が苦しくなるのか」みたいな情報が英語でも日本語でも全然流布していない。そもそもあんまり自分の身体で体験した人がそんな発信をしていない。

日本ではこれから感染も広がっていく可能性が高いし、医療崩壊的な問題が顕在化するのもこれからだろう。実際問題、こういうことを世の中に対して書くことは、私と私の家族がヘイトの対象にすらなってしまうリスクを伴うが、しかし恐らくこれは今書き記しておいたほうが良いやつだ。これから、自分と同じ苦しみと不安に向き合わなければいけない方々の一助、参考になってくれれば幸いである。

繰り返すが、筆者およびその家族はこの文章を書いている時点で新型コロナウィルスの検査を受けていないので、新型コロナウィルスに感染していないタダの風邪と肺炎っぽい症状の何かに罹患しているだけの可能性というのがゼロではない。ただ、「診断」を受けているということと、発現している症状が世の中で「新型コロナウィルスの症状」とされている症状と合致する(そしてそれらの症状は今までの人生で体験したことがない新しいものだった)という事実に基づき、自分・自分たちは「感染して回復した人」であるという前提に立って、記録を残してみようかと思う。家族内での治癒プロセスの違いも一緒に記録しておくので、子供が罹患した場合の参考にもなってくれると良いように思う。

風邪系の症状

初期症状は、巷で言われている通り、風邪との共通点が多いが、具体的には、まず発熱。3/18に体調を崩し、3/19に40.0度の高熱が出てから、実に12日間の間、熱が全然下がらなかった。自分の場合、こんなにも熱が下がらないというのが初めての体験で、すでに異常だった。熱は、37.3度から39.0度の間を常に行ったり来たりしている感じ。解熱剤は元看護師である妻の判断もあって、使用しないことにした。巷で代表的な症状として言われている身体のダルさと節々の痛みだが、これは、「普通にダルいのと、普通にずっと寝ているから身体が痛い」というところで、そんなに気になるわけではなかったが、ここ数日で熱が下がったらファッと無くなったので、それはそれで症状だったのだろう。

その他の風邪に似た症状としては、自分の場合、発熱4日目くらいに下痢が少し出て数日で治ったのと、発熱1週間目くらいで呼吸困難の症状が出始めたくらいのタイミングで後頭部の頭痛に悩まされた。これは呼吸困難の改善と共に改善した。

くしゃみ・鼻水のような症状はほとんどなかった。さらに言うと、発熱から1週間、少し喉がいがらっぽいというのはあったが、咳はほとんど出なかった。喘鳴のようなものも無かったし、たまに咳払いしたくなる程度。肺で何か起こっている感じは全く無かった。咳をしたくなる感じはなく、我慢している感じも無かった。発熱から1週間経過して呼吸困難症状が出始めてからは咳が止まらなくなった。これについては後述する。

熱の話に戻ると自分の場合、朝は37度台、夜になると38度台を越えることが多く、しかし他の症状は特にないので、立つことも歩くこともできる。自分の場合、身体の節々の痛みがずっと寝ているからだと疑っていたので、普通にYouTubeを見ながらストレッチなんかもやっていた(呼吸困難が出てからはそれが全然無理になった)。

熱は、3/29の朝、突然36.4度に下がった。これは、呼吸困難症状の改善とほぼ時を同じくしていて、要するにこのへんでウイルスとの戦いが一区切りした、ということだったのだろう。

妻(43)と長男(13)は、発熱はしたものの、38度以上にはならなかったのではないかと思う。妻は4〜5日、長男は3〜4日で熱が下がった。長男は蕁麻疹が出た。長男は、元々発熱すると蕁麻疹が出る傾向があるが、結構続いた。

次男(5)と長女(3)は、発熱してすぐに38度後半まで熱が上がって、うわ言なども出ていた。この2人は下痢があった。翌々日にはファッと熱が下がり、それ以降すぐに元気になってしまった。

臭覚・味覚の喪失

次に、もうすでに情報としてはこの1週間くらいで流布した感がある「匂いと味覚がなくなる」症状。これは私の場合、高熱を出した3/19の次の日、3/20の段階で自覚した。これについては、かなり特徴的な症状だが、実体験に基づいた情報がそんなに出回っていないように見えるので、ちょっと細かく書いておく。この症状は、自分にとっては間違いなく初体験となる、「明らかにおかしい」何かだった。

まず、匂いはしなくなる。臭覚というものが完全に封鎖された感じになる。良い匂いも悪い臭いも、何もしなくなる。たとえば、匂いがしなくなってからすぐに、3/21あたりに、妻が洗面所のハンドソープを新しいものに変えたのだが、私はそのハンドソープをずっと無臭だと思っていた。3/26の夜中に、「なんかハンドソープの匂いがした!」というメモが書き記されていて、つまり1週間くらい、匂いを感じることができない状態が続いた。

特徴的なのが、鼻水もそんなに出ていないし、鼻も詰まっていないということだ。風邪を引いて匂いがしなくなるという経験は今まで何度もあったが、それは鼻詰まりや鼻水と常に併発していたような気がする。が、今回の症状は鼻がスッキリ通っていて呼吸もストレスなくできるにもかかわらず、匂いだけがとにかくどこかに行ってしまう感じなのだ。

味覚もなくなると言われているが、この「味覚がなくなる」は、「匂いがなくなった」から発生する現象で、厳密には味覚はなくならなかった。つまりこういう感じだ。匂いと関係のない味覚、たとえば「しょっぱい」とか「甘い」とかそういうものは感じることができる。しかし、「しょっぱい」ものはしょっぱいだけでしかなく、味噌汁を飲んでいても、食塩水を飲んでいるような感覚になってしまう。

味覚がなくなる、というよりは、「味覚が超単純化される」が正しい気がする。そう考えると、私たちは日常的に「おいしさ」みたいなものを「匂い」で味わっているのだなと思う。匂いがなくなった状態では、うどんを食ってもお粥を食っても、単純にしょっぱいだけでまったくおいしいとは感じることができない。

私の場合、臭覚はなくなってから6日目くらいで復活し始めた。が、これは熱と違って突然良くなるとかではなくて、夜中にトイレに立って、ハンドソープで手を洗った際に、ほんのかすかに、「あれ? これって何か匂ってるのかな?」みたいな感覚があり、フレーバー付きの炭酸水を飲んでみても、ほんの微かに「ん…? なんか匂いかも?」くらいの感じで匂いを感じることができる程度だった。真っ暗なトンネルの出口の光が遠くに見えているような感覚。そういうしているうちに次の日の朝、夜と時間が経つとともにその微かな匂いが広がっていくような感じで治っていく。匂いを微かに感じてから2日程度で、完全に匂いが戻った

これも個人差があって、妻(43)は私と同じく5〜6日程度。長男(13)も同じ症状があったようだが、2〜3日で匂いが戻ってきたようだった。次男(5)と長女(3)は、聞いてみたが症状があったのか要領を得ない。

呼吸困難

最後が呼吸困難。

1週間、微熱と高熱の間を行ったり来たりしながらダルくて動くのが辛い状態が続き、匂いがしないなあ、辛いなあ、けどそろそろ治るかな、なんて思っているうちに、私の場合は匂いの改善と同時くらいのタイミングで呼吸のしづらさを感じるようになっていた。

ウイルスが鼻の奥の粘膜から肺の奥の方に移動した感じ、というのが正しい。

この間もビデオ会議などで仕事をしていたのだが、長時間しゃべると息切れし始めるようになったのが発症から約1週間目の3/25くらい。3/26くらいにかけてどんどん悪化していき、明らかに呼吸が辛くなってきた。

この呼吸困難の感覚を文章で表現するのがかなり難しい。まず、普通に息を吸っていても、酸素が行き渡った感じがしない。酸素量が足りてない感じがする。酸素をちゃんと取り込もうと思って思いっきり息を吸うと、肺の奥が「ウッ」となる。プレッシャーを感じる。妻が「プールで長時間泳いだ後みたいな感じ」と表現していたが、そういうことなのかもしれない。息を吸うと「オエッ」と吐きそうになり、同時に咳が出る感じ。

咳も止まらないというよりは、がんばって呼吸している副産物として出る、みたいな感じ。一番ひどかったのが3/26の夜で、ベッドから立ち上がることができない。トイレに立っても、何かに捕まっていないと座り込んでしまう。息が苦しいのと、自分はこのまま命を落とすのではないかという「情報的な不安」が相まって全然眠れなくなってしまう。左を向いたり、右を向いたりして、呼吸が辛い中でも比較的呼吸しやすいポジションというのがあることに気づいて、そこに身体を調整して体勢を保ち、どうにか無理やり休む。

噂通り、悪化の速度が速かったが、自分の場合夜中だったので少し様子を見て翌朝医師に連絡して状況を説明した。

医師からのアドバイスは下記のような感じだった。

undefined

undefined

・耐えられないほど苦しければ、緊急病棟で酸素吸入を受けたほうが良いと思う。このER(緊急病棟)に行ってください。

参考として言われたのが、パルス・オキシメーター(血中酸素の濃度の計測器)を購入して数値が90台前半だったら、すぐに病院に行った方が良い。80台だと相当危ない、ということだった。妻がすぐにAmazonで発注してくれたが、届いたのは3/30で、その時点ではすでに呼吸が改善されていたので98とかだった(パルス・オキシメーターのAmazonのリンクを貼ろうとしたら、日本では医療従事者しか購入できないようなことが書いてあった…)。

指定された救急病院は家から車で5分程度。遠くはなかったが、歩く体力は無かったし、Uberなどで移動する際に運転手に感染させるリスクもあったし、地下鉄にはとてもではないが乗れる状況にはない(何しろ私が手すりに触ったり、椅子に触ったりしたらそこからウイルスが拡がってしまうのだ)。総合的に考えて、家で自然治癒する方向に賭けることにした。

とにかく免疫力を高めないといけない。前述の「呼吸が比較的しやすい体位」を探してどうにか眠る。睡眠は免疫力を上げる。睡眠不足は免疫力を下げる。大事な会議などもすべてキャンセルして、とにかく休む。

前述の通り、新型コロナウイルスについては、感染して発症してから人間がどのように治癒していくのかという情報がインターネット上に全然無い。そうなると対処のしようもないので、「なるべく免疫力を高める」という努力目標をつくって、スマートフォンで「免疫力が高まる方法」というのを調べて、寝ながらできる免疫力の向上法を試す。

サウナにも行けないし、筋トレもできない。当たり前だがそういうのは寝ながらできないし、今の状況では無理だ。

ということで、この流れの中では限りなく余談になってしまう気もするが、私が採用したのが、「泣きまくる」という方法だ。馬鹿らしく聞こえるかもしれないが、「思いっきり泣くと免疫力が上がる」というのを何だったか覚えていないが「ためしてガッテン」とかそういうので見たことがあったのだろう。「もうこの状況では打てる手がないので、とにかく泣くぞ」と思って、思いつく限りの泣ける映画、音楽を流して、頑張って涙を絞り出した。

いろいろ自分が泣けるものを探す中で、一番良かったのが、日本のロックバンド「オメでたい頭でなにより」の「ザ・レジスタンス」という曲のミュージック・ビデオだ。

私は小学校・中学校の頃、いじめられっ子だったので、その頃のことを思い出しながらこの映像を見ると実体験と重なって涙が止まらなくなるし、最後は前向きな展開なので、「ウイルスに負けるものか!」「元気になって日本に帰ってうな重を食うんだ!」「元気になって日本に帰ったら東名厚木健康センターで1日中ゴロゴロするんだ!」「俺はまだクリエイターとして何も残していないじゃないか! ウイルスに勝ってすごいものをつくるんだ!」などと自分を後押ししてくれる。ミュージックビデオは5分程度で終わるので、何度も泣ける。効率よく免疫力を上げる方法として、これはすごく良かったように思える。いや、わからない。

そういった苦肉の策が功を奏したのかどうなのか、3/27〜28にかけては、終始苦しみながらも、呼吸ができない、熱も下がらない状況に「慣れた」感じがして、睡眠を取ることができるようになった。恐らく、この段階でさらに悪化する人たちというのが一定数いて、その段階の人たちが「重症化」ということになるのだろう。自分の場合は「重症化一歩手前」まで行った感覚はある。

そして3/29の朝起きたとき、呼吸はまだしづらいのだが、呼吸に付随して「ウッ」とならず、なんというか「屈託なく深呼吸ができる状態」に呼吸が改善した。咳も出るが、深く呼吸してもプレッシャーがない状態になった。そして、その段階で熱が平熱に下がった。そこから先は3/30の朝に一瞬37.2度に上がった以外はずっと平熱で来れている。

呼吸のキャパシティというか、しやすさというのはまだ完全に戻ってきている感じはなくて、感覚としては「タバコをやめた後の呼吸状態」とでもいうか、私は5年前くらいに20年近く散々喫ってきたタバコを止めたのだが、その頃の感じを思い出させるような「呼吸のしにくさ」というのはまだある。これも調べてもわからないことなのだが、もしかしたらこの呼吸のしづらさは、後遺症として残ってしまうのかもしれない。わからない。私はもともとラッパ吹きなので、楽器を吹けなくなることを心配したが、昨日ちょっと演奏してみたら、そんなに息切れせずに吹けた。このへんの予後は、世の中が落ち着いたら病院に行っていろいろ確認するしかない。

そういう感覚もあり、喫煙習慣がある人はこれは相当キツいのではないかと思われる。呼吸困難状態になったとき「あ、これタバコやめといてまじで良かった」と思った。そんなことを思ってしまう程度に、喫煙時の状態というのを思い出させる状態ではあった。タバコを止めていなかったらもっとひどいことになっていた感じはなんというか、肌感覚としてある。志村けんさんが亡くなったニュースを目にしたとき、「ああ、あの人はタバコを喫ってたよな…」とハッと思った。

元々ヘビースモーカーなのでタバコのおいしさや文化はとてもわかるし、今でもたまに喫いたくなるほどだが、喫煙者の方々は、このコロナの季節が終わるまで、なるべくタバコを喫わない方が良いかと思う。しばらく喫わないだけでも、たぶん意味はある。逆に、喫煙者としてこの症状と戦うのは相当にしんどいだろうと思う。

家族では他に呼吸困難が出たのは妻(43)で、発症から一週間経過して呼吸困難が来た私よりも症状が出るのが早くて、発熱から数日で「プールで泳いだ後みたい」と言い始めていた。が、眠れないほどの呼吸困難にはならずに済んだ。

良かったのは長男(13)で、彼は幼い頃から喘息を持っており、今回、感染が最も心配だったのは彼だ。喘息の症状と併発したりすることをとても恐れていたが、幸いにも、呼吸困難的な症状は出ずに、喘息用の吸入薬も使わずに済んだ(もちろんこの年令でも悪化してしまう例が出てきているので、参考にしかならないが、喘息持ちでも呼吸困難にはならなかった、という例にはなるかと思う)。

症状と経過としては以上で、現時点で世の中にあまりにも少ない「新型コロナウイルスからの治癒プロセス」の参考情報として役に立つと良いなと思う。

その他。恐怖とか社会とか。

次男(5)が描いたコロナウィルスの絵。震災のときなどもそうだったが、子供たちは、直面する恐怖を、絵や歌で消化するようなところがある

治癒プロセスとは別に、もう少しエモーショナルな部分について思い出して書いてみると、総じて言うと「超つらかった」

それは、大げさではなくて死の恐怖であり、先の見えない恐怖だ。

たとえば、匂いを感じることができなくなったのが3/20だが、この段階ではこの症状が新型コロナウイルス感染の症状だということは知られていなかったし、ネットにも情報が無かった。

3/22に『ニューヨーク・タイムズ』が「Lost Sense of Smell May Be Peculiar Clue to Coronavirus Infection(嗅覚消失は新型コロナウイルス感染の特徴的な手がかりになるかもしれない)」という記事を出した。

これを見るまで、まだ、「自分はタダの風邪なのではないか」という楽観も無くはなかったが、この記事を見て、あまりにも自分の症状と当てはまりすぎ、自分が感染してしまったという事実に向き合うほかなくなった。恐怖と後悔で眠れなくなった。

特に呼吸困難で眠ることすらできなくなった時間帯は、もう二度と家族と過ごすことも、ものをつくる仕事もできないかもしれないと思って数秒ごとに恐怖が襲ってきた。

「案の定」というべきか、家族が次々に感染・発症していく段階も、精神的に辛かった。家族にウイルスを持ち込んでしまった責任を感じて、取り返しのつかないことをしてしまったのではないかという絶望と一緒にどんどん闇に落ちていく感じがした。

これは私個人のことではあるが、新型コロナウイルスによる仕事面の影響も大きい。私はニューヨークをベースにしながら東京とニューヨークで技術・デジタルクリエイティブの仕事を展開している。

ニューヨークはもはや街全体が麻痺してしまっているので、ビジネスが壊滅状態になっている。デジタルのクリエイターのコミュニティ内で、「何かつくろうぜー」という動きはあって、もう少し身体が良くなったらつくろうかというアプリのアイデアなどもあるが、ビジネスが止まっているからある種みんな暇になってそんなことを考えていたりする。

東京の会社でも、報酬未払いみたいな話から、オリンピックの延期による関連案件の消滅まで含めて、影響は少なくない。デジタルの展示物や体験装置などの仕事はキャンセルが発生している。私たちはシステムやサービスの構築、アプリ開発などもやっているので、止まってしまったものばかりではないが、まあこのご時世に経営者をやっているわけだから胃が痛くないと言ったら嘘になる。伏せっている間もそのへんのことが気になったりして、健康面だけではなくて全方位的に現実が突きつけられて精神衛生に悪い

ソーシャルメディア時代のパンデミックというのは、情報災害的なところが多分にあって、症状に苦しみながらスマートフォンでいろんな情報を摂取したり、社会情勢の変化をリアルタイムで感じたりしていると必要以上に不安が増幅していく部分があって、多分にしんどい。症状が重なってくるとそういう不安と戦う力も失われていくので、感染予防は徹底した方が良い

とはいえ、今まで面着(対面)で行っていた領域、たとえば接客業やエンターテインメントのリモート化であるとか、あるいはいろんな領域のデジタルトランスフォーメーションみたいな話まで、デジタルクリエイティブ屋ができることはわんさかある。やっと体調が戻ったところで、仕事に復帰できるチャンスももらえたわけだし、もうちょっと休みたいけど、とにかく働かなきゃいかんなあ…、という心境ではある。この病気の抗体がどの程度の期間有効なのかはよくわからないが、治った人間が率先して社会を再起動しないといけない、というのは確かにそうなのかもしれない。

自宅待機状態になってから、ニューヨークの街では、毎日午後7時から数分間、街中の人々が窓を開けて、医療従事者への感謝の気持ちを拍手や鳴り物を鳴らして声を上げて表現するのが毎日の習慣になっている。すっかり静かになってしまったニューヨークも、この時間だけは一斉に騒がしくなり、「一人ではないこと」を思い出させてくれる

体調を崩してnoteでの「NY非常事態日報」が更新を停止して2週間。1871名だったニューヨーク市の感染者数は4/2の時点で4万4915名。20倍になった。伏せっている間に外出はできなくなってしまったし、都市機能は止まってしまった。今のニューヨークは3週間後の東京だ、なんていう話もあるが、それはどうなのかわからない。

ただ私が言えるのは、この病気は、罹患してそこそこ進行すると、ものすごくしんどい。命を落とす人がいるのもわかる。社会的な状況も相まって、総合的にしんどい。良いことは何もない。

私の場合、余裕をぶっこいて外出していたらこんなことになってしまった。私が外出をしていたのはニューヨークがちょうど今の東京くらいの感染状況の時期だった。つまり、今の東京くらいの状況で感染した感がある。2週間前の日記を見てみると、メトロポリタン美術館にも行ったし、公園にも行っていた。花見を楽しんでいる日本の人たちとあまり変わらない感じではあった。注意できるのなら本当に注意した方が良いし、みんなで感染を遅らせられるのなら本当にそうした方が良い。

これから、自分と自分の家族のような状況になっていく人たちが日本でも増える可能性がある、ということであえて事実と心境と経過をまぜこぜにしつつ長々と書き殴らせていただいた。参考記録として皆様の一助になればと思う。ニューヨークの病院で治癒者の血清を募集していたりもする。今後、抗体検査を受けるチャンスなどもあるかと思うのでまたここでご報告できればと思う。

FINDERS向け追記:食料調達はどうしていたか?

街のピザ屋も、テーブルと椅子は座れないように積んであり、ピックアップカウンターだけが開いている状態。貼り紙にも、その旨が書いてある(3/18撮影)

note記事を公開した後に、反応を頂く中で多かった質問の1つが、「闘病中、食べ物はどうしていたのか」ということだ。

上述の通り、家族全員で罹患していたということがあり、妻も私も一切自宅の外に出ることができない。

今のところ、ニューヨークはロックダウン状態ではあるものの、スーパーマーケットや薬局などの「essential business(社会的に必要不可欠なビジネス)」は、継続して運営されている。

つまり、外に出れば食料品の買い物はできるし、発症直前の3/18には妻が最寄りのスーパーマーケットで買い物をしていた。その時点で、恐らく今の時点でも、食料は品薄ではあるが買い占めなどはそこまで発生せず、あまりストレスなく買うことができる状況だと思う。

スーパーや薬局などでも、レジ待ちの列は2フィート(1.8m)以上人と人との間が空くように、即席の立ち位置ガイドが引かれている

ところが発症以降は家から出ることが不可能になったため、外に出て食料や日用品を調達することも不可能になった。

しかし、実は我が家ではこのような状態になる前からFreshDirectなどの生鮮品・日用品の宅配サービスを利用していたので、すぐに「じゃあFreshDirectで頼んじゃえばいいね」ということになり、すんなり解決した。FreshDirectは、アプリから購入したい食材を選び、決済すれば家のドアの前まで届けてくれるというサービスで、我が家だけではなく、多くのニューヨーク住民が利用している(他の街ではどうなのかよくわからないが)。

現在、FreshDirectの宅配はかなり忙しくなってしまっているようで、注文してから届くまでに少なくとも1週間くらいかかってしまう状況だが、先んじて注文をしておけばそれでもどうにかなる。

その他、Instacartのような宅配サービスで好きなお店で買い物を依頼して家まで届けてもらうこともできる。Instacartは、Uber Eatsの買い物版に近い。買い物と宅配は、サービスに登録している個人が行っている。

食材ではなく、でき上がった料理を宅配してもらう場合、日本だとUber Eatsが市民権を得ているように思うが、ニューヨークの場合、Uber Eatsに加えて、SeamlessGrubhubなどのレストラン宅配サービス・アプリが、もう7〜8年前くらいから完全に市民生活に定着している(誰しもが利用している)。しかし、毎日料理のデリバリーに依存していると、レストランの値段設定も高いニューヨークではお金が無くなってしまうので、食材を調達して自炊するのが基本なのではないかと思う。

ニューヨークにはこういった宅配ビジネス市場というものがかなり社会の一部になっていて、今回のような異常事態でも、比較的ストレスなく、日常生活の延長線上のノリで「引きこもり生活」に移行できた面があると思う(宅配を担当する人たちはやはり貧困層が多かったりして、そこにはまた別の社会問題・人種問題も存在する)。これに関しては、住民としてあまり疑問を抱かずに受け入れていた部分があるが、日本の読者の多くから食べ物に関する質問をもらって、ハッと気づかされた部分でもある。

一人暮らしの老人向けの宅配ボランティア活動「Invisible Hands」の告知貼り紙。ニューヨークという街は、共同体意識が強い部分もあり、こういった自発的な活動もかなりの速度で拡がっていく

よく考えてみると、ニューヨーク・アメリカではもともと、食料品の宅配だけではなく、かなりオンライン化が進んでいたように思える。会議はよほどのことが無い限り、同じニューヨーク内でもオンライン会議。何かあれば家からリモートワークすることも、そもそも多かった。学校の授業ももともとGoogle Classroomという、教師と生徒間のファイル共有などができる無料サービスがフル活用されていたので、学校閉鎖後1週間でオンライン教育がスムーズに始まってしまった。その他、日本で生活しているよりもオンラインで済んでしまうことはかなり多いと言える。我が家の子どもたちも、熱を出したりしながらもオンライン授業にはついていっていた。

間近に迫っているようにも見える日本・東京のロックダウンのことを考えると、もしかしたら日本という国はリモートでいろいろやってしまうことに慣れていないのではないか、と思えてしまう部分がある。もし日本がかなり強めの外出禁止社会になり、私たちのように家からまったく出ることができない状態に陥った場合に、食料の調達難がより深刻に出てきてしまう可能性がある。そう考えると、今がそのあたりをシミュレーションして準備しておくことができる最後のタイミングなのかもしれない(物を買い占める、とかではなく、どういったサービスを利用しうるか、など)。