吉川 聡一 (よしかわ そういち)
吉川紙商事株式会社 常務取締役執行役員
1987年東京生まれ。学習院大学卒業後、飛び込み営業を含む営業職の期間を2年半経て、現在の吉川紙商事に入社。現社長・吉川正悟が掲げる「人と紙が出合い、人と人が出会う」を実現するため、同社にて平成25年より取締役を務める。2017年にはオリジナルブランドの「NEUE GRAY」を、2020年には和紙のオリジナルブランド「#wakami」をプロデュースし、紙、ステーショナリーの双方を発売。現在はそれらを国内外にて販売するという形で活躍を続ける。
“地域” ごとに歴史を紡いできた 「日本の紙」
秋風が気持ち良く感じられる時期も過ぎ、今年もだいぶ肌寒い季節となりました。少し振り返れば、今年の夏も連日、唸るような暑さが続きました。私がまだ小さかった頃は、ここまで日本全国どこも暑かった…というような記憶はありませんでしたが、温暖化の影響なのか年々、日本全国どこも暑い…さらに言うと、夏が長い…といった気候になっているように感じます。日本には伝統的に 「四季」 があり、「季節感」 というのを感じていたはずですが…。
さて、今回は日本の紙の歴史の3回目。前回は平安時代をクローズアップして書かせて頂きましたが、今回は鎌倉時代から明治時代まで一気に取り上げさせて頂こうと思います。
と言いますのも、平安時代以降、「紙」
は地域ごとにその歴史を紡ぐようになっていきます。
その大きな原因となったのは
「地方豪族」 の台頭でした。昔、日本はこの小さな島国であったにも関わらず、数多くの「国」に分かれていたそうです。その証拠に私が子供の頃、祖父などは会社の方がお盆やお正月に故郷に帰る際に
「国にはいつ帰るの」 と聞いていたのを思い出します。また、「方言」 などが非常に多いことも、昔、この小さな島国が非常に多くの国に分かれていた証拠と言われています。
第2回のコラムでも記載しましたが、当時、紙は人に情報を伝えるための唯一の通信手段でした。現在で言えば、スマートフォンのような存在であったと言い換えることができると思います。各国にとっても、この通信手段の確保は国を運営していく上で大切な意味を持っていましたので、各国はそれぞれに
「自国の紙」 を作っていきました。そして、それが安土桃山時代に入り、織田信長によって 「楽市楽座」 が推奨されると、お互いの国同士で取引されるようになり、「自国の紙」
の発展を進め、より良い、より競争力のある紙が次々に生まれていきました。現在の携帯会社がそれぞれに携帯の機種を作って売上を競っているのと同じような感じです。当然ながら、競争が起これば、それだけ
「モノ」 としては洗練されていくもの。「日本の和紙」 が世界に誇る産業として現代まで続くものとなっていったのは、この、次々と紙ができていき、産業を成熟させる時期があったから…と言えると思います。
では、この時期、どのような紙がこの世に存在したのか?
今回は2つの紙について絞って記載させて頂きます。
ちなみに、今回のコラムのキーワードは
「軟水」 になります。その点にも注目しながら、この後を読んで頂ければ幸いです。
「画家にとってのキャンバス」 ~日本の紙がインテリアとして使われるようになった理由
今回ご紹介する1つ目の紙は 「襖紙(ふすまがみ)」
です。
室町時代に生まれてから、現在まで日本文化の象徴として、世界中で独特な存在感を放ち続けているこの紙。この紙が独特な存在感を放っている理由は
「紙がインテリアとして使われていること」 と、「画家にとってのキャンバスになっていること」 の2つが挙げられます。
そもそも、世界中で
「紙」 を建築に取り入れているのは日本だけ。その理由は後ほど詳しく説明をしますが、壁や障子に紙を用いたことで、結果的には 「家の中のすべての場所において、人が表現することができる家」 が室町時代に日本に誕生することになります。では、なぜ、このような家が誕生したのか?その全ての理由は、「ネリ」
と 「軟水」 を使用した製紙方法 「流し漉き」 にあります。
なぜ、日本の紙がインテリアに使用することが可能だったのか?
それは、太陽の光に当てても形状変化が起こりにくい素材であったからです。ここまでに複数回にわたって日本の紙を語る上で 「軟水」 という単語を記載してきましたが、ここでもキーワードになります。そもそも、この
「軟水」 とは、水中のマグネシウムやカルシウムなどのミネラル含有量が1リットルあたり0〜60mg/Lの水のことを指します。紙が太陽の光に当たったとしても、形状変化を起こさないかどうか?は、実はこの
「水」 の中に含まれる 「マグネシウム」 が、大きな鍵を握っています。
マグネシウムを多く含んだ紙は、太陽の光に当てると酸化します。酸化した紙は、すぐに繊維自体が劣化していくので、形状を保てなくなりますので、諸外国の
「硬水」 で作られた紙は太陽光に当てることはできませんが、日本の 「軟水を使用する流し漉き」 で作られた紙は太陽光に当てることができたのです。
それに加えて、ここは軟水大国、日本。現在も国内の大部分の地域で、軟水を豊富に得ることができるため、大きく、軽く、通気性のある紙を
「流し漉き」 によって作ることが出来たのです。こうした背景が、平安時代に人々に遮光を目的として障子紙を使い始めさせ、その後、日本の建築最大の特徴である、「間」
の誕生と共に、現在の私たちも壁紙や襖紙などの 「インテリアに紙を使う文化」 を育んでいったと思います。
そもそも、「襖」
の紙は室町時代に生まれましたが、この紙の基になったのは 「料紙」。前回のコラムに記載させて頂いた、女性が苦しい境遇の中、自分たちの感性を使って開発した彩を与え、自分の感情表現の道具とした紙です。この
「料紙」 は、平安時代の終わりに 「仮名」 の存在と共に一気に脚光を浴びます。そのきっかけになったのは 「色」。はじめは女性が自分の感情を表現するために付けた
「色」 でしたが、時間と共にこの 「色」 は 「装飾」 へと変化していきました。
そしてついには、襖は
「人の目を遮ること」 を目的とした 「インテリア」 であると同時に 「キャンバス」 へと変わっていきました。現在もそうですが、「紙」 は人が自分の表現を記す道具。インテリアに紙を使った時点で、家中がキャンバスに変わっていくのは必然だったと言えるような気がします。
1つ特殊な技法にて漉かれた襖紙をご紹介させて頂きます。平安時代に生まれた襖紙の技法に「飛雲」 「打雲」
というものがあります。この模様は漢字の通り、「雲が飛んでいるように」 見えるように模様が付けられていくのですが、元々は平安時代の紙漉き職人が空を見上げて模様を付けた紙…と言われております。今で言うならば、まさに 「写真」。カメラがない時代に空を見て、風景を切り抜いて、それを表現している創造力にも驚くばかりではありますが、さらに当時の人々はその上に書をしたためて、楽しみました。風景の写真の上に文字を乗せる…。まるで、現代のポスターのようですよね。当然ながら、現代でも自分の好きなポスターを家に貼る方は多いのではないでしょうか?
そして、当然ながら、「アート」
には絵画も存在します。「写真」 や 「絵画」 を家に飾る…。時代は変われど、人が暮らしに求めるモノが同じこと、そして、それを平安時代から確立していた日本人の創造力を
「襖紙」 という紙は教えてくれるような気がします。
サスティナブルな 「再生紙の歴史」 と 「日本文化」
2つ目の紙は 「再生紙」 です。
現代において、SDGsという言葉やサスティナブルという言葉と共に注目を浴びている紙ですが、日本には独自の 「再生紙の歴史」 が存在しているので、ご紹介させて頂きます。
かねてより、日本には
「漉返紙(すきかえしがみ)」 という紙が存在します。読んで字の如く、「漉き返す紙」=「再生紙」
です。
「紙屋紙」
とも呼ばれるこの紙は、平安時代に誕生しました。朝廷において、公文書として使用された紙を、国営の製紙メーカーである 「紙屋院」 にて漉き返しを行い、作られたことからこの紙の名前が付けられました。当時、紙は
「ご奉納に値するほどの高級品」 でしたので、この 「漉返紙」 は瞬く間に全国に拡がっていきました。
では、なぜ、こんな
「漉返紙」 という紙が生まれたのか?
ここでも、「軟水」
と 「流し漉き」 が秘密を握っています。紙という物質はそもそも、世界中のどこであっても、木の繊維を水中でほぐし、繊維同士が絡み合うことで作られます。このとき、水分が繊維の分子を引き寄せて結びつける力
(これを科学的には 「水素結合」 と呼びます) が働き、紙の基本的な形ができあがります。ここに日本で行われているような、「軟水」 と 「天然由来の接着剤であるネリ」
を入れると、「水素結合」 だけでなく 「ネリによる接着」 が生まれます。その結果、水素結合だけでなく、ネリによる接着部も生まれるので、日本だけは他国に比べ圧倒的に長い繊維を使えるようになるのです。この
「繊維の長さ」 が漉返紙の秘密なのです。紙は使用すればする程、繊維が傷み、削れていくものです。しかし、元々、初めて作られた紙において繊維の長さがキープされていたとしたら…?
当然、何度も使いますよね?
この原理を使い、日本では室町時代から明治時代の頭まで、ご奉納された上質な紙を権力者たちが使用した後、紙屋院にて漉き返し、漉返紙となった紙を庶民が余す所なく使い、墨で真っ黒になってしまった紙を最後は
「厠」(現在で言うトイレ) で使用し、川へ流す…。その紙は、川の水の勢いで繊維がバラバラになり、その水は田畑や木々の栄養分となり、また新たな大地の恵みを生み出す…。
そんなまさに
「サスティナブル」 なサイクルが日本ではまわっていたのです。
「軟水」 に支えられてきた 「日本人の生活」
このように、日本の紙はいかに 「日本の軟水」 に支えられ、独自の歩みを進めてきたのかが分かります。私も初めは 「紙」 を見る時に 「軟水」 に着目することはありませんでしたが、私にきっかけを下さった方がいらっしゃいました。その方は、京都の伏見で350年間、「月の桂」 というお酒を造り続けられている株式会社増田德兵衞商店の14代目・増田德兵衞社長です。私が初めて増田社長 (現在は会長) にお会いさせて頂いたのは25歳の時。共通の知り合いの方を通じてお会いさせて頂いたのですが、初めてご挨拶をさせて頂いた時に言われた最初の一言が 「君も水を扱う仕事やな。仲良くしよう!」 でした。
その時は
「なんとなく」 しか意味が分からなかった私ですが、後々になり、紙のことを知れば知るほど、この言葉が金言のような言葉だったことに気付かされました。きっと、「日本酒」
や 「和食」 という日本の文化を支えるお仕事を通じて、「紙」 だけでなく、「日本人の生活」 自体が、「軟水」 に支えられていることに気付くようにと、私にアドバイスだったのかな?と思うと同時に、私たちにとって当たり前すぎる
「水」 にもう一度、私も含めて目を向ける必要を感じます。
今もご家族の皆様も含めて仲良くして頂いていることに、この場をお借りして感謝を申し上げると共に、さらなる躍進を担っている15代目の増田醇一社長の活躍を1ファンとして楽しみにしたいと思います。
長くなりましたが、今回はこれにて終わり。長い文章にお付き合い頂き、ありがとうございました。
次回は近現代の明治時代から平成時代までの紙の移り変わりを描かせて頂きたく思います。
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“令和の紙の申し子”吉川聡一と紙について考える。
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