CULTURE | 2023/06/21

大半の人が嫌がる「PTAの悪習」はなぜ改革できない?日本の議論が「無意味な罵り合い」に終わるワケ 倉本圭造×岡田憲治対談

連載「あたらしい意識高い系をはじめよう」特別編

文・構成・写真:神保勇揮(FINDERS編集部)

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岡田憲治氏(写真左)、倉本圭造氏(写真右)

FINDERSで連載「あたらしい意識高い系をはじめよう」を執筆する経営コンサルタントの倉本圭造氏と、異色のPTA体験記『政治学者、PTA会長になる』が大きな話題を呼んだ政治学者の岡田憲治氏の対談をお届けする。

両者の共通点は、2012年に第二次安倍政権が誕生してから10年以上、社会のさまざまな場所で続くバトルに関して、特に左派サイドに「理念に共感するところはあっても、その方法論を続けて勝てるのか」と警鐘を鳴らしていることだ。

だが今回の対談では、自民がどうだ立憲がどうだといった「政治の話」はほぼなされない。語られているのは岡田氏のPTA活動、倉本氏の高校時代の部活動における「失敗談」である。

国会でも企業でも地域でも、既存組織のあり方が機能不全を起こし多くの人が「さすがにもう変えた方がいいよね」と思っている悪弊がなぜか変えられない。また改革すべく動いたものの失敗してしまったという人も多いのではないだろうか。

その「ままならなさ」に向き合うためのヒントが多く散りばめられているのが今回の対談である。

倉本圭造

経営コンサルタント・経済思想家

1978年生まれ。京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感。その探求のため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、カルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働く、社会の「上から下まで全部見る」フィールドワークの後、船井総研を経て独立。企業単位のコンサルティングで『10年で150万円平均給与を上げる』などの成果をだす一方、文通を通じた「個人の人生戦略コンサルティング」の中で幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。著書に『日本人のための議論と対話の教科書(ワニブックスPLUS新書)』『みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか(アマゾンKDP)』など多数。

岡田憲治

政治学者/専修大学法学部教授

1962年生まれ。著書に『教室を生きのびる政治学』(晶文社)、『政治学者、PTA会長になる』(毎日新聞出版)、『なぜリベラルは敗け続けるのか』(集英社インターナショナル)、『デモクラシーは、仁義である』(角川新書)、『ええ、政治ですが、それが何か?』(明石書店)、『言葉がたりないとサルになる』(亜紀書房)、共著に『転換期を生きるきみたちへ』(内田樹編、晶文社)など多数。党派的利益に全てを還元する「政治主義」に抵抗し、純度と献身をその成果として権威的に崇める「連合赤軍的なるもの」を忌避し、ひたすら等身大の人間の生活技法によって作られるデモクラシーの「岩床」構築に知的関心を持つ。それゆえ、ガヴァメンとよりも社会「基盤」に注目し、考察の対象はスポーツや言語や遊びなどにも及ぶ。愛称オカケン。広島カープをこよなく愛する2児の父。

自分たちの主張だけで押し切れば必ず反発を受ける

倉本圭造氏

倉本:岡田さんの『なぜリベラルは敗け続けるのか』が2019年に出版されたころ、複数人から「お前と同じことを言ってる人がいるぞ」と言われたのが最初に知ったきっかけでした。ただ、個人的には左派寄りの人に少し苦手意識があり、読んでいて引っかかった部分も正直ありました。ですが、一方でフィーリングが合うと感じる部分もあったんです。

そうした中で『政治学者、PTA会長になる』が出て、また「考え方に近い部分があるからぜひ話してみた方がいい」と言われ僕も興味があったので、お願いをした次第です。PTA本を読むと、やはり政治的な意見は自分と違うなと思う一方、PTAをどう運営するかという実務の部分については「自分でもほとんど同じことをやるだろうな。こんなに同じことを考える人がいるのか!」というぐらいの驚きがあったんです。

僕の仕事であるコンサルティングの中で、中小企業が形作る日本の土着的な部分と、グローバルで開明的な手法というか考え方を混ぜ合わせて導入を進めていくときにはどうしたらいいかというときに、考える方策とすごく似ているなと思って。立場が違う部分があるからこそ、一方でやることはすごく似ているという、このギャップから学べることがたくさんあると思っています。

岡田:ありがとうございます。

倉本:PTA本では「最初は岡田さんが改革の旗を振るべく、正しさを押し付けようとして周囲から反発を受けたけれど、そこから学んでだんだんと方法論を変えた」という描き方をしていますが、特に「ゴールの設定の仕方」がすごく絶妙だったと感じました。岡田さんの考えだけでなく、徐々に「みんなの理想」みたいなものが乗っかってくるからこそ上手く行く部分もきちんと描写されていると言いますか。

今の日本は右派も左派も改革したいと言い続けながらも結局変わらず膠着状態になってしまいがちですが、それはお互いにゴールのイメージが「自分側だけの主張で押し切ってしまおう」としているからだと思っています。PTA活動の「ここだけは維持したい」と思っている人は他の部分も何がなんでも維持しようとするでしょうし、逆に廃止させたい人はあれもこれも止めてしまえと言う、というかたちになりがちですよね。

「PTAなんてやめちゃえよ派」は「全部」廃止することを目指すし、廃止派の内輪だけでその「全部廃止プラン」で盛り上がってしまうので、「無駄が多いのはわかってるが少なくとも“ここの部分”だけは残したい」と思っているPTA擁護派と決して相容れない対立関係になってしまう。

むしろ相互信頼をまずは作って、PTAに含まれる具体的活動を並べていって、それぞれに負担軽減あるいは廃止を丁寧に議論していければ、むしろ8割以上の人が同じことを考えている…という可能性もあると思います。

PTA廃止派の人からすると、PTAにまつわるあらゆる物事がバカバカしく見えて徹底的に絶滅させたくなるのでしょうけど、でも、例えば縁もゆかりもない地域に引っ越して、子どもを通じて初めてこの地域に関わるんですという保護者にとっては、PTAという居場所があることはすごく重要なことなんだと。

この本にはそういった深い洞察があるので、皆が負担に思う活動は減らしても、地域の関係性を維持するヨリシロとしての要素がなくなってしまわないように配慮しながら行っていくような「ビジョンのちょうど良さ」がある。

そのあたりの「ゴール設定がちょうどよい」ことが、岡田さんがPTA改革に成功した要因ではないかと私は感じました。

岡田:僕としては、倉本さんがよく言う「メタ正義(対立する両者の「正義」を対等に扱ったうえで、具体的な物事の解決を目指していく姿勢)」に関して、『日本人のための議論と対話の教科書』を読んで「やることはやれていたかな」と思えました。

倉本:本当にそうだと思いました。

岡田:そういう言葉で表現できるんだな、なるほどなと思ったんです。

言葉は天から降ってくるものじゃない

岡田憲治氏

岡田:僕の大学院時代からの友達に憲法学者がいるんですが、若い頃からごりごりの右翼だとされていたんです。顔もいかついし、保守を自称し、左翼がデフォルトみたいな大学院の中で必死に自分を守っている感じがあったんですね。向こうも僕と実際に話すまでは「このクサレ左翼が!」みたいなことを思っていたらしい。

憲法に関する考え方も、向こうは「自主制定」改憲派で、外国人参政権などに対する意見も「国籍条項絶対主義」で、当然合わない。僕は日本が1928年のパリ不戦条約に最初に署名した国のひとつであることに誇りを持っていますし(その数年後、真っ先に破って満州事変を起こすことになるわけですが)、あくまでも立憲主義に足場を置く、この不戦条約を念頭においた「規範力を取り戻すための改憲」を目指すべきだと考えます。

それでも、話していくと少しずつ共有できる地平が見つかってくる。それは「あなたは何を守りたいのか」という観点から見えてきたものなんです。自分の守りたいものであれば結構重なっていることがわかる。実はあちらこちらの本に、その彼が登場しているんです。

倉本:やっぱりそうですよね。そのご友人に関しては他のインタビューでも結構話されていませんか?

岡田:はい。護憲派も「護」という語が使われていますが、一体何を護りたいのか。言葉の準備が無いからすぐに話がズレてしまうんです。憲法9条の条文を守りたいと言っても、必要最小限の専守防衛なら戦力ではないといった堕落したことを言い始めた途端に、憲法を完全に死文化させて何の規範も持てなくなってしまう。つまり憲法9条は何も縛れていないと言えてしまうんです。

倉本:なるほど。論争のための論争じゃなくて、結局何を守りたいのかという感覚を言語化すべきであるというか。

岡田:言葉は天から降ってくるものじゃないと思っています。人間には身体性があって、言葉というものは、一部は自覚的に、一部は無自覚に、そして一部は伝統によって形成されるものです。そうしたものを抱えながら他者と混じり合う中で化学反応が起こったり、それに驚いたりする中で人格が形成されていくわけじゃないですか。

ヘーゲルは「人間の精神は成長する」と言うんですよ。でもね、なんで?なんで成長するの?成長する理由は、動機は?成長したいという気持ちもなぜ起こるの?という、もっと根本的な疑問に対する納得できる答えを書いていないんです。

でも、マルクスは言うんですよね。物質的な基礎があると、人間はそう考えるようになるんだよと。それは自分が生まれ育ってきた経験から言うと、非常に身体的に反応できるもの言いなんですね。

僕は父方のルーツが関西の広島ですけど、母方はディープ東京隅田川リバーサイドみたいな、もう「72時間より先のことは考えんぞ」みたいな、本当に下町の庶民ですよ。基本的な人間の生き方としてのスタンスとか、他者との関係を作る態度は東京の下町の人間に教わるわけです。

倉本:なるほど。

岡田:父方の祖父は戦前の技術系キャリア官僚で、とにかく「学問をしなかったら人生は広がらないんだ、黙って勉強せい」と。で、母方は何も考えていない。刑務所の堀の上を歩いているようなおじさんもいたりして「けんちゃん、次は金(きん)だよ。金相場がすごいよ」と言って、このおっさんスゴいなと思ったり。

でもね、人間がなぜそんな風に行動するかという、つまり庶民の暮らしの中で生きている人たちの発想の方が圧倒的に説得力があるんですよね。

若い頃は上からありがたい宣詞が降ってきて「その通りに世界が動かないのは、世界の方が間違っているんだ」という順番で物事を考えがちになるんですが、自分に植え付けられた種は「いやそれは順番が違うぞ」と言ってくる。「自分」という完結した本質などない。それは外部世界から関係的に作られていくんだと。

そうは言っても学者として色々な思想の言葉を身に着けていったわけですけど、PTA会長として格闘した1000日の間、そうしたことを一遍も考えたことはないという人たちと一緒に過ごしたことで「今まで身につけてきた言葉は一体何だったのか」と気付かされます。でも、それは昔から自分にあった身体感覚の再確認みたいなものだったわけです。

倉本:たとえ相手とぶつかり合うことになっても、そこでちゃんと心を開いていれば当然のように変わっていくし、無理やり押し付けにならずに適切な部分だけ外して、新しく入れてとなっていくはずだということが実感できる、すごく希望が感じられる本だと思うんです。あれは、なんでできないんですかね、みんな。

「民主主義的じゃない」と訴えると「家父長制の神輿」に乗せられてしまうメカニズム

岡田憲治『政治学者、PTA会長になる』では、小学校のPTA会長になった同氏が、長時間拘束が必須の作業や誰も幸せにしていないルールなどの「改革」を試みるも、苦しんでいた当のPTAメンバーから猛反発を受けてしまうところから話がスタートする

岡田:僕は「学校化」の問題なんじゃないかと思っているんです。これは「軍隊化」と言ってもいいし、「近代化」とも言える。つまり、愛の共同体だったはずの家族や地域が侵略されていくプロセスが明治以降の150年だと思っていますね。

僕たちはもともと、鋭い刃物のようなもので生活を切ったり張ったり加工していたわけじゃないのに、まず学校というところが人間の居場所を指定するわけです、お前の場所はここやと。学ぶことと、成績を評価して序列化することは本来、ロジックとしては何の関係もないんですよ。ところが、学びと勉強と序列みたいなもの、評価みたいなものの区別がだんだんなくなっていく。

PTAの保護者たちはそれ以外の場所、自分たちが楽しく幸せになるための趣味世界ではすごくいいサークル運営をしているんです。しなやかで風通しが良くて人々の良いところを引き出し、ものすごく仲良くやっているんです。PTAだって任意団体なので、学校との指導関係はないんですよ。そもそも「大人の原っぱ」だと僕は思っているので。でも、なぜか軍隊の内務班みたいになってくるんですよ。善意をエネルギーに。

多くの保護者は誤解していて、PTAは教育委員会の下部組織であるとか、学校の機関なんだと思っている人がたくさんいます。日本の教育ではそんなことを教えませんし、「任意」がどういうことなのか、身体化されていないんですよ。

倉本:なるほど。

岡田:だから、PTAになると急に「学校に関係するからちゃんとしなきゃいけない」と言ってガチャンとスイッチが入って、あんなにしなやかに活動していた人たちが急に…。

倉本:「しなやかに活動する例」はどういうものなんでしょうか?

岡田:そんな大げさなものじゃなくて、パッチワークの同好会、子ども向けのキャンプ会を企画するといった、手作りでいい感じの活動のことです。出入り自由で好きに運営していい任意団体、幸せのための仲間づくりじゃないですか。それなのにPTAになると「行事などでの作業を担当することで付与されるポイントを、小学6年生の段階で12点取っていない人の名前を読み上げます」とか言って、驚くべき人民裁判みたいなことが横行するんです。

倉本:ボタンの掛け違いがどんどん転がっていって、大きくなってしまっている感じですね。

岡田:評価、序列化とか、あとは誰にも求められていないのに「結果を出さなきゃいけない」と思い込んでいたりして、僕たちは企業じゃないんだからと、ため息が出ます。みんなPTAの「仕事」って言っちゃうんですよね。本当は「アクティビティ」なのに。

倉本:確かに「仕事じゃなくてアクティビティなんだ」というのは良いたとえですね。

岡田:幸せになるために集まっているのに、なんでそんなに憂鬱で苦しくなる活動にしちゃうのか。でも、それを「間違っている」とも言っちゃいけないんですよ。「まだそんなことやってるんですか。民主主義的じゃないですよ」なんていう言い方も当然ダメ。

倉本:そう言われたら余計に心を閉ざしちゃいますもんね。

岡田:その通りです。「あなたは政治学者だからそういうことが分かるけど、私たちは知らないよ」となるか、あるいは「じゃあそういう立派なことはオカケンに頼むね。細かいことは私たちがやっておくから」となる。それは長らく続く「男ばっかりが会長をやっていた構造」につながってしまう。「神棚・神輿鎮座会長」パターンです。

何もしなくていい、神輿に乗っていればいいと言われて名前だけ書いてもらって、入学式と卒業式、お祭りのときだけ挨拶するだけのアレですね。そういった構造がみんな嫌だったはずなのに、「間違っている」というネガティブなものの言い方をすると、正論を言う者は、同じように神輿の上に乗っけられちゃうわけです。

倉本:話をうかがっていると、すごく発想が帰納的というか。なんで、左翼のはずの岡田さんが…。

岡田:左翼じゃないんですよ、だから(笑)。

「自分たちで自由にクリエイトしなさい」と言われる恐怖

倉本圭造『日本人のための議論と対話の教科書』は、自身の主張を通したい場合「対立相手の存在意義」をも失わせるアイデアでなければ必死の抵抗に遭い決して物事は前進しないとして、そのアイデアの作り方を豊富な事例から解説する

倉本:今の「PTAは任意団体なんだから本来のあり方はこうでしょう」という、ある種の「論理的正しさ」になぜ拒否反応があるのかと考えたときに、「理屈だけで物事を考えていると、設計された人間関係しか成立しなくなっちゃうんじゃないか、遊びがなくなっちゃうんじゃないか」という感情がある種の本能的にあるんじゃないかと思うんです。

「任意団体なのだからそもそもこうです」という理屈で迫られると、自分たちの「自然な気持ち」の連鎖が破壊されるのではないかという不信感を持ってしまう。

結果として、「今の自民党政治的なるもの」に、あるいは「もっとさらに旧世代的」な価値観に、多くの人が必死にしがみついているような感覚が、日本社会のあらゆる場所に噴出してしまっているんじゃないでしょうか。

岡田さんのPTAでの経験は、ある種の名人芸によって成り立っていた部分もあると思うんです。でも、そういう風に新しい人間関係のつくり方があるんだよ、という希望を示すことができたという点においてこの本の意義があると思っています。

岡田:僕も本で書いていますが、キーワードは「不安」なんですね。何かを変えようとすると不安で不安で仕方ないと言われてしまう。もちろん、今倉本さんがおっしゃったような意味の不安、恐れもあると思いますが、それは相当自覚的にものを考えている人のケースです。

倉本:確かに自覚しているかどうかは、また別の問題だと思います。

岡田:僕もPTAの改善を行おうとする中で「一体何がそんなに怖いの?」と結構聞いたんです。でも大抵は「具体的にこれだ」という答えは返ってきません。でも、そのわからなさも含めて不安なんだなということを理解したわけです。

僕はそれを「自分たちで自由にクリエイトしなさいと言われる恐怖」なんだと感じました。

倉本:ああ、なるほど。

岡田:「そんなことできるわけがない」と小学校のころから刷り込まれ続けている。人間が個別に持っているものを引き出そう、まさにエデュケーションという言葉の真の意味における、外側に出そうというね、その逆をしているみたいなことがいっぱいあるわけですよ。

自分たちは学校を卒業して親になってPTAをやっているんだけども、メンタリティは学生時代と変わっていないんですよ。いつだって「自分のランクが下がるんじゃないか」と怯えている異常な自己評価の低さです。基本は常にディフェンシブな足位置です。

本にも書きましたが、PTAでは副会長ならやりたいという人が多いです。だから副会長が8人いるみたいな組織も珍しくない。会長が6人いるというケースも聞いたことがありますが、それはもう会長じゃないですよね。

倉本:ははは(笑)。

岡田:つまりサブはいいけれども、メインは嫌だというメンタリティが蔓延しているわけですよ。で、聞いたんです。なんでそんなに会長が嫌なんだと。そうしたら「人前で喋るぐらいなら死んだ方がマシだ」と言う。これはね、日本で教育を受けた相当多くの人たちの心に刻みつけられているものですよ。どれだけのハートが折られてきたのか。

倉本:『先生、どうか皆の前でほめないで下さい』という本も話題になりましたね。

岡田:そうそう。自分が話題になること、自分が評価の素材としてまな板に上げられることだけで死にたくなると。つまりPTAの親たちは、学校で起こったことを未だに克服・昇華されないまま大人になってしまっているのかもしれない。

倉本:ただ、そういう人たちも例えばカラオケならはっちゃけられるかもしれないし、自分の趣味なら深く話せるかもしれないし、現実的にはそうした素養をどう活かすかを考えていくべきなんじゃないかというのが僕の立場ですね。

無力な人間が最後にできるのは「励ますこと」

最新刊、岡田憲治『教室を生きのびる政治学』は、同氏が語る通り「中高生向けの日本政治入門本」ではなく「政治学の知見を使った中高生が生きやすくなるヒント」を記した一冊となっている

岡田:実は僕もその考え方に転向していて、PTA本の次に出した『教室を生きのびる政治学』という中高生向けの政治と民主主義の解説本でそういうことを書いたんです。

僕なりの「誰もチャレンジしたことがない」主権者教育のための本だから、彼らに全く響かない立派な御言を伝えることはしない。岸田文雄も、立憲民主党も、途中で読むのを止められるから使わないのです。学校の教室から見える風景以外の素材を一切使わないという自主ルールで、中高生に分かるように、これ以上は丁寧に説明できんぞというくらいの壮大なチャレンジをしまして。

「学校の教室から見える風景」というのは、例えば2年B組が学園祭で何をするかについてみんなで相談して決めて、それを担任に言いに来てほしいというミッションがあるが、みんなだらんとして全然決まらない、会議が躍るだけ。そんな風景です。しかもそこにはスクールカーストの序列や「友達地獄」もある。

でも、こういった類の本を企画する人たちの中にはそれがピンと来ない人もいる。「適切な啓蒙の言葉をきちんと送り出せば、必ず彼らは立派な主権者になる」という、レイジーな方に向いてしまっているわけですよ。それで上手くいきました?これまで?そんなふうにモヤモヤしていたわけです。同質的な良い学校の風景しか知らないから、教室はフラットだと思っている。

人前では意見を話せないという人は確実にいる。だったら言えないでいいから、その代わりに徹底的に人の意見を聞き倒せ。そうやって人の意見を聞き続けているとあら不思議、自分の声が立ち上ってくる。それもできなかったらとにかく書いて記録せいと。必ず感謝されるから。

でも書くこともできない子もいるかもしれない。大丈夫や、民主主義においてやることがまだ残っとる。それは人を励ますことだ。無力な人間が最後にできることは何かといったら、それは人を励ますことやと。だから、みんながリーダーになる必要もない。勇気をもって声帯を振るわせた隣人を孤立させるな、と。

倉本:本当にそうですよね。

岡田:僕は結局、書いた本のコンテクストが全部つながっているんです。『なぜリベラルは敗け続けるのか』を書いて、それを生活の現場で実践してみたらどうなったかという『政治学者、PTA会長になる』を書いて、自然にそういう風に転回していったんです。『教室を生きのびる政治学』の最後には「どうしても苦しかったら逃げろ」と書きました。学校は命を懸けて行くところじゃねえ、逃げろと。

倉本:それはありますね。リーダーをやらなくてもいいし意見を言わなくてもいいけど、何かのかたちで参加しようというというメッセージは、今の日本社会でものすごく必要とされている気がします。

そういう風に各人なりの献身の仕方があるんだよということを言うこと自体が、すごく戦後左翼的にはタブー視されていたところがありますね。

あらゆる人が完全に教科書的な「主権者としての市民の振る舞い」を完遂しないといけないという圧が強すぎて、人それぞれの形で無理なくやれる範囲で関わればいいんですよ…という「力を抜いて等身大で」みたいな話は全てシャットアウトしてきた歴史があるように思います。

岡田:皮肉なことに、自分たちが忌み嫌っていたはずの戦中の「ボクラ少国民」みたいな感じの裏表の関係になってしまっているんですね。そういう風に役割分担すると言って、有機的共同体主義を称揚してしまうかもしれない、という恐怖が戦後啓蒙にはあるんですよ。

倉本:まさにそうなんでしょうね。自分なりのやり方で参加しようという姿勢を、ものすごく不自然に否定するような文化がある。岡田先生の『教室を生きのびる政治学』でも、リーダータイプでなくても、フォロワーとしての“主体的な政治参加”というのもありえるし、人それぞれ自分ができる無理のない範囲で自然に参加するかたちをいかに多様に作れるかが大事なのだという発想には大変共感しました。

今そこが、「教科書的に完全な主権者としての市民の動き方」以外を排除するような磁場が日本では働いていて、その不自然さを逆に自民党的なナニカが埋め合わせているという状況にあるのかもと思います。

岡田:自民党は結局、長年政権を執ってきたから、ここにいる人たちがどのように成長してほしいなんていう理想は、もともとまとめることなんてできないと思っているわけです。政権党で居続けるためには、彼らからの支持を継続的に調達する必要があるということ以外にないわけですから、とにかく恐怖や不快感を与えないようにしなければいけない。つまり何もしないことが最善手になってしまいがちになる。かつ、それで票を獲得して勝っている現実がある。

一方で野党が「まっとうな政治」と言ったところで「ふーん。あんたらは自分のことをまっとうだと思ってるんだね」と心がねじくれるに決まっている。

ただでさえ仕事で「まっとうにいかねえよな、なかなかそうもいかねえことがあるんだよな」と思って、「正しいと思っちゃいねえけど、やるしかねえんだよ」と言って、奥歯をかみしめて嫌なヤツに謝りに行ったりさ、そんなことをして暮らしているのにさ、みたいなね。本当にそうですよ。正論や立派な御高説は人の心を閉ざさせるんです。

日本を支える、けれどもバカバカしくもある「自民党的なもの」は何なのか

倉本:ただまあ、僕は自民党がただ自党の権力維持だけを考えている存在かというとそうとも思っていなくて、むしろ僕自身も含めてリベラル的な理想を持っている人こそ、自民党には自分たちに足りていないものがあるんだなと素直に思うべきだなと感じているんですよね。

僕は中学生時代ぐらいまでは「日本語には敬語というものがあるからこの国は腐っているんだ」みたいなことを言うレベルの人間だったんですけど、高校の合唱部で全国を目指しているときに挫折があって。

戦後、全国大会に出た回数が1位みたいな高校だったんです。そういう「伝統的な強豪」の部活には本当にバカバカしいと思う風習が多々あるんですね。でもその「純粋に理性だけで考えるとバカバカしいように見えること」が実は持っている圧倒的なパワーっていうのを痛感する体験が色々とあったんですよ。

学校によっては音楽科の生徒が勢ぞろいして出てくる学校もあるんですが、僕のところは公立校だったので男子なんか楽譜を読める人間が1人、2人いたら珍しいぐらいのところからスタートするんです。

でも、そんなところから3年かけて勝ってしまうんですよ。それってすごいことですよね。

「一見バカバカしいものの集合体」が、意識高くない普通の人たちに眠っている本当の力を引き出して参加させる深い知恵の塊でもあって、そのパワーは決して馬鹿にできないし、それを馬鹿にしていると今のアメリカみたいに社会の中央だけ無限に意識高い系の文化が横行する反面、社会の周縁部ではどんどんスラム化が進むみたいなことになってしまう。

そこを土俵際で支えている「自民党的なナニカ」が持つパワーは、やはり人生かけて擁護していくしかないと私は感じていますし、そこの価値を積極的に認めていくことによってのみ「そうはいってもこれは良くないね」と、セクハラ・パワハラや、無駄に労力ばかりかかる作業に人々を縛り付けてしまう風習なんかを本当の意味で克服していけるのだと考えています。

今回の対談で僕が言う「自民党的なもの」というのは、普通かあるいは普通より少し低いレベルの人間にも自覚を植え付けて、一人前の存在にするメカニズムがあると思っているんです。

でも、当時の僕はそういう風習が全部嫌いだったんで、自分が部活の中心人物になったときに全部排除してしまった。すると途端にすごく弱体化して、その後20年ぐらい無名の高校になってしまいました。

それが自分の中でものすごく大きな体験で、そういうことによって支えられている日本社会はものすごいパワーを今も保ち続けていて、それが夜道を歩いていても全然平気といった部分で社会を支えている。だからそこに対する敬意がないヤツは敵だというぐらいに思ったんですね。

だからこそ、ある種のリベラルな理想主義を掲げるならば、そういう本質的なレベルから見た時の「自民党的なもののメリット」を決して軽視せずにむしろそれ自体に打ち勝つぐらいのつもりがないと、社会を変えることはできないなというのが自分の中の人生観のコアな部分にありまして。

岡田:合唱部で起こったことが、倉本さんにとって相当強い思い出として残っているということなんですね。

倉本:本当にそうで「共同体ってこんなに簡単に壊れるんだな」と思いましたし、黄金世代が復活したと言えるような結果を残せるようになるまで20年ぐらいかかってしまったんですね。

それは自分の中で20世紀の左翼が失敗した流れとシンクロしている部分があって、こういうのを軽視していたらダメになるんだなと。例えば親子関係とかイエとかを全部取っぱらってみたら、かえって血みどろの争いが起きてしまったりするじゃないですか。自分としては早く個人主義者に戻りたいとずっと思いながらもそれができていない「呪い」みたいなものがあると思って生きています。

岡田:そこで学ぶことは、結局「立派な主権者」的なイメージに近づいていくものじゃないんだということですね。

別の言い方をすると、成功する合意形成というものは基本的にないんだと。「全会一致で決まりました」というのは誰も異論を言わなかったという事実があるだけで、そこに本当の合意があるかは分からない。

さっき話した「2年B組の学園祭で何をするか」という話でも、ヨレヨレのヨタヨタになって「もう疲れた」「これでいいんじゃねえの?」となってできた案がボロボロの折衷案になっている。でも、これはオレ・ワタシたちがやったことだから人のせいにできんのよ、という当事者性だけはあるというか、そこだけは腹を括らなきゃいかんよと。

じゃあここからどうするかというときに、その当事者性がないと「オレ・ワタシはそれが良いなんて言ってないからね」「そもそも学園祭なんかやりたくないのに」というヤツも出てきかねないところで「でも合意したんだよな」というフィクションを作らなきゃいけない。65点しか取れないプランだけど、でもこれをどうにかして66点に上げないと、ちょっと恥ずかしいという覚悟だけがそこにある。

その覚悟を多かれ少なかれ何らかのかたちで持っている者を「主権者」と言うんだ、ということを僕は落とし所にしているわけです。そこで腹を括って相手のことを決めつけずに、2回目に話したら「実は同じことを違う表現で言っているだけじゃないか」「嫌いなものだったら一緒だな」ということが分かってくる部分がある。

僕は日本には政党というものが基本的に無いと思っています。自民党は日本で最もいい加減に人をホールドする共同体のことなんです。

倉本:そうですね。それをどうやって越えていくかということに、リベラル側は真剣に取り組まないといけないと思うんです。

岡田:例えば自民党の今井絵理子議員がいますよね。元SPEEDの。「『批判なき選挙、批判なき政治』を目指して、子どもたちに堂々と胸を張って見せられるような選挙応援をします」と主張してリベラル層からボロクソに批判されました。なぜ政治に対する批判が必要なのか全くわかっていないじゃないかと。不祥事の報道もあった。

だけど、自民党は彼女を見捨てないんですよ。その後も地方の選挙のありとあらゆるところに引きずり回して、手話をやらせて演説をやらせて、一人前の政治家になるトレーニングをするんですね。だから今は演説させるとものすごく上手いですよ。

あとは元おニャン子の生稲晃子が出馬したときもボロクソに言われましたよね。知識ゼロの状態で選挙に出てるじゃないかと。でも彼女は批判されても「これから勉強させてもらいます」と謙虚に言うし、がんサバイバーでもあるので、リベラルが批判すれば批判するほど「ボロクソに言われてるから自分が生稲さんを応援しなきゃ」という自民党的な、日本の共同体としてはそう思ってしまうところがある。

それがなぜできるかと言えば、自民党が政権党であり続けるために必死であり、そのためだったらどんなことでもするモチベーションがあるからです。

倉本:その2人の元アイドル政治家をちゃんと「戦力化」するように頑張るという部分も、「自民党的なもの」の良さだし、逆に言えばリベラル勢力が案外非常に冷酷に切り捨ててしまっている要素ではありますね。

人間が持っている可能性を信じて暖かく見守ること

倉本:確かに企業を見ていても日本の場合は、トップオブトップの人材だけを集めた組織はそんなに勝てていない一方、ちゃんとして工夫して現場の声も吸い上げるものづくり企業が今でも分野によっては世界一ぐらい通用する状況が残っているということに近いのかもしれません。岡田さんと共通する部分がそこなのかなと思うんです。

岡田:倉本さんは「左翼」という言葉を使っているけれども、本当は使う必要がないんですよ。ご自身の嫌いなものを便宜上そう呼んでいるということだと思いますが、嫌いなのは人間の持っているデコボコしたところ、間違うこともあるけど修正できる力、そうした人間が持っている可能性を信じて暖かく見守る感じのないヤツらだということですよね?

倉本:確かにそうですね。

岡田:それは僕も一緒なんですよ。

倉本:ただ僕個人としては、結構情が薄い人間でもあって。

岡田:情が薄い人間は自分でそうは言いませんからね。当てはまらない人も多いけど。

倉本:岡田さんの方がよっぽど人の輪に入って行くような印象を受けますし、僕は間接的に関わっているというか、そういう話ができる経営者と関係を持って、そこから先は他人に任せるところがあるので。

岡田:それが正しいとすれば、僕はある部分でのストッパーが効かない人間かもしれないと思うことはあります。僕は相手を選びはするもののめちゃくちゃ泣き言や愚痴を言うタイプで、自分はなんて弱い人間なんだろうと自己評価が低いところがあるんですけど、ある時に「お前はタフやなあ」と言われてびっくりしたことがあって。だから自分でも意識していない部分なんだと思います。

だから、わーわーわーと人がいるところに吸い込まれるように入っていってしまうんですよ。僕は「たむろ(屯)する」という言葉が好きなんです。

倉本:そういう言葉が好きというのも、良い意味でなかなかないセンスかもしれないですね。僕自身は「そういう人間関係が実は社会には大事だよね」というのを頭で考えて必死にエミュレートしてきた人間という感じなので、根は本当に「たむろ」とかしたくなくて一人で生きていきたいタイプなんですよね(笑)。だから「たむろ」が自然にできる人にそういう役割はお任せしたいのは本音としてあります。

岡田:だから僕は街の屯田兵になろうと。屯田兵は農作業をして土地を耕すわけです。街で何かを耕して、人々が持っているクリエイティビティを「こんなにすごいものを持ってるじゃん」と褒めていく。たむろして何かぐだぐだ話したり飲んだりみたいな、多分そういうことなんだと思いますよ。

倉本:結局、人それぞれ得意不得意があるので、それをどうやってちゃんと活かしていくかということが本来の主権者教育が扱うべき射程だと思うんです。

それがさっきの「教科書的に完璧な主権者としての市民像」以外を受け付けないのは良くないという話で、人それぞれ、人間関係の作り方の得手不得手や考え方のタイプに応じて、それぞれなりに政治参加すればそれが「主権者としての振る舞いなんだよ」という多様な形を認めていくことが大事なのかもですね。

ところで話していて痛感するんですが、僕の方が本来の個人の性質としてはそれこそ「許せないが止まらないリベラル」みたいになってもおかしくなかったし、岡田さんの方は本来的には地域の良心的な保守という感じなのに、お互いが交差して別の方向に行ったところがありますね。

岡田:僕も家族の集まりは鬱陶しいと思うタイプですけどね。90歳を超える親父からはしょっちゅうLINEで「微熱が出た」「看病に来ないお前たちはもうオレを見限ったんだ」「オレは子どもの育て方を間違えた」みたいなこと言われて、とほほって感じです。

一方で血縁関係でない、街で知り合った人間と一緒にいる時は非常に居心地がいい。そういうままならなさをどんな人も抱えていると思います。


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