CULTURE | 2018/05/09

元ガングロギャルが、東北に「渋谷センター街」を作るプロジェクトが始動!多様な生き方を包む最初の一歩とは?


去る2月25日、クラウドファンディングサイト「CAMPFIRE」で大きな話題となったプロジェクトがある。岩手県・遠野...

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去る2月25日、クラウドファンディングサイト「CAMPFIRE」で大きな話題となったプロジェクトがある。岩手県・遠野に「渋谷センター街」を作ることで、生きづらさを抱える子どもの“居場所”作りをするというものだ。その発起人こそ、かつて自身も渋谷を闊歩していた元ガングロギャルの家冨万里さん(31歳)。現在の姿と、高校時代の派手な髪型、ギャルメイクを施した姿のギャップもあいまって、前代未聞のインパクトを放っていた。

結果、クラウドファンディングでは、339人の支援者を味方につけ、目標額350万円を上回る380万円を獲得。現在、岩手県・遠野で暮らす家冨さんに、若者の居場所である「センター街」を作る目的やこれからの展望について話を伺った。

聞き手:米田智彦・庄司真美 文・構成:庄司真美

家冨万里

スナック「トマトとぶ」ママ/Next Commons Lab ディレクター

東京都出身。岩手県遠野市在住。スナック経営、起業家支援、中高生の居場所づくりに邁進する31歳。中学時代のいじめ、家庭の問題、家出と深夜の徘徊、学校にも家庭にも居場所のない中学・高校時代を送る。10代はセンター街や新宿の夜の町など社会の隙間に居場所を見出し、やがて美大に進学。建築の勉強を通しデザインと人間の営みについて考える。卒業も間近な頃に東日本大震災が起こり、もろさが露呈した都市を目の前に「生きる力を身につける」と決め遠野へ移住。農家のボランティアや郷土芸能団体への弟子入りを経験するなど、地域に溶け込む力を育み、今現在の活動に至る。現在遠野に、多様な人が集える、渋谷センター街のような新しい居場所をつくる活動に取り組む。

「Next Commons Lab」のプロジェクトだった

CAMPFIREのプロジェクトページ 

―― まずは見事、目標の350万円獲得おめでとうございます。残り2日の時点ではまだ200万円台でしたよね?

家冨:最終的に大幅に上回る達成となり、うれしく思っております。でも、実は残り20日の時点ですでに焦っていました。クラウドファンディングの経験者に聞くと、最後は伸びるものだということだったので、それを信じて最後まで諦めずに、しっかりPR活動に努めようと思っていました。

ウェブ上で目を引く様なプロモーションを戦略的に考え、動画を制作したり、SNSを利用して発信するほか、東京と現場である遠野、その他の地域でもでPRイベントをしてきました。ただ、あくまで受益者は地域の人なので、地域の人からネガティブな意見が出ないように実態がある活動であるということを一番意識をして現場での活動にも取り組んでいました。実際は、やはり地域にセンター街を作ると聞いて、ネガティブな見方をされた方がいたのは事実です。「ゴチャゴチャした汚い場所を勝手に作ろうとしてるんじゃないか?」と。でも現時点で無い物を作ろうとしているので、対話を大事に、体現していくしかないと思いすすめてきました。7年前に移住してきた人が、いろんなことを経て、地域に必要だと思った場を生み出そうとしているんだな、意義のあることをしているんだな、ということをPRすればするほど理解が深まっていく感触はありました。

次第に地域の人からも、「応援しているよ」とお声がけいただき、最後まで心折れずにやり抜くことができました。

―― 最後の方は相当プレッシャーが大きかったように思うのですが、心境はいかがでしたか?

家冨:一見、私個人のプロジェクトのように見えて、実際は私が所属する組織「Next Commons Lab」のプロジェクトだったので、関係者の顔を思い浮かべると胃がキリキリするというのはありました(笑)。クラウドファンディングとして、“まちづくり”のカテゴリーの中で個人が表に立って資金集めをするものとしては比較的金額も大きい挑戦だったので、それがプレッシャーではありましたね。

―― 支援者339名は、地元の人とそれ以外の人ではどちらが多かったのですか?

家冨:おそらく半々ですが、遠野出身というよりは、東北出身の方が半分ぐらいです。残り6時間で目標金額達成まであと30万円という時、最後の最後で支援に名乗りをあげてくださったのは、遠野出身で今は別のところに住む起業家の方でした。東北や遠野出身以外の方のなかには「私も地方の閉鎖的な場所で生まれたので、すごく共感できます」という地方出身者からの声が多かったですね。

居場所のないガングロギャルの逃げ場が、「渋谷センター街」だった

―― そもそも家冨さんが、家にも学校にも居場所を見出せず、「渋谷センター街」に居場所を見出すようになったきっかけは?

家冨:私が“ギャル文化”に初めて出会ったのは、小学校6年生のとき。学校帰りにいつものように商店街の馴染みの本屋さんで立ち読みをしていたら、派手な格好をした女性が表紙を飾ったギャル雑誌に出会いました。自分の中で雷が落ちたような衝撃で、それ以来、自由に自分を表現するスタイルに憧れを持ち思春期を過ごすようになりましたね。やがて中学生になり、家庭内での不和があったこともあって、淋しさを埋めるように、ギャル風の派手な格好や振る舞いををするようになりました。強い自分を演出したかったのだと思います。家にも帰らず地元をふらつくようになりました。

ある日、ギャル仲間と「噂に聞く渋谷センター街に行ってみよう」ということで行くようになりました。それ以前に地元でも肌を焼く“ガングロギャル”の友達が増え始めていて、学校を超えてつながるネットワークができていたんです。「最近、●●︎ちゃんも渋谷にいるみたいだから合流しようぜ〜」みたいなノリで、自分のコミュニティの先に渋谷センター街があったとう感じですね。

―― 現在、当時の自分を振り返るといかがですか?

家冨:渋谷センター街をうろつくようになった高校時代は、アルバイトをしたり、原チャリの免許を取ったりすることで、一気に自由度や行動範囲が広がった時期でした。もちろん、学校の規範からしてみたらNGな子だったとは思いますが。自由を謳歌する一方で、社会からは“ギャル”というだけで良くないレッテルを貼られてしまうことに怒っている時期でしたね。

「見た目が派手だからダメ」「夜遅くまでほっつき歩いているからダメ」と、なぜダメだめかということの背景が、あまり大人たちに示されず否定ばかりしてくることに納得がいってませんでした。そういう思いもあって、より行動が過激に、非行がエスカレートしていったような気がします。

心にさみしさを抱えた子たちが渋谷センター街へ

―― 集まっていたギャルたちも同様に、心にさみしさ、生きづらさを抱えている子たちが多かったのですか?

家冨:トータル的に見たら多かったと思います。いつも「家に帰りたくない」といっている子とか、まだ10代も半ばなのに、すでに家出して彼氏と同棲しているような子もいましたね。居場所がないから、危険と隣合わせでも、渋谷センター街に居場所を見つけに来ていた子が多かったんじゃないかと思います。

―― 家冨さん自身、渋谷センター街に居場所を見出せたという実感はありましたか?

家冨:本心としては「非行に走りたくて走っていたわけじゃない」というのがあって、親に後ろめたさを感じることもあったし、できることなら暖かいお家で眠りたいし、家族と仲良くごはんを食べたいということをどこかで望んでいましたね。

それからセンター街に行っても、はじめの頃は色んな人とコミュニケーションがとれて楽しかったのですが、ただ単にたむろしているだけなので、そのうちに飽きてしまって。「生産的な空間ではないな」ということも、年を重ねるごとに何となく感じていました。だからあらためて振り返ると、センター街は一時期の私にとっては居場所でしたが、やはりどこかのタイミングで別の道を歩み始めようと考えたのだと思います。

―― 美大進学のきっかけは?

家冨:そんな状況だったので将来にあまり希望を持てなくて、そもそも高校も大学も進学しないつもりだったんです。すでにガングロギャルだった17歳のとき、親に初めて進路について相談しました。メイクやファッションに興味があったので、将来は「美容師になりたい」と告げました。すると、「専門学校じゃなくて大学のほうが、色んな選択肢があるから大学に行ったらどうだ?」と言われたんです。となると、行きたいと思える学科は美大のみだったので、子供の頃から好きだった建築を専攻として選び、美大に進学することにしました。建築的概念が好きだったんですよね。

―― 建築的概念とはどういうものですか?

家冨:子供の頃から1人で、“キン消し”(※)などを並べて、コミュニティのあり方を想像するのが好きだったんです(笑)。1人で何役もなりきって、情景を作って遊んでいたんです。

※漫画『キン肉マン』に登場するキャラクターの形を模したゴム製の人形「キン肉マン消しゴム」の略称。

本来の個性と自由な表現を発揮できた美大時代

―― お話をうかがっていると、家冨さんの発想は独創的で、美大向きの人だと思うのですが、入学後は水を得た魚のようだったのではないですか?

家冨:「なんでこんなに息をするのが楽なんだろう」というほど楽でしたね。大学では、毎日ガンダムの話しかしない人、「魔女の宅急便」のキキちゃんみたいなファッションで登校してくる人など、みんな本当に個性的でした。自分が好きなこと、表現したいことを素直に従っている子たちが多かったので、なんていい環境なんだと。自由な表現がベースにあるうえで、なにかを作るために前向きにチームで取り組むことに、ようやく居場所を見出すことができました。

実は1年間の浪人の後に大学に入学したのですが、1年目は、「学校に行く意味ってなに?」と鬱々としながら考えていて、ほとんど学校に行っていませんでした。というのも、その頃はまだ、親との不和の傷が癒えていない時期で、夜はキャバクラでバイトをして過ごしていたんです。ちょうどその頃、“Agehaモデル”などが流行っていて、「これからはギャルじゃなくてキャバ嬢でしょう」ということで、一気に色黒から色白を目指した時期でした(笑)。

1年間くすぶってみた結果、あまり状況も変わらないし、再び大学に通うようになりました。なので、厳密にはいきなり“水を得た魚”だったわけではなく、2年目から花開いた感じです。同学年のメンバーに恵まれたこともあって、楽しい学校生活を送れるようになりました。

震災をきっかけに生きる力を身につけるために地方移住へ 

―― 東日本大震災のときは就活中だったとのことですが、震災が起きたときに思ったこと、感じたことについて教えてください。

家冨:当時、自分がどんなことをしたいのかを思い描けないまま、漠然と「このまま東京で就職して暮らしていくんだろうな」と考えていました。そんなモヤもやっとした気持ちを抱えたなかで起きた大地震の最中、タワービルの22階にいて、まさに“生きる・死ぬ”ということを実感させられる瞬間でした。「品川駅周辺に津波が来るぞ」などという誤報で、大勢が逃げ惑う姿も目の当たりにしました。

このとき、自分もパニックになりながら、このまま東京にいて、本当に自分自身を守り、生きる力が身につくのだろうかという疑問が生まれたのです。次第に東京以外の場所、地方に目が向き始めました。東京の生活を支えているのは地方ですよね。私たちがどうやって生かされているかということを、これを機に知らなければという使命感にかられたんです。エネルギーや食料がどうやって作られているか、全身全霊で体験できる場所に身を置こうということで、地方移住を決めました。

移住先の3つの条件は、「東北」「被災地」「郷土芸能」

―― 岩手県・遠野に移住したきっかけは?

家冨:若者が縁もゆかりもない地域と関わる事で自分を客観的に見つめ、新しい価値観や人生観を得る機会をつくることを目的としたプログラム「緑のふるさと協力隊」に参加したのがきっかけです。全国の地方自治体に1年間派遣されるんです。私が出した派遣先の希望条件の1つ目は東北。理由は、「ギャルは南国育ちだから暑いところに行くとダラけるよ」と姉に言われたからです(笑)。それから2つ目は、地方移住を決めたのは震災がきっかけだったので、なるべく被災地に近いところであること。3つ目は、郷土芸能が盛んなところ。学生時代、海外を旅してまわるバックパッカーだったので、土着の文化に興味があったのです。その3つがマッチングしたのが、たまたま岩手県・遠野市でした。

―― 1年間の派遣のはずが、すでに移住7年目となる家冨さんですが、岩手県・遠野に惹きつけられた部分はどこにありましたか?

家冨:東北は寒さも厳しく、どちからといえば内向的な人が多い土地柄ですが、仲良くなれば家族の様に暖かくお付き合いしてくれる人ばかりです。また、震災をきっかけに東北にいろんな人がサポートでやって来たことで、外から来る人を受け入れる文化が醸成されたのでは、と感じます。それは遠野も例外ではありません。

はじめは地元の人の懐に入るまで時間がかかりますが、今となっては東京では味わえないうれしいおせっかいもたくさんあります。たとえば、風邪を引いて1人で寝込んでいたとき、近所のおばあちゃんがごはんを持って来てくれたこともありました。そうした地域ならではの人とのつきあい、温かさがあるのが魅力です。

現在、地域で起業を志す人たちの支援活動をしているのですが、やはり東北は本当に寒いので、移住した人たちはみんな口を揃えて、冬は活動力が落ちるね、と言っています。自然と隣り合わせの地域で暮らしてみると思うのは、やはり人間も動物だなということです。調子の良い時もあれば、悪い時もある。それを思うと、若者の居場所作りを考えたときに、人にはバイオリズムがあるからこそ、システマチックに管理するやり方は合わないんじゃないかなと改めて思っています。

狭い価値観を超えて、多様な生き方を見出せる「場」を創る

―― 遠野で「Next Commons Lab」と出会った経緯は?

家冨:2015年の春に1年間、地域でボランティアのプログラムに参加し、その後の2年間は、市の非常勤職員として働くことになりました。ボランティアではなく、いざ働いてみると色んなことに気がつきました。そもそも地域では給与が安いこともあり、貯蓄する余裕もなく、働けど毎月が自転車操業という暮らしで正直きつかったです。(笑)。時に暖房費も節約しなければならないため、とにかく寒いのを布団をかぶりながらしのいでいる時もありました。血縁関係者のいない地域での1人暮らしは精神的にもキツイ時期がありましたね。ボランティアとして恵まれた待遇をいただいていた1年目とは大きくギャップを感じた2、3年目で、雇用という形態に身を置いている以上はこのサイクルから抜け出せないかもしれない、と危機感を抱いたタイミングでもありました。そこで4年目からは、一旦組織から飛び出してフリーになろうと決めました。資源豊かなこの土地で自分なら何が生み出せるか挑戦してみることで、自分らしく生きられる場所を作りたいと考えるようになりました。

そんなときに出会ったのが、現在所属する「Next Commons Lab」の代表の林篤志さんと、彼が実行委員として立ち上げた「東北オープンアカデミー」でした。2020年までに東北から1000人の社会事業家を生み出すことをスローガンに掲げたメンバーシッププログラムです。知恵もコネもお金もない私でしたが、この取り組みに参加することで得た学びと想いを形にするべく「アイデアピッチコンテスト」にエントリーし、プレゼンテーションをしたところ見事優勝することができ、50万円の賞金を獲得しました。それを手掛かりに立ち上げたのが、現在ママとして運営をしている「スナック トマトとぶ」です。また、優勝と同時期に代表の林篤志さんにお声がけいただき、「Next Commons Lab」の立ち上げメンバーとしてジョインすることに。地域において、いろんな人たちとネットワークを築いてきたこと、知らない地域で死なずに生きてこれた、私の泥くささみたいな部分を買ってもらえたんじゃないかなと思っています(笑)。

岩手・遠野のセンター街構想

―― クラウドファンディングで得たお金で、これから作ろうとしている“遠野のセンター街”の構想について教えてください。

家冨:かつて私が居場所を求めて渋谷センター街に行ったように、地域に「多様な価値観を認める居場所」を作りたいと思っています。居場所、というと抽象的ですが、目的は「人が主体的に生きられる場所」を作ることなんです。主体的に生きるためには、小さくても良いので自分ができることを通して誰かの役にたってみる経験や、それによって感謝されることで自信をつけ、自己肯定していくということが大事だと思うんです。また、一方で、すぐには何かできないという人が居ても、受け入れられ・認めてもらえる環境であることも、居場所を作るうえでは重要です。

人は人に傷つき、人に癒される、ものかもしれません。まずは人が心地よく関わり合える環境を整備していこうと思っていて、それがこのプロジェクトの第1フェーズだと思っています。

ゆくゆくは、Next Commons Labとして、地域にある小さな仕事のマッチングをはかっていくネオ・ハローワーク的な役割も果たしていけたらいいなと思っています。地域にはフルタイムの仕事以外にも、たとえば「夏に草刈りをしてほしい」といった期間が限定的で大小様々な仕事の需要が実は多くあります。たとえばそこに、家にも学校にも居場所を見いだせていないような若者をマッチングできるんじゃないかと思っています。

また、現在の取り組みを通して関わりはじめている若者の中には、クリエイティブ系の仕事に興味がある子もいたりするため、移住者として増えつつあるデザイナーやエンジニアの方などと相性が良いのではないかな、とも思っています。

小さい規模でいいので、個性や技能のマッチングをどんどん増やしていきたいですね。私の夫もクリエイティブ職なのですが、地元の高校生にアシスタントをしてもらっています。私にも元々引きこもりをしていた女子高生の秘書がいます(笑)。学校になじめず、毎日家にいるぐらいなら、私が仕事に行くときにピックアップして、多様なバックグラウンドを持つ大人たちに会わせた方が、絶対世界が広がりますよね。

施設のイメージパース

―― ほかに現在進行中の動きはありますか?

家冨:ハード面では、建物自体の修繕を3月までに終える予定(編集註:本インタビューは3月7日に実施)です。それから、一番重要である、「本当に居心地のいい空間をどのように作るか?」というソフト面の設計をプランニング中です。ただ単にオシャレな場所を作ればいいというものではなく、行けばいつも温く迎え入れてもらえる場所であることが大前提。コミュニケーションの質に一番力を入れるべきだと考えています。

私の場合、プライベートとパブリックの境界があいまいな人間なので、友人が家に突然遊びに来て、勝手にキッチンで料理してもさほど気になりませんけど(笑)。それはあくまで私の場合の話なので、そういう個々違う特性や感覚をどう調整していき、心地よいコミュニティとしていくかが鍵かと思います。プロジェクトオーナーである私もそのあたりの専門家ではないので、春からは行動療法士の資格をもった方にも新しくメンバー入りしていただき、共に考えていけたらと思っています。

どうしたらお互いを否定せず、尊重し合えるか?ということが、シンプルなようで一番難しい。ハードルも高さを感じつつも、挑戦しがいのある取り組みになると感じています。

―― 新たに作る「場」の運営費はどのように稼いでいくのですか?

家冨:2階部分の宿泊スペースがベースになっていくと考えていますが、短期的な売り上げに固執せず、それよりも、地域に必要とされる教育やコミュニケーションが育まれる場所になることが最優先だと考えています。フリースペースとして貸し出したり、イベントやワークショップを開催したりといったことも想定しています。

上述したマイクロワークのジョブマッチングの土壌を少しずつ作っていけたらと思います。

―― これまでにない可能性を秘めた場所になりそうですね。家冨さんの個人事業である、スナック「トマトとぶ」立ち上げの経緯についても教えてください。

家冨:岩手県・遠野市で、「自分だったらどんな新しい価値を創り出せるだろう」と、自分なりに考えた結果、カチッとはまった業態が、スナックでした。背景としてあったのは、人やアイデアが集まって情報交換する場所がなかったこと。それゆえに会議や飲み会では、いつも同じ顔ぶれで集ることが多く、新陳代謝が悪いなと感じていたんです。スナックなら、かしこまらずに、いろんな人が肩を並べて交流できる場として機能しそうだなと思いつきました。

それから、スナックの事業を考えたきっかけがもうひとつ。移住当時は24歳と若く、私のような若い子が地域にぽつんと移住すると、かなり飲み会にひっぱりだこで...ありがたい反面、正直とても消耗するんですよ(笑)。よく「今度飲み会をやるからお酌しに来い」とかお誘いを受けていました。そういった経験から都市部よりも年功序列や男尊女卑という文化が残る地域に、少しでも抗いたいと思っていました(笑)。なんせ、自分にとって貴重な20代の時期だったので。多様な人が出会い、交流し、あくまでフェアな立ち位置で語らえたら良いな、と考えた結果が、スナックだったのです。

―― 「スナック トマトとぶ」はどんな空間なのですか?

家冨:お越しいただくことが多いのは、Next Commons Labの取り組みやソーシャルビジネスに関心を持たれているような方だったり、お店がある親不孝通りに何十年も通っている地元のおじさまたちだったりと、本当にさまざまな方がいらっしゃいます。普段の生活では絶対出会わないような人同士が肩を並べて飲む店で、最後には意気投合して再会を約束している人も居たり。その様子をカウンターから眺められるのがママの特権です。

私は、橋渡し役に近いですね。片方のお客さんの意見を聞きつつ、もう片方のお客さんとの接点を見つけてつなぐイメージです。時にはかなり呑んべえの方もいらっしゃるので、やはりタフな仕事ではあります(笑)。

―― スナックのママを通じて見えてきたことは?

家冨:実は、今回のクラウドファンディングを機に、人生で初めて発達障害と診断されたことについて公表したのですが、そのことについて知った方達から、たくさんたのお問い合わせをいただきました。そんな方達の中には、実際にお店に足を運んでくださる方もいて、自分が抱える不安や障害のことなどについて相談していかれる方もいらっしゃいました。自分の弱さを開示することは、勇気のいることでしたが、逆に開示したことで生まれたご縁もあり、スナックという空間がより心の内を話し易い場であるということを実感した機会でした。

また、Next Commons Lab遠野のディレクターとスナックのママという2足のわらじをはくメリットとしては、それぞれの仕事を通してつながったご縁を、それぞれの仕事に還元できる点です。スナックを通して出会った方がNext Commons Labの仕事に関わってくれたり、逆にNext Commons Labの仕事を通して出会った方がスナックに飲みにきてくれたり。スナックは地域とNext Commons Labをつなぐハブとしての機能も持ち合わせているなぁ、なんて思います。

誰にでも開かれた場所から外の世界にふれられる場所の創出へ

―― 最後に、今後の中長期的な展望についてお聞かせください。

家冨: 誰にも開かれた場を通じ、多様な価値観に触れてもらうことで地域の若い子たちに、世界は多様で広いことを知ってもらえたら良いなと思っています。生き方の選択肢を増やしていきたいです。実は、さきほどご紹介した女子高生秘書をNext Commons Lab台湾の視察に同行させたこともあります。普段と違う環境にとても刺激を受けていた彼女の様子をみて、若いうちに外の世界を知ることは見える世界が格段に広がってくるんだな、と改めて思いました。私自身もなるべく外に出て情報を吸収しては、場所に還元できるような動き方をしていきたいです。

岩手県・遠野市からはじめるプロジェクトですが、日本社会全体に共通する課題を打破する取り組みだと信じています。自分が今いるこの地から、まずははじめていきたいと思います。


Next Commons Lab

スナック トマトとぶ