神保慶政
映画監督
1986年生まれ。東京都出身。上智大学卒業後、秘境専門旅行会社に就職し、 主にチベット文化圏や南アジアを担当。 海外と日本を往復する生活を送った後、映画製作を学び、2013年からフリーランスの映画監督として活動を開始。大阪市からの助成をもとに監督した初長編「僕はもうすぐ十一歳になる。」は2014年に劇場公開され、国内主要都市や海外の映画祭でも好評を得る。また、この映画がきっかけで2014年度第55回日本映画監督協会新人賞にノミネートされる。2016年、第一子の誕生を機に福岡に転居。アジアに活動の幅を広げ、2017年に韓国・釜山でオール韓国語、韓国人スタッフ・キャストで短編『憧れ』を監督。 現在、福岡と出身地の東京二カ所を拠点に、台湾・香港、イラン・シンガポールとの合作長編を準備中。
惰性的配本システム、その流通に乗るヘイト本
本屋に最後に行ったのはいつだろうか? 本屋で何かを「探す」という行動をとったのはいつだろうか? よくする人も、全くしないという人もいるだろう。永江朗『私は本屋が好きでした』(太郎次郎社エディタス)は、「出版業界や本屋にとってヘイト本とは何か?」という観点から、出版業界の制度疲労しつつあるシステムを浮き彫りにする。
本書は書籍輸入販売会社・編集者を経てライター専業となった著者が、2015年から2016年にかけて出版業界関係者や書店員に取材を行った上で、変わりゆく本屋を取り巻く状況を目の当たりにしながら2019年12月に出版した一冊だ。
「ヘイト本」とは、政府(政治家)や企業(経営者)といった公的な存在を批判する本ではない。「○○をする××人は酷い、劣っている」といったイメージを植え付け、特定集団への差別心を煽るようなタイトル・内容の本のことだ。内容を読むと政府批判寄りでヘイトスピーチと断言しづらい本でも、結局のところはタイトル部分で「それを支持する××人は酷い、劣っている」というイメージを植え付ける巧妙な本も多く、だからこそ「差別を(助長するのは)やめろ」という声に対して「政府批判もヘイトなのか!」などと的外れな反論をする人も増えている。
本書によると、ヘイト本のはじまりと言われているのは2005年に刊行された山野車輪『マンガ嫌韓流』(晋遊舎)というムックで、発行部数は公称100万部。2010年代に入るとムックから書籍にシフトし、2013年の室屋克実『悪韓論』(新潮新書)・『呆韓論』(産経出版社)などが出て、「嫌韓反中本」と呼ばれるような一定のジャンルとして確立していくが、2015年頃に流行は陰りを見せる。その後、2017年のケント・ギルバート『儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇』(講談社+アルファ新書)や百田尚樹『今こそ、韓国に謝ろう』(飛鳥新社)で息を吹き返したとまとめられている。
こうしてタイトルを列挙すると「確かにそんな本を見かけた記憶がある」という人もいるかもしれない。なぜいつの間にかこうした本たちが書店の目立つ位置に並ぶようになってしまったのか。まず、一般的な本屋の配本システムの基本知識をいくつかご紹介しよう。
・配本は店舗スタッフによってではなく、取次(出版社と店舗の仲介)によって決められる。通称「見計らい配本」
・大きな本屋優先で配本が行われ、大きな本屋は配本数や配本される本の種類が多い。そのため、発行部数の少ない本は、注文しない限り小さな本屋に配本されない
・本は基本的に返品でき、返品できない商品は「買い切り」(店舗サイドが買い取り)となる。「買い切り」システムを採用している代表的な出版社は岩波書店
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出版社は本をつくって(取次を介して)本屋に納品すると(エンドユーザーである読者にはまだ買われていないにもかかわらず)、本屋から代金が支払われます。本屋は(一定の条件内であれば)返品できるので、確実に売れるか売れないかわからない本でもとりあえず仕入れるし、ちょっと置いてみて売れそうになかったら返品します。(P20-P21)
書名が示す通り、「本屋が好きだった」著者は、本が大好きで出版業界で働くようになり、現在の著述家という職業に至っている。「本屋が好きだった」というのは単なる過去形ではなく、現職に就いたきっかけを示す一文であり、「本が好き」であることは著者にとって現在進行形の想いでもある。
絡み取られる本屋の意志――本来は「有り難い」ヘイト本の存在
本が好きであるがゆえに、著者は思い悩む。「なぜこんな差別を助長する本が、書店に置かれているのだろうか? こんな本が置いてある本屋に、人々は行きたいと思うだろうか?」と。ところが、日々忙しさに追われている書店員たちにとって、ヘイト本をどう扱うかという問題(問題として認識されない場合もある)は些細な悩みであることが多いそうだ。
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ある尊敬していた年上の書店員に「本屋の現場はヘイト本をどう扱っていいか悩んでいるのではないか」と言ったところ、「悩んでなんかいない。うちの若い従業員たちは、なにも考えずにただ並べているだけだから」と鼻先で嗤(わら)うように返されて、それが私にはショックでした。(P26)
筆者も実は「本が好き」で、都内の駅ビルに入っているチェーンの本屋で、商品管理の仕事をしていたことがある。午前中は納品される数十箱のダンボールの中に入った本をひたすら各ジャンル担当者に振り分け、午後は返品する大量の本をダンボールに詰めることで一日が終わった(ちなみに、努力しなくても腕の筋肉がものすごくつく)。
本屋という空間に期待をふくらませて入店したが、ダンボールの大量さに圧倒され、各担当者も本一冊一冊について考えている余裕がないのが見て取れて、働きはじめのときは少し落胆したことをよくおぼえている。特に、本書でも言及されている「即返(即返品)」は、働くモチベーションに大きく響いた。ダンボールに入っている書籍の題名・著者を一瞥しただけで、ときにはダンボールのテープを切りもせず、返品するということだ。
多重に連鎖した要因が意思決定に関わり、多くの本屋は「どうならべるか」にも思い至れない。そうした現状を踏まえた上で著者がひとつの理想像として挙げているのは、ジュンク堂書店難波店の店長・福嶋聡が提唱する「言論のアリーナ」論だ。「出版する<publish>とは、つまり公<public>に出てくるということなので、反対意見の書籍もありがたく読んで、意見を戦わせるきっかけにすべき」という考えで、福嶋氏は賛成意見と反対意見を同じコーナーに並べる方針を採っている。
ヘイト本は置きたくはないけれども、本を売らなければ本屋は生き残れないという葛藤
現代社会の忙しさの中で、希少な可処分時間のどれだけを書店という空間や読書というひと時に使ってもらえるかという課題は、出版業界人にとって大きな壁だ。本屋の店長は従業員を食わせていくために、Amazonや電子書籍の勢いが増す中で、売上を少しでもあげなければいけない。
本書に収録されている独立系書店店主による座談会で、「ヘイト本に対しては厳重に接しなければいけない」という理想は承知しつつも、文京区の独立系書店・往来堂の代表・笈入建志氏は「やはり売れなくてはしかたがない」と、陳列と売上のバランスに気を払う。
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笈入 プロクターの『健康帝国ナチス』(草思社、二〇〇三年)とか、牧野智和の『日常に侵入する自己啓発』(勁草書房、二〇一五年)とか、そういう本を置いたら、「ジョコビッチは『生まれ変わる』って言ってたけど(『ジョコビッチの生まれ変わる食事』三五館、二〇一五年)、そんなのだめなんだな」ってなるじゃないですか。いっしょに置いたらいいっていうもんでもない。売れなくちゃしょうがないんで。店のなかのどっかにはあるようにはしたいんですけど。(P68-P69)
では、大小関わらず各々の書店がしっかりと意志を持って入荷・陳列・販売できるようになるためには、何が変わればいいのか? 本書で指摘されている課題点は山積みだが、特に著者は出版業界のシステムと編集社(編集者)のメンタリティを、ホロコーストを生み出し、第二次世界大戦後にその「凡庸な悪」を裁かれたアドルフ・アイヒマンを引き合いに出して批判している。
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わたしが「出版業界はアイヒマンなのか」と思ったのは、個々の関係者が積極的に排外主義を広めたり、在日外国人を怯えさせたりしようと思っていなくても、「それが与えられた仕事だから」という理由でヘイト本を編集したり売ったりして、結果的に差別を拡大し憎悪を扇動することに加担しているからである。(P173)
ある編集者が出版物を「ヘイトだ」と批判されたときに、「ヘイトと言う方がヘイトだ」という反論になっていないリアクションをしたことに、著者は落胆を示している。そうした思考停止した姿勢から、「たくさん本を出版して本屋に納品されれば(返品はあるにしろ)ひとまずお金が入る」という発想がうまれ、経営が苦しい出版社はたくさん本を出し、その本を受け止めるためにパターン配本というシステムは根強く続き、現場の書店員たちは忙殺される。
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だれだって好きな仕事だけでは食べられないように、世に出ている本がすべて「つくりたくてつくった本」とは限らないのだ、と言いたくもなるだろうが、しかしそれでいいのか。ものには限度というものがあるではないか。なんぼなんでもひどすぎる、ということがあるはずだ。(P205)
ヘイトは批判ではなく憎悪に基づいた差別であると、著者は声を荒立てる。しかし、それに加勢する余裕が、現場の書店員たちの多くには残されていない。なぜそのような状態に陥っているのかということを、本書はシステムの根本から問いだしている。