CULTURE | 2023/07/28

いつ来てもウェルカム!お店とお客さんでつくるカルチャーに人々が吸い寄せられる「ブレックファストクラブ東京」

【連載】 Dining into Tokyo 東京をもっと面白くするプロデューサーたち(2)
食を通じてあらゆる人が集...

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【連載】 Dining into Tokyo 東京をもっと面白くするプロデューサーたち(2)

食を通じてあらゆる人が集い、憩いの場となるダイニングスペース。そこには、独自の存在感を放つ飲食店だからこそ生まれるカルチャーやコミュニティがある。

仕事にしろ、遊びにしろ、大部分がオンラインで可能な現在。一方で、リアルな人との出会いやセレンディピティを創出する場として、今こそ街にあるさまざまなダイニングスペースに注目したい。そこはきっと、胃袋だけでなく、心も満たされ、新しいものが生まれるきっかけや根源となるはずだ──。

連載第二回目は、裏渋谷と呼ばれる神泉や池尻大橋エリアに程近い、東京・目黒区東山にある人気店「BREAKFAST CLUB Tokyo」を訪れた。店のオーナーは、バブル絶頂期にオープンした伝説のクラブ「芝浦GOLD」や恵比寿にあったロック系クラブ「みるく」のクリエイティブディレクターを務めた、塩井るりさん。

かつてニューヨークでミュージシャンとして活動した後、東京を代表するナイトクラブを手がけてきた塩井さんが、これからの人生100年時代のライフワークとして選んだのが、朝ごはんを提供するアメリカンダイナーだった。

同店には、観光客から地元の人まで幅広い層の人々が集う。ここに辿り着くまでのさまざまな点と線をはじめ、人が集まる秘密を紐解くべく、お話を伺った。

 

塩井るりさん

取材・文:庄司真美 写真:グレート・ザ・歌舞伎町

70年代末のアングラ音楽シーン“No Wave”に乗ったニューヨーク時代

2016年、東京・目黒区東山の山手通り沿いにオープンしたアメリカンダイナー「BREAKFAST CLUB Tokyo」。朝10時(週末は9時)から開店して朝食メニューを提供し、18時から24時まではバータイムに切り替わる。

店内は、ニューヨークの一角にあるようなアメリカンダイナーをイメージした、明るくポップな内装で、オープン当初の名物は、キューバンサンドイッチ。映画『シェフ 三つ星フードトラック始めました』に登場する場面を何度も観直し、今のレシピに辿り着いたという。そのほか、フレンチトーストやグラノーラボウルといったアメリカンな朝食を中心に、焼き魚などの和定食も提供する。

アメリカのダイナーのような店内

キューバンサンド

焼き魚定食

お店の基礎となる考え方には、オーナーの塩井るりさんが、ニューヨークで10年以上暮らした経験が大きく影響している。だからこそ触れておきたいのが、塩井さんのこれまでの経歴だ。高校を卒業後、親元を離れてニューヨークにバレエ留学。その後、なぜかベーシストに転向する。

塩井さんが渡米した1970年代後半は、ニューヨークのアンダーグラウンドで勃興し、後のオルタナティヴ・ロックにも接続される音楽シーン“No Wave”のバンドたちが活躍していた頃。そのシーンを代表するバンドのひとつが、アート・リンゼイ率いるDNAであり、同バンドに日本人として加入していたモリイクエさんと、別バンドを組んでベースを弾くようになったという。しかも、バンド名は「トウバンジャン」(笑)。

塩井:バレエを理由に親を説得して、日本から抜け出すように渡米したものの、ニューヨークのバレエ学校に入ったらあまりにもレベルが高かったんです。友達もできず、2年間英語も話せず、たまたまできた友達がミュージシャンでした。1970年代の感覚だと、日本から遠い国に旅立つ娘を両親が泣きながら見送るような時代で、こっちも意地があるし、そう簡単には帰れません(笑)。そこから心機一転して、バレエ以外のことにも目を向けるようになり、はじめはバンド演奏のバックダンサーとして参加するようになりました。

次第に前衛的なアートシーンにのめり込み、毎週どこかのナイトクラブで演奏活動をするように。日本から出たかった一番の理由は、「遅くとも25歳までには嫁に行くといった、当時の定型のレールに乗りたくなかった」と、当時の心境を振り返る塩井さん。

塩井:基本的にいい子だったので、そのレールに乗ってしまいそうで嫌だったんです。「こうなりたい」という具体的な憧れがあったわけではなく、ニューヨークに行ったのは、明日がどうなるかわからない環境に身を置きたかったことが大きいです。

ニューヨーク時代は、演奏活動のほか、アパレルデザイナーのアシスタントとして働きながら、人伝でプロデューサーの佐藤俊博さんとつながり、ニューヨークのクラブを案内することに。

それが縁となって帰国後、バブル最盛期には「芝浦GOLD」の立ち上げから参加。何億もの予算を使い、毎夜クラブに出入りすることで培ったセンスや経験で、音響デザイナーからパフォーマーまですべて塩井さんがニューヨークからアレンジした。30歳のときだった。

ここまでの塩井さんの経歴を聞くと、バレエ留学、ダンサー、ベーシスト、アパレルデザイナーのアシスタント、ニューヨークのナイトクラブの現地コーディネーター。関係ないようで、実はすべてその後につながっていく。

塩井:バレエは挫折しましたが、子どもの頃通っていたのは、日本のバレエ界で活躍した小牧正英先生の教室です。衣装もすべて仮縫いした上で時間をかけて作り、時にはオーケストラの生演奏で踊ることもあって、本場仕込みでした。大人になってナイトクラブでベースを演奏したり、イベントを企画する側に立ったり、またステージや照明、音響に触れるわけですが、バレエも店舗運営も舞台を作り上げていく点では一緒。核心にはその時にしか起こり得ない空間をイメージし、お客さんも含めてそれぞれのパーツを組み上げる作業がありました。今考えると、何もムダになっていないんですよ。

働く人とお客さんの化学反応で店のカルチャーが作られる

その後、ケータリング事業やバーで修業を積んだ後、「BREAKFAST CLUB Tokyo」の構想を考えるようになった塩井さん。60歳をすぎた頃、これからの先の人生に向けて、どんな働き方をしたいかを具体的にイメージしてみたという。

塩井:初めて先の70代、80代のことを考えたときに、大好きな仕事を辞めたくないと思いました。年齢を重ねると毎日を平和に過ごせるのが一番ですが、何か人の役に立てる刺激がないと楽しくない。浮かんだのは、昔どこの街でも見かけたお蕎麦屋さんの軒先にたばこ屋の窓口が併設されていて、レジの横におばあちゃんが座っている姿。それなら、90歳になって動き回らなくても毎日スタッフを励まし、お客さんと会話が続けられるかなと(笑)。

「BREAKFAST CLUB Tokyo」オープンから6年目の今、ただ単にお腹を満たすためのカフェというだけでなく、どのように店の雰囲気づくりをし、集まる人も含めたカルチャーを築いてきたのだろうか。

塩井:お店って、毎日アメーバのように変わるんですよ。構築して作るものでもなく、働いている人とお客さんの化学反応というか。最初は力もないのに、一緒に店を始めた野村訓市くんや私の知り合いが多いために、大勢人が来てしまい、期待に応えるのが難しかった。その後は少し落ち着いて、来てくれたお客さんが心地よく過ごせたことでまた来てくれる、という流れができるようになっていきました。

同店のInstagramのフォロワー数は3.6万人という人気ぶり。しかしSNSからは見えない店主の本音も見えてきた。

塩井:一時期、パンケーキの人気がすごすぎて、それ目当てのお客さんしか来なくなったんですよ。だから今年の春には平日の提供を止めました。Instagram上で突然パンケーキブームが起きて、勝手に終わっていくんですよね。お客さんもせっかくリアルな場に来てくれているのに、そこにはいない。存在しているけど、そこにはいないような、愛情が一方通行な気がして、泣きたくなってしまったんですよすね。やはり、店のカルチャーには、双方向の愛の循環が必要だと思います。

以前は、バータイムには打ち合わせで利用するなど、30〜40代のお客さんが多かったが、実はコロナ禍が始まった2020年から今年に入るまで、4年近く夜の営業はストップしていたという。そしてコロナ禍以降は、若い客層が増えた。取材当日の早朝も、奥の席には女子校生グループの姿があった。土日は家族連れやアメリカンブレックファーストを目当てに来るお客さんで賑わうという。

一方、コロナ禍とは関係なく、これまで定期的にイベントを開催してきた同店。スタッフやそのOB・OG、常連客から自然発生的に出た企画をイベント化する流れで、DJイベントといったアゲイベントだけでなく、読書会や料理会といった文化的なものも含まれる。

塩井:スタッフとの会話のなかで、「それ面白いからやってみなよ」とイベントの企画が生まれることが多いですね。お店でやれば展示やイベントをする際の金銭的なハードルも低いですし、挑戦しやすいですよね。例外的にメディア向けの撮影用の場所貸しはやっていますが、貸切イベントといっても、店とお客さんとの間で普段から関わりがないと、愛情を持ちにくいですよね。たとえば店のスタッフの友達がやるイベントなら、最初から最後まで責任を持って自分のことのように迎え入れられると思うんです。

自分の頭で考えてトライできる環境

2〜3割は外国人のお客さんだという同店では、料理好きのブラジル人やインドネシア人の常連が本場仕込みの料理教室を開催することもあり、日によっては、まるで移民の多いリトル・ニューヨークの様相を呈する。店にやって来る、日本で暮らす外国人の若い人へ、塩井さんが思いを口にした。

塩井:コロナ禍では、日本で暮らす外国人の人たちが帰国もままならなくなり、自然発生的にここに集まることもありました。私もかつて、異国のニューヨークで暮らしていましたから、不安になる気持ちがわかります。彼らにとってここが安心できる避難所になれたらという思いがありましたね。

そんな風に自然とコミュニティができる店はそう多くないだろう。どんな小さいコミュニティでも、中にいる人の思いや人柄、嗜好に引き寄せられて人が集まるものだが、オーナーの塩井さんを中心に、どんな人が集まる店なのか気になった。案の定、塩井さんのこれまでの生き様が示すように、ここに集まる人の多くは、人とのつながり、そして自立的であることを重視、あるいはそれを学ぶ者が多い。

塩井:例えば環境問題や避妊など、社会的な問題を扱うイベントもあれば、DJやヒップホップ系の音楽イベント、読書会、朝会など、スタッフやOB・OGたちが率先して企画を立てています。その中で失敗したり、思ったようにうまくいかなかったりすることもあるけれど、そういうのも含めてお店をうまく使ってくれればいいかなって。

ここでアルバイトしているのは、25歳以下の若者が中心。日頃から、どんな思いで彼らと向き合い、どんなことを教えたいと思っているのだろうか。

塩井:彼らに伝えたいことは、まずは共に仕事し、毎日接する人を尊重して思いやりを持つこと。表面上の「思いやり」や「おもてなし」ではなく、相手の立場に立って考えるということです。しっかりとした自分の意見を持ちながらも、違う意見を聞くことができ、どうやったらコミュニティとしてベストなチョイスができるのかを考える姿勢。どんなにお料理や接客が上手でも、自分勝手では他人を傷つけ、かならず衝突が起こります。小さな職場のなかで、最小限のルールに従いながら、どうすれば気持ち良く他者と働けるか?どうしたらお客さんにもっと喜んでいただけるのか?ということをスタッフ一人ひとりが本気で意識すること。その上で、会社側のルールや罰則で解決するのではなく、仲間とディスカッションできる力を持って欲しいと思います。この小さな職場という社会の枠を広げれば、今後の仕事場、国単位や地球全体、宇宙規模と視野が広がって行きます。

お店のスタッフと常にコミュニケーションをとっているという

この店を小さな社会と捉え、学生であっても、ここで働いた経験を生かしてもらえたらと願う塩井さん。

塩井:彼らには、若い頃から男女平等や自立心、人のせいにしないことを身につけてほしいですね。特に女性は、結婚しても子どもを産んでも、たとえ離婚したとしても、いつ何が起こっても自力で生きて行ける意識と勇気を20代前半で培ってほしいと感じています。AIが進化するこの先の未来に、人間性を基本にした倫理観を身につければ、困難があったときや日常にも活かせるでしょう。目まぐるしく変化していく社会に何らかの形で貢献できる人間に成長していくと信じています。

高校生のころから働きはじめ、今ではキッチンを任されているスタッフの方も

親心に近い愛情を、これからの社会を創っていく若いスタッフたちに向ける塩井さんの眼差しが温かかった。

これからもこの店は、小宇宙のように好きなことをやっている面白い人を引き寄せ、その人がまた別の面白い人や物事を引き寄せ、アメーバのように進化していくのだろう。


BREAKFAST CLUB Tokyo