CULTURE | 2019/09/05

「公正中立」と「マスゴミ」の間で。フェイクニュースが蔓延するSNS時代をどう生きるか?|森達也(映画監督・作家)

SNSの普及とともに、急増しているフェイクニュース。メディアのような体裁を取ったサイトが意図的に誤った情報を配信し、影響...

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SNSの普及とともに、急増しているフェイクニュース。メディアのような体裁を取ったサイトが意図的に誤った情報を配信し、影響力のある匿名のアカウントが拡散。真偽を判断できない人々はデマを鵜呑みにし踊らされる。フェイクニュースは、日本だけでなく世界で社会問題化しており、人類の脅威となっている。

ドキュメンタリー映画監督の森達也氏はこれまで映画や書籍を通じて、一方的なメディアの報道のあり方に疑問を呈してきた。オウム真理教信者を被写体に教団内部を取材した『A』『A2』、ゴーストライター騒動で世間を賑わせた佐村河内守氏に密着した『FAKE』など、情報により変容する日本社会を浮き彫りにした作品を多数発表している。

フェイクニュースが蔓延するこのネット社会において、私たちはいかに情報に戦えばよいのだろうか。森氏に話を伺った。

聞き手・文・構成:岩見旦 写真:KOBA

森達也

映画監督・作家・明治大学特任教授

1998年にドキュメンタリー映画『A』を公開。ベルリンなど世界各国の国際映画祭に招待され、高い評価を得る。続編『A2』は山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞する。『A』『クォン・デ』『死刑』『放送禁止歌』『チャンキ』『ぼくの歌・みんなの歌』『自分の子どもが殺されてから言えと叫ぶ人に訊きたい』など著書も多数。

『A3』全文無料公開の反響

―― 森さんは今年1月、オウム真理教裁判を題材にした書籍『A3』をnoteにて全文無料で公開し、話題を集めました。なぜこの決断をしたのですか?

森:ちょうど1年前にオウム真理教の死刑囚13人が処刑されました。麻原彰晃は心神喪失状態で訴訟能力がなく、受刑能力も失っていたと僕は断言します。民主主義国家として彼を処刑すべきではなかったという思いが第一です。

そもそも麻原法廷は一審だけで終わっています。戦後最大級の事件とよく言われるけれど、その首謀者の裁判が一審だけで終わるなどありえない。しかも一審途中で精神が混濁し始めた麻原は、事件の動機についてはほぼ何も語っておらず、事件の根幹である動機がよく分からないままです。近代司法の大前提であるデュー・プロセス(適正手続き)がまったく守られていない。治療すべきでした。治る可能性が低い、あるいは治したとしても動機を語るかどうかわからない。そんな仮説を理由にして適正な手続きを省略することなどありえない。僕はそもそも死刑制度には反対だけど、麻原の場合はそれ以前に、裁判がまともに進行しなかったと考えています。これで幕引きなど許されない。

これは『A3』のテーマでもあります。でも僕の力量では、その認識は多くの人に広がらない。早く吊るせという声が圧倒的です。映画監督や作家を肩書にしているのだから、映画や本以外に声をあげるべきじゃない。そんな思いもあったけれど、昨年6月にこのまま処刑を座して観ているだけでよいのかと考え、雨宮処凛さんや香山リカさん、宮台真司さんと鈴木邦男さん、想田和弘さんや堀潤さんらと、麻原裁判をやり直すべきであるとの主張を掲げる「オウム事件真相究明の会」を結成しました。

ただし風当たりは本当に厳しかった。多くの人から麻原処刑を延期しようとしているとか歴史を捏造しようとしているなどと激しく批判され、しかも結成後すぐにオウム死刑囚たちは処刑されてしまった。

しばらくは虚脱状態でした。反発した人たちがせめて『A3』を読んでくれていたのなら、オウムのシンパだとか麻原は正常だなどのレベルの批判はできなかったはずだ。でも彼らがこの先も本を読むとは思えない。ならばネットなら読んでくれるかもしれない。そう考えて『A3』をネットで無料公開しようと思いつきました。前例はほぼなかったようだけど版元も了解してくれて実現できました。もう少し続けます。とにかく一人でも多くの人に読んでほしい。そして知ってほしい。

何よりも、地下鉄サリン事件をきっかけに、日本は大きく変質し始めたと僕は思っています。カメラを手に一人でオウム施設の中にいたからこそ、僕にはそのプロセスがよく見えた。つまりオウムは終わっていない。現在進行形です。反響はそこそこ大きかったので、少しは公開した甲斐があったと思います。

―― 森さんはこれまで手掛けられてきた作品で、マスメディアの報道姿勢を批判してきました。その視点を持ち得たきっかけを教えてください。

森:原点は最初の映画である『A』の撮影です。それまでは新聞すらろくに読まず、投票すら行ったり行かなかったりというレベルでした。テレビで仕事はしていましたけど、社会やジャーナリズムに対してとりたてて強い関心があったわけじゃない。

でも『A』を撮る過程で、僕はテレビ業界から弾きだされ、一人になりました。だから視点が変化した。オウムの内部に入ると、メディアや一般市民、警察権力の存在がそれまで自分が知っている姿とはまるで違うことに気付かされました。中でもメディアに対する違和感は作品にするなら絶対に外せないと思い、同時にこれは自分の主観だということに気付きました。

それまでドキュメンタリーやジャーナリズムは中立で客観的で公正であるべきと散々言われて、主観を出してはいけないと思い込んできたけど、それは全然違うということに、カメラクルーを取り上げられて自分でカメラを手にしたことで初めて気付きました。だってアングルやフレームも含めてカメラワークは主観そのままです。そこに編集作業で思いを込める。中立や客観などありえない。『A』は僕にとってターニングポイントでした。

―― オウム報道の教訓は今のメディアに活かされていると思いますか?

森:メディアの新陳代謝が激しくなっていて、オウムのことを覚えている人が減っているし、記憶の継承の方法は考えなければならないですね。それに、テレビもどんどん広告料が減っていますし、新聞だって部数が減っていますから、競争原理がむき出しになって、間違いなくゆとりはなくなってしまっているでしょう。でも悪くなるばかりじゃない。アメリカの新聞は自分たちの報道に対しての異論や検証を記事にします。Op-ed(オプ・エド)ですね。最近は日本の新聞にもこうした動きがある。

署名記事も日本で少しずつ広がってきました。アメリカでは署名記事が当たり前です。元ニューヨークタイムズ東京支局長のマーティン・ファクラーさんに聞いて驚いたのだけど、最近の『ニューヨーク・タイムズ』や『ワシントン・ポスト』では一人称の記事が多くなっているらしい。つまり、記者が「I」を主語にして記事を書いているんです。情報は個の視点であるとの宣言でもあるし、読者は否が応でも記者の視点を意識する。刺激的で正しく、そして面白い試みだと思います。記者が自分を主語にして記事を書くなど、社説は別にして日本の新聞ではありえないですよね。この二大紙が始めたので、おそらくアメリカでは今後広がっていくでしょう。

マスコミが三流なら社会も三流

―― 現在SNS上では、マスメディアに対して「マスゴミ」「偏向報道」といった批判が日々叫ばれています。

森:メディアは社会を写す鏡です。社会が求める形にメディアは変化します。特にテレビの場合は、視聴率は翌日には判明しますから、仮に数字が下がったら、その場で軌道修正します。何でこんなくだらない番組を放送するんだと怒る人は多いけれど、そのくだらない番組がより多くの人に支持されるから放送するんです。つまり市場原理。新聞も同様です。マスメディアと社会は相互作用です。

ネットで「マスゴミ」と言われますが、それは自分たちがゴミなんだと言っているに等しいです。今の日本のマスコミが三流ならば、今の日本社会も三流なんです。その三流の社会が選ぶ政治家たちも三流。この3つは常に同レベルです。

―― マスメディアの情報の公正中立さについてはどのようにお考えでしょうか?

森:選挙報道が典型だけど、公正中立さを担保するためと称して日本のメディアは自主規制してしまう。方向が逆です。多くのメディアが自分たちの思想信条も含めて情報を多用な角度から自由に報道する。そのうえでフェアネスを担保するという発想がまったくない。そもそも公正中立は相対的です。座標軸の設定によって変わります。絶対性などない。Aさんにとっては公正中立でも、Bさんには偏向して感じられるかもしれない。当たり前のことなんですけど、それを意識して気付くことが大切でしょう。

大学で教えていますと、学生から「例えば基地問題だけを取り上げても、朝日新聞と産経新聞では論調がまったく違う。一体どっちが嘘をついているんですか?」と質問されます。僕は「どちらも嘘ではない」と答えています。朝日には朝日の視点、産経には産経の視点があって、物事は視点が変わったら、見え方が変わるのは当たり前だと。そして朝日の視点は朝日の読者によって、産経の視点は産経の読者によって形成されます。つまりこれも市場原理です。

メディアはそれぞれのマーケットが好む方向に情報を加工します。だって現象や物事は多面的です。多重的で多層的。テレビなら時間、新聞なら文字数の制限があります。だから情報は四捨五入しなければパッケージにならない。このときどのように加工するかで情報はくるくると変わります。それは嘘ではない。でも真実でもない。そもそも100%の真実など存在しない。これに気付くことがメディア・リテラシーです。

情報の作られ方、メディアのあり方、リテラシーをもっとみんなが身に付けたら、もう少しクールダウンできるのではないでしょうか。

―― 社会を良くしていくためには、やはりメディアが変わる必要がありますか?

森:僕はメディアが自発的に変わることは無理だと思います。だって新聞社もテレビ局も出版社も営利企業ですから。営利を追求することは当たり前。ただ幸運なことに僕たちは近年、SNSを手に入れて発信できるようになりました。これは大きなアドバンテージです。社会がこれによって多少でも変われば、メディアなんてあっという間に変わります。SNSはいい機会を僕たちに与えてくれた存在であると、間違いなく言えると思います。

ただ、特に日本の場合はネットの持つ匿名性がネガティブな意味で成熟してしまっています。誰かを叩いたりバッシングしたり、あるいはフェイクニュースを何らかの意図に基づいて出したりするようなことが起きていますので、今の所日本ではプラスマイナスゼロかなと感じています。

でも、世界に目を転じれば、アラブの春であったり香港の逃亡犯条例改正案に反対するデモであったり、特に若い世代がスマホを手にしてどんどん新しい動きをしているわけで、日本でも可能だと思いたいです。

何も考えていない人が手にする異様な影響力

―― 日本を取り巻くSNSの現状として、レイシズムやデマ、罵詈雑言を投稿する政治家や著名人がどんどんフォロワーを集めて、影響力を得ているという現象が起こっていますね。

森:まさしく3年前にトランプが大統領選で勝利したときと同じ現象ですね。誰も予想していなかった。でも彼が人々の気持ちをグリップした一つの理由は、本音を言うことだと。ポリティカル・コレクトネス的な上品な物言いはせずに、本質をズバッと言ってくれるみたいな。それがフェイクなのかトゥルースなのかはどうでもよくて、とにかく気持ちいいということかな。要因は他にもたくさんあるけれど、まずはこれが大きいと思います。

だからやはり、今この社会のあり方に対してどこかうんざりしてきた人が一定数溜まるとそういう現象が起きてしまうのかもしれませんね。

―― 「正論」なんてうんざりだという意見に共感する人たちはどのようなことを考えているのでしょうか?

森:何も考えてないんだと思います。少し古い話になりますが、ブログ「余命三年時事日記」を発端とした、弁護士に対する大量懲戒請求問題が起きました。大阪の毎日放送が昨年末に放送した、ブログ主催者に取材したドキュメンタリーを最近見たんですが、取材に対して何の悪気もなく、「あんなのコピペだよ」と言い放っていて、隠そうという気がないんです。本当に薄っぺらい。だけど、その薄っぺらさを多くの人がトゥルースだと思い込み、結果として誰かを傷つける。

何も考えてないことの怖さですね。考えていたら、もうちょっと意味のある悪事をやったと思うんだけど、何も考えていないから手の施しようがないです。

極論、人間はみんなこのような要素を持っているんです。集団の中の一人として埋没したときに、「僕」や「私」などの主語が「我々」や組織の名前に変わります。つまり一人称単数の主語を捨ててしまう。ならば述語も変わります。そして取り返しのつかない失敗をしてしまう。もう一つは馴致能力です。つまり慣れ。人間の馴致能力はすさまじいですから、自分がいる場に合わせてしまうわけで、その中でどんどん違和感がなくなってしまう。こうしたことで傍から見れば、あるいは遡ってみればとんでもないことをやっているんだけど、当の本人は全然気付かない。だって集団に埋没していますから。

フェイクニュースを書く人、騙される人、煽られて炎上する人、罵倒する人も、大なり小なりそうした要素があると思います。

―― SNSの登場以降、逆に社会が窮屈になり息苦しくなったように感じます。森さんは社会が不寛容になったと感じますか?

森:変化したというか、そういうことがむき出しになったと思います。不寛容さは昔からありました。『A』『A2』を撮りながら、オウムというパブリック・エネミーの出現に対抗しようとして日本社会が集団化していく過程が僕にはよく見えた。発動したセキュリティ意識は新たな敵を探します。見つからなければ無理やりに作り出す。911の後のアメリカがまさしくそうですね。日本の場合は集団の中の異物として在日外国人などに対する憎悪や排除の意識が分配され、さらに周囲の国を仮想敵国と見なして安全保障政策が変わる。この状況はほぼ予測できました。

それは今後抑制できるのか、今のところ手立ては見つかっていないです。今のアメリカやヨーロッパを見ても、集団化によって移民排斥や一国主義、右派政党の台頭など同じようなことが起きていて、人間はつくづく不安と恐怖に弱いんだなと思います。当分続くんじゃないでしょうか。

―― SNSが当たり前になった社会で、フェイクニュースに踊らされない、ネットリテラシーを身につけるためにはどうすればいいですか?

森:まずはSNSのメカニズム、構造的な部分を理解することです。SNSを使っていると、スマホの画面が世界につながっているように思いがちですが、実際はこれまで何を投稿したとか、何をクリックしたとかのデータからアルゴリズムに従って、好みや志向に沿うように表示しているので、人によって全然違うんです。これを知ることが最初でしょうか。世界があたかも同じ意見で一色であるかのように思い込んでしまうので、このあたりは愚直に何度も言うしかないですね。

森達也ドキュメンタリーにとっての公正中立

―― 森さんは作品をドキュメンタリー映画や書籍で情報を発信する上で、公正中立をどのように意識しているでしょうか?

森:情報に公正中立なんか絶対に有り得ないということを前提にしながらも、できるだけ公正中立であることを標榜する。それがジャーナリズムではないかと僕は思っています。

僕だってもちろんできる限り公正中立でいるべきだと思っています。ただあくまでもできる限りで無理はしません。特にドキュメンタリーを撮るときは、自らの主観を表出することを最優先順位にします。公正中立を担保するために、大事なところを削るようなことはしません。

―― 森さんは次の作品で、どのような問題意識を取り上げたいと考えていますか?

森:東京新聞の望月衣塑子記者を被写体にしたドキュメンタリー映画『i-新聞記者ドキュメント-』が、11月15日に公開予定です。今公開中の『新聞記者』という劇映画のスピンオフ的な企画です。だからテーマはジャーナリズム。今はまだ、撮影と編集を並行して行っている状況です。

―― 最後に、フェイクニュースが溢れる日本のネットにおいて、私たちネットメディアはどのような情報を発信すべきとお考えですか?

森:営利がないことにはネットメディアは存続出来ないですから、当然みんなが食いつくコンテンツであることが大前提でしょう。でも、それだけに従ったら、グルメ情報とか芸能人の不倫や浮気とか、そんな話ばかりになってしまいます。

敢えて言いますが、ドメスティックなことだけじゃなく世界が今どうなっているのかを伝えるべきです。言い換えればこの国の関心事は、これだけ世界はネットを媒介にしてボーダレスになったのに、いまだにとてもドメスティックです。この意識が変わるだけでも、日本はずいぶん変わるんじゃないなかな。

もう一つ大事なことは、これはそもそもメディア全般、あるいはジャーナリズムの重要な機能なのだけど、声の小さな人、弱い人、諦めかけている人の声を代弁することです。権力監視もメディアの重要な機能のはずだけど、今は既成メディアのこの力がとても弱くなっている。ならばウェブでやっちゃうよ、との気概を見せてくれれば、もっと有意義で面白くなるかも。…まあ、今のこの国の社会がそんなネットメディアを歓迎するかといえば微妙ですが。