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「デザイン」と言えば、未だ多くの人が「かっこよさ」「おしゃれさ」といった要素と結びつけて考える。「デザイン思考」といった言葉の広がりとともに認識は変わってきているが、実のところデザイナーや経営者でさえ、適切に捉え運用できているのかは定かではない。ではどのように考えるべきか、そしてこれから「デザイン」はどのように変容していくのか。
本記事は2015年1月25日に刊行された、渡邊恵太『融けるデザイン ハード×ソフト×ネット時代の新たな設計論』(株式会社ビー・エヌ・エヌ新社)の内容を一部抜粋・再編集したものだ。
渡邊恵太
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明治大学総合数理学部 先端メディアサイエンス学科 准教授。博士(政策・メディア)(慶應義塾大学)。シードルインタラクションデザイン株式会社代表取締役社長。知覚や身体性を活かしたインターフェイスデザインやネットを前提としたインタラクション手法の研究開発。近著に『融けるデザイン ハードxソフトxネットの時代の新たな設計論 』(BNN新社、2015)。
デザインとは何だろうか
そもそもデザインとは何だろうか。第2章で紹介した深澤直人氏の「行為に相即するデザイン」をここで再び見てみよう。ここまで読み進めてきた方であれば、最初に読んだ時とはまた違った印象がこの文章から得られるのではないだろうか。
デザインとはインターフェイスを考えること
一見「インターフェイス」ということを批判しているように見える。しかしそうではなく、これはつまりデザインはインターフェイスであるということを言っている。深澤氏は『メディア環境論』の中で「プロダクトからインタフェースデザインへ」という論考を書いているが、そこでもインターフェイスはエレクトロニクス用語ではない(そう捉えるべきではない)と説明したうえで、デザインはインターフェイスであるとしている。おそらく、インターフェイスという考え方と言葉が、コンピュータの画面設計や機械の操作方法の設計のように受け取られていることに不満があると述べているのだと思う。深澤氏は、「プロダクトデザイン」と言うと物質としての人が扱う「対象」の方へ注意が行ってしまって物の設計論になってしまうところを、「インターフェイス」と言うことで関係の設計論に置き換えようとしているのだ。つまり深澤氏からすれば、「身体全体がインターフェイスで、そのインターフェイスの境界のもう一端は〈環境〉と呼ばれているもの」という関係でデザインを考えているということだ。
こういう発想は、コンピュータサイエンス系のインターフェイスデザインでも論じられていることではあるから、特別なことでもない。ひとまずここで重要なのは、「デザイン」といっても「インターフェイス」として考えるということだ。筆者自身もデザインはそういうものだと思っているし、そのつもりで「デザイン」をしてきた。とはいえ、こういういった身体全体がインターフェイスであるというような発想は一般的ではないし、そもそもインターフェイスという用語を知っている人もまだまだ少ない。
特に企業の経営サイドは、「デザインが重要だ」という認識に対して「かっこよさ」や「おしゃれさ」を求めるという意味でデザイナーを雇い、問題を解決しようとしてしまった時期があったように思う。結果的に、スタイリッシュな携帯電話は市場に出回り、流行の中で消費され過去のものとなっていった。しかし、もしデザインが重要だということで、インターフェイスという意味で理解されていれば、雇うべきはデザイナーだけでなく心理学者、文化人類学者、エンジニアなどであり、それをチームにして問題解決にあたり、力強い価値の輪郭を定義=デザインしていくことができたはずだ。
スタイリング的な意味でのデザインの役割や価値も高いのだが、そのデザイナーたちの声は大き過ぎるように思うし、またわかりやすいから経営サイドも説得されやすい。他方で、コンピュータを積極的に取り入れ、そのメタメディア性を理解し設計するデザイナーもほとんどいないため、テクノロジーを積極的に用いたデザインは置き去りになってしまったのだ。いちばんデザインということが必要にもかかわらず、だ。
デザインはサイエンス
ではデザインをインターフェイスとして考えるということはどういうことだろうか。それは、これまでの章で示してきた通り、「道具-身体システム」「環境-行為システム」というようにデザインをシステムとして捉えるということだ。こういった「デザイン」を探求するモチベーションは、人間がモノの前でどう振る舞うのかや、人間とモノが出会った時にそのシステムはさらにその外へどういう影響や現象をもたらすのかといった、人とモノの関係メカニズムを理解したいからにほかならない。そしてそれは広げてみれば、「人と世界のメカニズムを理解したい」「この世界はどういう設計になっているのかを理解したい」といった欲求から来るものだ。筆者は「デザイン」ということをそのようなものだと思って活動してきた。
デザインは、芸術や感性に近い領域として考えられることがあるが、筆者にとってデザインは、どちらかといえばサイエンスに近い。たとえばサイエンスとして物理がある。物理学は自然界のさまざまな現象を読み解き、物理法則として定義している。「自然界」という表現をしてしまうと、なにか制御できない神秘的なもののように考えてしまいがちだが、自然というのは「デザインされたもの」と捉えるのだ。つまり物理というのは、「この世界のデザイン」を一部解明して法則としているわけだ。
したがって、物理法則を読み解き、車や飛行機などへ応用されるのと同じように、この世界の中で人間の知覚や行為が環境とどのように関わるのかということを解明し、新しいデザインへ応用したいのだ。究極的には物理法則のように人間の動きの法則を解明したいのだ。
これに貢献してきたのが心理学の分野だと言えるが、心理学のアプローチは「心」という存在を中心にして、人間の中に行動の法則のエンジンがあるとみなすことが多かった。心理学は認知主義や行動主義などいろいろな展開がなされているが、いずれにせよ人間の能力は人間の中にあるものとして考えることがほとんどである。そこに異色のアプローチをしたのがギブソンであったり、「分散認知」という考え方だった。これらは人間の知性や能力を人間の中だけに求めない、環境に分散させた知性の捉え方だ。
デザインの指南書はほとんどの場合、心理を根拠にデザイン論を展開するし、あるいは人間の脳を根拠として説明しようとする。サイエンスなら最終的には脳じゃないかと言うかもしれないが、脳の現象理解も重要な要素であるとしても、あまりに脳に求めすぎているように思う。そしてだからこそ、環境との関わりの中にあるメカニズムの観察がおろそかになっているのではないか。
では、デザインはどのようにサイエンスに近づくのか。それは、センサ技術の発展による、人の知覚や行為をさまざまな状況で捉えることによってである。デザインは、そういったところからサイエンスに近づくと考えている。地球環境に磁場や物理法則があって、動きが数式で記述され、工学的に応用できるように、人と環境とのインタラクションもまた、それと同じように法則性が見出され、デザインへと応用されるだろう。その意味で、いずれは「デザインサイエンス」という領域が生まれると思っているし、インタラクションの分野はその先駆けとなるはずだ。
しかし、いずれはサイエンスだとしても、今はまだサイエンスと言えるほど評価できる軸がない。だから、まずは「デザインの現象学」だと思う。いったん「デザイン」ということを保留にし、デザインを改めて考える時期だと思う。第1章でも述べたように、私たちはハード、ソフト、ネットというメタメディアが持つ大きな可能性を前にしているのだから。
メタメディアはその自由度の高さから、デザインによって価値が変化する。しかしこの十数年、メタメディアとネットによる技術革新は肌で感じてきたわけだが、そこでのメタファや定義、使い方については、まだ肌で感じられるほど大きな革新はない。こういった技術の革新とその利用や価値にギャップがあるからこそ、発想の転換期が差し迫っているし、そうできるチャンスが目の前にある。それを前に進めるのがデザインの役割だし、今必要なデザインとはそういうことだ。デザインを進めるためにも、根本的に「人」ということがどうデザインに結びついているかということに立ち返り、デザインという発想や方法も再定義していく作業が必要なのだ。