ITEM | 2022/03/03

サブカル好き、彼氏いない歴5年、30歳。キラキラした生き方はできないし報われなくても生きていくための「倫理」【冬野梅子『まじめな会社員』】


神保慶政
映画監督
東京出身、福岡在住。二児の父。秘境専門旅行会社に勤めた後、昆虫少年の成長を描いた長編『僕はも...

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好きなことを「仕事」にし続けられるだろうか

ここ数年キーセンテンスとして掲げられることが多い「ダイバーシティ・アンド・インクルージョン(多様性と包摂)」などのように、融和を是とする議論がなされる際などに、「私が思うように他者は思っていない」という考え方が引き合いに出されることがあります。

一方、あみ子は「私が危惧するよう他者は思っている可能性がある」と、いくつもの予防線的アンテナを張り巡らしている人です。

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夢ってかなわないし、好きな人とも付き合えないのかも
まじめだね、ってほめ言葉ですか?
私は根が悪い人だからちゃんとしないと生きれない
今後もずっと一人で誰かに「おめでとう」を言い続ける
私は「コロナが終わったら」会う人

第1巻と2巻のカバーには、あみ子のこんな心の声が並んでいます。それゆえに、「自分の意見」らしきものがポロッと出たとき、つまり「大丈夫ではないかもしれない自分」が出た時、さらにそれが他者に無事キャッチしてもらえた時、あみ子は心の中で静かに(でも尋常じゃなく)喜びます。

「変化の無さ」を基本的には望んでいたとしても、良い変化の兆しがみえた時、やはり人間というのは誰しも心のどこかで嬉しさを感じずにはいられません。

そしてあみ子は第3巻に収録されるであろう直近のエピソードにて、自分の「やりたいこと」に一歩でも近づくべく、クラウドソーシングサービスに登録して単発のネット記事執筆を請け負う「副業野良ライター」への道を歩み始めます。彼女は初めて自分のやりたいことを「仕事」にできた驚きをこのように吐露しています。

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あんなことも前ならできなかった
多分もっと傷ついた
これも仕事とお金のおかげ?
仕事(お金)の変化でこんなに心の余裕が爆上がりするんだ
みんなこの程度の自信は既に手にしていたの?
第15話「金と人生と社会」より

「何をしていいかわからない」「自分は何に向いているだろうか」「仕事が辛い」という人が世の中や身の回りに数多くいる中で、自分として「間違いなく好き」な映画・映像を今仕事にできているというのは、ただそれだけでもかなり幸せなことなのだろうなと筆者は時々ふと思うことがあります。

一方で、好きなことを仕事にしていることによって犠牲にしていることや弊害もたくさんあります。たとえば、仕事とプライベートの境目がなさすぎて家族とのレジャー中に上の空になってしまったり、ひたすら映画に打ち込んだり企画実現の機会を寝る間を惜しんで探ったりしてしまったりなど。「決められた仕事をしっかりこなしたら、あとはゆったりのびのびしたい」というタイプの人とはソリが合わないことも多いです。

もしあみ子がこのままライターの道を進む場合、今後間違いなくぶつかる壁は、タイトルにもある「努力しても報われない瞬間」だと思います。筆者は福岡市内のモアミザンという映像制作会社に参画して、10代後半・20代前半の若手クリエイター社員たちのテクニカル・コーチ(作品のクオリティ担保)を担当していましたが、制作の難易度やめんどくささが一定以上に達してしまうと、賞与など何らかの「ごほうび」でもない限りモチベーションが上がらなくなってしまうという局面がしばしばありました(ちなみに現在はテクニカル・コーチではなくコンテクスト・デザインというもう少し複合的な業務にあたっています)。

彼らにとって「報われなくても作り続ける」「言われなくても勝手に何か作ってくる」「修正をめんどくさいと思わない」「簡単さより難しさを好む」というような人間は完全に「別次元」に感じるようです。ですが、クリエイティブ業界において「持続可能」であるためには間違いなくそうしたある種の「別次元さ」が必要です。

さらにそうした試行錯誤を乗り越え、今はまだ「ごほうび」の位置にあるライター仕事が日常となった時、彼女は何を「ごほうび」に設定していくのか、そしてこれまで彼女が培ってきた資本主義社会で生き延びるための「倫理=まじめさ」、つまり「面白くはないけれど誰かがやる必要がある仕事をしてきたし、自分はそれが向いているはずだ」という自負からくるある種の抑圧が生まれてしまうのではないかという点は気になるところです。

あみ子の行く末を想像しながら、ふと頭に浮かんだキーワードがあります。カルチャー業界でも一定の愛好者がいる「ていねいな暮らし」です。

「ていねいな暮らし」はややイメージが先行していて、かっちりとした明確な定義はないのですが、

・自宅のインテリアがシンプルで、整っていて、物が収納されていて「散らかり」が少ない。そもそも所有している物が少ない
・効率をむやみに削減するより、手間を惜しまず心の豊かさを優先させる
・手作りや自然素材の物を好む
・添加物を避け、発酵食品や酵母を摂取する食生活をこころがける

などといったライフスタイルを好む点が、主な傾向です。

プロテスタント派とカトリック派の対立ではないですが、勤勉さの先にある「ごほうび」的な欲を軸に生きてきたあみ子と、欲を律して慎ましく生きることそのものに誇りを感じる「ていねいな暮らし」の人々は、ゆくゆく戦いに発展してしまうのではと案じてしまうほど相容れません(とはいえそのまま「私はていねいな暮らしが好きだ」と思ったとしても、もちろんそれもそれで一つの生き方です)。

「コロナ禍で自宅で過ごすことが増えて生活を見直すようになった」という人々の中で、持ち前の気丈さを頼りに前進しようとするあみ子はこれからどうなるのか? 戦いや感情の暴発が起きた方がマンガのストーリー展開としては面白くなりやすいので、あみ子の今後の精神状態がかなり心配ではありますが、彼女の存在がどうにも放っておけない気持ちになる作品です。


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