EVENT | 2023/03/15

「すぐには役に立たず、誰が買うかもわからない」初回分が即完売した世界初「一般人が買える量子コンピュータ」はなぜ開発できたか

【連載】高須正和の「テクノロジーから見える社会の変化」(32)

高須正和
Nico-Tech Shenzhen ...

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【連載】高須正和の「テクノロジーから見える社会の変化」(32)

高須正和

Nico-Tech Shenzhen Co-Founder / スイッチサイエンス Global Business Development

テクノロジー愛好家を中心に中国広東省の深圳でNico-Tech Shenzhenコミュニティを立ち上げ(2014年)。以後、経済研究者・投資家・起業家、そして中国側のインキュベータなどが参加する、複数の専門性が共同して問題を解くコミュニティとして活動している。
早稲田ビジネススクール「深圳の産業集積とマスイノベーション」担当非常勤講師。
著書に「メイカーズのエコシステム」(2016年)訳書に「ハードウェアハッカー」(2018年)
共著に「東アジアのイノベーション」(2019年)など
Twitter:@tks

世界初の「買える量子コンピュータ」が深圳から生まれた理由

筆者が勤務するスイッチサイエンスが日本総代理店をしている、量子コンピュータ企業のSpinQでは、世界でも珍しい、量産型の量子コンピュータを販売している。

そうした関係性があることから、筆者が担当している早稲田大学経営管理研究科(MBAコース)の「深圳の産業集積とハードウェアのマスイノベーション」という講座で、今年は初めての試みとして、共同創業者のDr.Fengと学生にディスカッションしてもらった。

SpinQ共同創業者 Dr.Fengの講義

SpinQは118万円という価格で、2量子ビットの量子コンピュータ「Gemini-mini」を量産し、教育機関や研究機関に販売している。NMR(磁気共鳴)という方式で、冷却もメンテナンスも不要なので、多くの研究者にとって「初めての量子コンピュータ」になっている。

量子コンピュータは、0と1で計算する現在のコンピュータ(電子計算機)に対して、0でも1でもある量子状態を使って計算するコンピュータだ。現在はまだ計算も遅く、エラーも多く、複雑な計算も実行できないが、さまざまな方面で技術開発が行われていて、2030年頃には実際に役立つ計算が可能(電子計算機では解けない問題が解ける)なレベルになると言われている。

Gemini-Miniの2Qbitという性能は、大抵の人間が暗算したほうが早くて正確だ。人間や他のコンピュータよりも早い計算はできないので、実用性という点では価値がない。NMR量子コンピュータの開発には、量子力学だけでなくて電磁波、材料、電子回路など、様々な分野のスキルを統合する必要がある。そうしたタレントあふれる研究者チームに加えて、量産するためには量産設計などの仕事も発生する。そうした大きなチームを率いて、役に立たないとわかっていて、誰が買うかもわからないものを作るのは、役立つものを作るよりも難しい。

深圳でないと作れないプロダクトとは?

「量産型・一般向けの量子コンピュータ」という唯一のプロダクト。しかもそのプロダクトは、技術的にもすごいが、よりすごいのは実用的な価値はなく、マーケットが予測できない中、どうやって企画を通して市場に出したのか?という視点だ。

Dr.Fengはその問いに「深圳だから」と回答した。深圳は前例のないチャレンジに対して投資家の理解や意欲が高い。そして発売後、深圳の新しく開設されたGezhi Academy(先生を育成する師範学校、中学から一貫教育を行う)では、何十台もSpinQを購入して、学内に「量子コンピュータ室」を作ったという。

講義で紹介された「量子コンピュータ室」

「低性能の量子コンピュータであっても、目の前で触ってみたい」というニーズは実際にあったのだ。筆者たちが日本で販売を始めたところ、初回入荷分は1週間たたずに完売し、その後も仕入れを繰り返している。深圳に限らず、日本でも市場はあった。

ビジネス的なリスクを取ったSpinQ

SpinQの量産型・一般向けの量子コンピュータは、技術的なブレークスルーというよりも、経営面でリスクをとったこと、市場がそれに応えたことといった、企画やマーケティング、経営面のブレークスルーである側面が強い。

Dr.Fengの講演、質疑応答が終わったあとも、中国からの留学生も交えて、翌日以降の講義を含めて数日に渡ってディスカッションが続き、出た結論は「こういう冒険的なプロジェクトを止める力が、深圳は弱い」というものだった。

中国で、優秀な大学や人材が集まる場所はとにかく北京、次いで上海だ。深圳の名声も高まっているが、国内では「山師、一発屋が集まる場所」としての評価が定着している。

中国で優れた大学の多くは北京にあり、研究開発型ベンチャーもたいていは北京にある。中国でも量子コンピュータ企業が多く誕生しているが、ほとんどは北京の会社だ。深圳にあるのはSpinQだけで、Dr.Fengに確認しても「未だにそうだ」と言っていた。

深圳と北京の違いとは?学ばないことの強さ

R&DをResearch & Developmentというように、リサーチと開発は表裏一体だ。一方でR&Dだけでは、SpinQのような製品は生まれない。もちろん学ぶほうが効率的だし、間違いは減る。だがリスクテイクするために必要なのは、愚かさ、向こう見ずさだ。

SpinQの共同創業者Dr.Fengは34歳。責任者として製品をつくる人としては若い。SpinQは量子コンピュータ研究の大家もコミットしているが、平均年齢は若く、チャレンジしても失うもののない会社だ。

その環境は学ぶ相手がいないという意味ではマイナスだが、チャレンジを止める人がいないという点ではプラスだ。筆者は中国のトップ大学である精華大学や、その投資集団であるTusStarにも友人が多いが、彼らエリートはインテルやGoogleといった世界トップ企業を熱心に学び、同じフィールドで「中国のインテル」「中国のGoogle」、あるいはさらに優れた企業をつくろうとする。

そしてしばしば、実際に本家並、さらには本家を超えるような企業を作ってしまう。論文数や引用数などに現れる中国の研究開発力は、AIなどの分野では先行するアメリカを追い抜く勢いだ。北京にはどの分野にも優秀な人や大家がたくさんいて、学ぶには事欠かない。

だが、そうした研究開発からは「量産型・一般向けの量子コンピュータ」のようなリスキーな製品は生まれない。

アメリカのシリコンバレーは、前例のないスタートアップを多く生んでいる。そうしたスタートアップの多くは、「先人から学ばず、常識の枠の外に出た」ことが成功につながっている。また、新しいことを始めるスタートアップの多くが、アメリカに移民してきた、既存社会のエリートネットワークの外側の人々であることも事実だ。

学ばないことは、そうした強さを生む。

リスクの面から考えると、SpinQでいま働いている量子コンピュータの専門家たちは、会社が失敗しても次の職探しには困らないだろう。出資している投資会社からしても、いくつもある一発屋狙いの一つだ。つまり、リスクの大きい事業はしているが、全体的なリスクはコントロールされている。深圳でわざわざ北京と同じような会社を作るよりは、SpinQのように新しい方向性を打ち出すことは、別な意味でのリスクマネジメントとも言える。

新しい分野に踏み出すためにMBAコースの学生たちとディスカッション

筆者は2018年から先述の早稲田大学経営管理研究科(MBAコース)で講座を担当している。

これはエンジニアの集まりで行った別の講演だが、第1回の講義はほぼ同じスライド

自分の講義テーマは抽象的には「コンピュータとソフトウェア産業が他のあらゆる産業を食べていっている」という内容で、スライドのページの多くはチップ分解や解析、製品や技術の具体例だ。筑波大学デジタルネイチャー研究グループ落合陽一研究室での講演もほぼ同じで、技術系の内容をMBAコースで話すチャレンジングな講座にもなっている。

自分も楽しんでやらせてもらっているせいか、毎年30〜40名が受講する人気講座だ。ほとんどの内容が、既存のMBAコースにないものだ。

早稲田のMBAコースに来る学生たちは、25歳〜40代ぐらいで一部上場企業の新規事業部門や経営企画室にいるビジネスパーソン、中小企業の2代目、さまざまな国からの留学生が多い。昼間は仕事をしながら19時から22時までの夜間大学に、100万円を超える学費を払ってやってくる。

普段の生活では触れ合えない分野の、やる気があって優秀な社会人学生たちを相手に、15コマも自分が考えて体系化したハードウェアやイノベーションについての考えや事例をぶつけて検討してもらえるのはありがたく、毎年楽しみにやらせてもらっている。

今回の発見はそこから生まれたものだ。既存の学びの外側に出る、許容できるリスクの範囲を決めて、積極的にリスクテイクしていくマネジメントは、日本でこそ必要な考え方である。


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