CAREER | 2024/01/18

宇宙開発に関わりながら 大学院教授と小学校の校長を歴任した 異色の教授 | 慶應SDM教授・神武直彦氏インタビュー 前編

取材・文:白石倖介 写真:赤井大祐(FINDERS編集部) 一部画像提供:神武直彦

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今回、慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科(慶應SDM)教授の神武直彦氏にお話を伺う機会を得た。神武氏は教育から街づくり、スポーツ、宇宙システムまで、多岐にわたる領域のシステムの設計やその実現、そして、マネジメントに関する研究教育や事業創出に携わる人物だ。

そのキャリアの道筋を紐解きながら、神武氏がどのように独自の視点を持ち続け、多くの困難を乗り越えてきたのか。そしてその経験と知識がどのように取り組みに影響を与えてきたのか。氏の専門分野である「システムズ・エンジニアリング」を軸に、あれこれと語っていただいた。

前後編の前編となる本記事では、氏のキャリア初期における「宇宙開発事業」での経験にフォーカスする。宇宙開発に携わるまでの道のりや入社後の飲み会話、NASAとの交渉まで、意外と耳にすることが少ない業界内の貴重な話を伺えた。

なお、神武氏が主催する、学生たちと未来を探求するプロジェクト「KITE Project」についてはすでに過去イベントレポートを掲載している。こちら(https://finders.me/articles.php?id=3815 )も合わせて読んで頂くことで、より一層理解を深めることができるだろう。

神武直彦

慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授

慶應義塾大学大学院理工学研究科修了後、宇宙開発事業団入社。H-IIAロケットの研究開発と打上げに従事。欧州宇宙機関(ESA)研究員を経て、宇宙航空研究開発機構主任開発員。国際宇宙ステーションや人工衛星に搭載するソフトウェアの独立検証・有効性確認の統括および宇宙機搭載ソフトウェアに関するアメリカ航空宇宙局(NASA)、ESAとの国際連携に従事。2009年より慶應義塾大学へ。日本スポーツ振興センターアドバイザーや慶應義塾横浜初等部長(校長)などを歴任。慶應義塾大学野球部や蹴球部(ラグビー部)のアドバイザー、宇宙政策やロケット開発などに関する政府各種委員。名古屋大学客員教授。大学発宇宙ベンチャーなどの12社で構成する宇宙サービスイノベーションラボ事業協同組合代表理事。

「宇宙に携わる仕事がしたい」を夢見た子供時代とその実現まで

ーー本日はよろしくお願いします。今日は神武教授のキャリアの始まりから現在に至るまで、ゆっくりお話をお聞きできればと思っています。ご経歴を拝見して、宇宙開発からトップレベルのスポーツ、街づくり、そして教育まで、幅広いお仕事をなさっていることに驚きました。もともとはNASDA(宇宙開発事業団:JAXAの前身組織のひとつ。2003年まで日本の宇宙開発を担い、宇宙科学と航空技術に関する2つの研究所と統合してJAXAとなった。)そしてJAXAに在籍していたということですが、宇宙開発に関わる仕事を志したきっかけなどはあったのでしょうか。

神武:私は中学生の頃からNASDAに入りたいと思っていました。ANAの国際便などに乗るときに便名を見ると ”NH” って書いてあるんですが、これはANAの前身が「日本ヘリコプター輸送株式会社」っていう会社だからなんです。日本の三大重工企業のひとつ、川崎重工株式会社が日本初の国産のヘリコプターを開発して、それを日本ヘリコプター輸送株式会社や株式会社神戸新聞社などに納入したのですが、そこで中心的役割を果たしたひとりが私の祖父でした。

また、別の親戚が南極観測隊に関わっていたんです。映画『南極物語』にもなった「タロ」と「ジロ」の頃の話です。ソリを引く役割などを担っていた多くのカラフト犬を苦渋の選択で南極に置いて行かざるを得ない状況で帰国し、翌年迎えに行って、タロとジロの2匹が生き延びていたという実際にあった話です。迎えに行った際にその2匹を抱きかかえた親戚の写真を見たり、当時の話を聞いたりしました。

そんな環境で育ったので、祖父が「空」で親戚が「極地」なら、「僕はもっと遠いところ、宇宙に行ってみたい」みたいな(笑)。その後、土井隆雄さん、向井千秋さん、毛利衛さんの3人が日本人初の宇宙飛行士候補者に選抜されたことをニュースで知って「日本人も宇宙に行けるんだ」と嬉しくなり、父がある時、私のために自宅に持って帰ってきてくれたNASDAの会社案内のパンフレットが宝物になりました。そして「将来はNASDAに就職したい、宇宙飛行士になりたい」と思い始めました。たしか、私が15歳、中学生のときです。

ーー教授が15歳の頃というと、88年。ソ連の崩壊直前ですね。その後、毛利さんが初めて宇宙飛行をされたのは92年。この頃はまだ、日本が宇宙開発をしているということは今よりもあまり認知されていなかったのでしょうか。

神武:その頃は、まだ日本の宇宙開発やNASDAについてはあまり知られていない状況で、友人や大人に話してもあまりみんなピンと来ない。一方で、私には「NASDAに入れたら死んでもいい」というような情熱が燃えていた。本当に死んでしまったら意味がないのですが。そんな気持ちを持ち続けて大学に入学したら、これも縁だと思うのですが、その7年後に宇宙飛行士候補者に選抜される星出彰彦さんと大学のラグビークラブで出会ったんです。星出さんは大学を卒業された直後のOBの立場で、NASDAに入社されたばかりで、たまに練習や試合に来られていました。

NASDAでエンジニアをされている先輩が身近にいることを知り、漠然と思い描いていた夢が現実のものになるかもしれないという気持ちになり、その後、星出さんを訪ねて筑波宇宙センターを訪問したり、ラグビーの練習や試合を一緒させて頂いた際には、宇宙開発の近況を聞かせて頂いたりしました。当時は私が20歳前後で星出さんも5つしか歳が違いませんから、いわゆる部活の先輩と後輩。その時の関係性は今もあまり変わっていません。その後、私は大学院修士課程まで進み、星出さんにOB訪問を重ね、就職活動を経て、NASDAに入社することができました。

ロケット打ち上げ成功後に行われる、盛大な「打ち上げ」

若き日の神武教授(写真右)

ーーNASDAではどのようなお仕事をなさっていたのでしょうか。

神武:入社して1週間程度の研修を受け、すぐに「H-IIロケット」の打ち上げと、現在の基幹ロケットである「H-IIAロケット」の開発プロジェクトに加わりました。H-IIロケットが国産の部品で実現するということが目的だったのに対して、H-IIAロケットはその知見を生かして、世界レベルの品質とコスト、そして納期での宇宙輸送を実現することを目標に設計を進めていました。本当に右も左もわからない状態で加わったので、入社同期をはじめとして周りの方々が全員天才に見えました。ただ、みんなでものごとを起こす部活動とかイベントごとが大好きなので、ロケット設計のために終電で帰る日々が続いても楽しくて仕方なくて、毎週、日曜日の夕方には「明日、また、本物のロケット開発に携われるぞ」っていう気持ちでワクワクしていました。入社1年目は仕事を1日も休まず、有給休暇も使わずという状況だったので、年度末に、上司に「皆勤賞の表彰はないのですか?」と尋ねて、苦笑されたことがあります。

ロケットをなぜ打ち上げるかというと、人工衛星をはじめとする宇宙で利用するものを宇宙空間に輸送したいからなんです。宇宙輸送機って言います。つまり、ロケットを開発することは、どちらかというと目的ではなくて、手段であって、目的はいろいろな人工衛星やロボットを使って人々の生活を豊かにしたり、人類が明らかにできていないことを科学的に明らかにしたりすることなんです。ロケットは地上から100kmの宇宙空間に約3分間で到達することができます。そして、長くても数時間で人工衛星を宇宙空間の所定の場所に輸送して役目を果たすので、運用時間は比較的短くて、陸上競技に例えると短距離走のようにすぐ終わってしまうんです。しかも、打ち上げ後、基本的にロケットは自律的に飛行していきますから、その飛行に問題があった時に地上から指令を送って飛行を停止すること以外は成功を祈るだけなんです。

毎回、ロケットの打ち上げが無事に成功すると、皆さんよくご存知の「打ち上げ」が行われることが多かったです。つまり、究極の飲み会です(笑)。ロケット開発に携わる人は体育会気質の人が多いような気がします。それも影響しているのか「今日、打ち上げが成功したら、徹底的に飲むぞ」と。ロケット打ち上げ成功後の所属組織や肩書きを超えた大飲み会、特に宇宙センターがある種子島での打ち上げでの経験が多いのですが、本当に楽しい思い出しかありません。「宇宙空間の所定の場所に確実にものを輸送する」というゴールが成功したときのわかりやすさと喜びは何にも変え難い気がします。最近では、コロナ禍もありましたし、時代も変わりましたから、飲み会のスタイルは当時と今では色々変わっていると思いますが。

これに対して、人工衛星の開発と運用は状況が異なります。人工衛星はロケットに宇宙空間まで運ばれた後、そこから何年も365日24時間稼働し続けるので、ある意味エンドレスです。場合によっては10年以上連続して稼働している人工衛星もあります。また、目の前から打ち上がって飛んでいくロケットとは違って、遠隔でのモニタリングとコントロールを行うのが運用ですから、トラブルが起きたときに、何が起きているのかをすぐに把握できないことがあったり、送られてくる信号がしばらくの間止まってしまったり、運用に粘り強さが必要です。そういう意味で、ロケットの開発と運用と比較して、より繊細で根気強い、陸上競技でいうと長距離走のような特徴がある気がします。

宇宙開発に携わる際の最初のプロジェクトとして、私にはロケットの開発と打ち上げが向いていた気がします。短いサイクルでのトライエラーを繰り返す毎日で、部活動や文化祭前夜のような雰囲気で日夜夢中でロケットに携わるとても濃密な経験をさせて頂きました。今でも当時のロケット打ち上げカウントダウンのシーンが夢に出てきます。

新卒2年目で単身アメリカへ 筆談で行ったNASAとの交渉

―― NASDAでは他にはどんな仕事をご経験されたのでしょう?

神武:そんな経験をしばらく続けていましたが、NASDAに入ったときからの夢はアメリカ航空宇宙局、つまりNASAとの仕事に携わることでした。ただ、ロケット開発では日本の力だけで宇宙にものを輸送できる「自律性」も重要ですから、海外の宇宙機関や企業と連携せずに開発することを重視していた時代でもあり、ロケット関係者でNASAと仕事をしている人はほとんどいませんでした。でも、本当に「念ずれば通ず」というのはあって、当時「かぐや(SELENE)」という月周回衛星を打ち上げることになって、NASAに協力を得る必要があるかもしれないという話を耳にしました。月に行くための軌道に人工衛星を輸送する場合、月は地球の周りを自転しているので、日によってロケットを打ち上げる方向が違うんです。そうすると、通常のロケット打ち上げに利用する国内外の地上局だけだと日によってはロケットとの通信ができない日が出てしまうという課題がありました。それを解決するためには、地上局をより多くのところに設置するという解決策もあるのですが、1つの人工衛星打ち上げのためだけに地上局をいくつも設置するよりも、NASAのデータ中継衛星を利用させてもらえないか交渉しようということになったんです。当時、日本もデータ中継衛星を運用していましたが、数が限定的でした。

そこで、入社2年目の私がある会議で「NASAとの交渉を担当したい」って言ったんです。NASAに行きたい一心、それだけ。私は、若さゆえの直感で、その責任も十分に理解していなかったのですが「絶対に行きたい」って思い続けました。その結果、その調整の責任者の方が「やる気があるなら行ってこい」と言って下さいました。ただ、「何人も行かせるわけには行けないから、君一人で行ってこい。出張先のNASA本部とゴダード宇宙飛行センターではNASDAからの駐在員が同行してくれるように手配する」ということでした。「NASAに行ったことも国際交渉もしたことがないのに、一人で行かないといけないのか」ととても驚き、不安になりましたが、引くに引けないし、NASAに行けるという挑戦心が掻き立てられ、それから出張までは会社に泊まり込んだりして準備をした気がします。都内のオフィスで朝を迎えるのが気持ちいいなんて思うくらい、没頭しました。

その頃の私にはNASA相手に交渉する英語力は全くなくて「君の交渉次第でことが大きく変わるから。責任順大だぞ」とハッパをかけて頂いて、まだ行ったことがないNASAの会議を想像して、きっと「Nice to meet you」から始まるよな、握手の強さだけは負けないぞ、などと考えて、最初の挨拶から別れまでのシーンを想定して、会話の内容まで想像して、やりとりを文字で起こして、丸暗記しました。

でも、実際には会うなりランチに連れて行って頂き、そこで皆でビールを飲むことになり、その場でも議論が始まってしまい、想定外の連続でした。ことを決める責任を考えると予算やスケジュールの明確化と合意が重要なので、参加者の中でダントツに若手の私は格好悪くても重要なところは筆談でいくしかないと割り切って、NASAからは10名以上の専門家が入れ替わり立ち替わり会議に出てこられましたが、とにかく筆談して話をまとめました。そうしたら、最終的には「1分間あたりこれくらいの値段でデータ中継衛星を使って頂けるようにします。スペースシャトルが宇宙空間にいるときにはそのための利用が君たちよりも最優先だけれど、なんとかできるようにします」言って頂くことができました。その結果、次のNASAとの打ち合わせからは上司も同席し、その後、正式な日米国際連携プロジェクトになり、2007年のかぐやの打ち上げの際には、そのプロジェクトでの成果が実際に利用されました。

普段と違うことをすると転機になりやすいと思うのですが、そこでも私の人生の転機があって、当時のNASA側の責任者が私と同じ20代だったんです。29歳だったかな。でも、彼の部下はみんな30代や40歳以上の方で、最年少の彼が全体を統括していました。なぜそれができるのかをその彼に聞いたら「私は博士号(Ph.D.)を持っている。他のメンバーは持っていない」と。そして「君はなぜ博士号取得にチャレンジしないんだ?挑戦できるのにしないのはもったいないよ」って言われました。そこが私の人生の転機のひとつです。

それ以外にも転機は色々とあって、たとえば、H-IIロケットの最後の打ち上げ、8号機がエンジンの不具合で日本の基幹ロケットとして初めて失敗しました。1999年11月のことです。その際、現在の海洋科学研究機構(JAMSTEC)の深海調査船と深海調査ロボットによって、そのエンジンの深海での調査を行い、幸いにもそのエンジンを発見して、今のH-IIAロケットのエンジン用のエンジンの改良につなげています。私は、その第1次調査に加わったNASDAからのメンバー2人のうちの1人に選んで頂き、前例がない挑戦の取り組みに加えて頂きました。その時は、それまで宇宙分野にばかり興味があった私が、「海の仕事も面白いな」と、他の分野への興味を拡げるきっかけになりました。

その後、H-IIAロケットの開発が進み、初号機が成功し、幸いにも5号機まで連続成功しました。その中で「博士号を取得する」という思いを持ち続けていて、色々な場面でそれを口にしていたところ、社内の留学制度によって選抜試験に合格させて頂き、大学院の博士課程に入学することができ、様々な方々のご支援で早期に取得することができました。その間の2003年10月にNASDAがJAXAの一部となり、JAXAが日本の宇宙航空の研究開発の中心的な公的機関として新設されました。

私自身は、2006年に留学先からJAXAに戻って宇宙分野のデジタルイノベーションを起こすチームに加わり、その活動の中で欧州宇宙機関(ESA)にシステムズエンジニアリングに関する研究員として派遣頂く機会にも恵まれました。私にとってはそこで新たに大きな転機があり、ESAから戻ってきた頃に慶應義塾が創立150周年事業のひとつとして大学院の慶應SDMを開設していて、そこの教員への着任についての強いお誘いを頂きました。そして、いろいろなタイミングが重なり、2009年4月に正式に慶應SDMに転職しました。


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甲子園優勝・ロケット開発から初等教育にまで活用される「システムズ・エンジニアリング」とは (URL)

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