CULTURE | 2021/07/16

600円ナポリタンが美味。絶妙なバランスの“祖父母のリビング”が広がる「銀の匙(荻窪)」【連載】印南敦史の「キになる食堂」(5)


印南敦史
作家、書評家
1962年東京生まれ。 広告代理店勤務時代に音楽ライターとなり、 音楽雑誌の編集長を経て...

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アルデンテで適度な歯応えが心地よいナポリタン

どれくらい時間が経っただろうか、ふと見ると奥様が、プラスチックのプレートを両手で持ってこちらへ向かってくる。

サラダとスープ、フォークとスプーン、粉チーズとタバスコが乗っている。ナポリタンはあとから来るようだ。

足がお悪いようで、一歩進むのも大変そうだ。だからプレートが目の前に置かれた時には、どうにも申し訳なく感じてしまったのだった。

「立ち上がってこちらから近寄り、受け取るべきだったのだろうか?」などと考えながらたまごスープをいただいていると、ご主人がナポリタンの皿を持ってきてくださった。

実は、いつまで経っても調理する音が聞こえてこなかったので、最初はちょっと不安だったのだ。「もしかして、レンジでチンなのか?」と。しかし、そんなことはなく、やがて包丁の音やフライパンで炒める音などが聞こえてきたので安心した。

そんな経緯を経て登場したナポリタンは、予想していた以上にボリュームがある。

しかもパスタはアルデンテで、適度な歯応えが心地よい。「喫茶店によくあるナポリタン」ということで、勝手にフニャフニャのスパゲティをイメージしていたのだが、とんでもない。なかなかしっかりしている。

ナポリタンも(おそらくは)ただケチャップで和えただけではなさそうで、たくさん入った玉ねぎ、ピーマン、マッシュルーム、ウインナーソーセージとの相性がいい。

だから食べごたえも抜群で、食べ進むごとに楽しい気持ちになってくる。そして、ふと顔を上げると、奥様はまたカウンターで新聞を読んでいたりするのだ。だから、田舎のおばあちゃんの家でナポリタンをご馳走になっているような気分にもなってくる。

なんなのだ、ここは?

なんとも形容しがたい、不思議な空間である。とはいえ、決して不快なわけではない。やはり「おじいちゃんとおばあちゃんのリビング」って感じなのだ。

ナポリタンを食べ終えたころ、ご主人が食器類を下げ、タタタッと小皿を持ってきた。見れば、クッキーが一枚。あとでお聞きしたら、手づくりらしい。

「この一枚をどうしましょう?」と思いながらその皿を眺めていたら、ふたたび立ち上がった奥様が、カタカタと音を響かせながらアイスコーヒーを持って近づいてきた。やはり歩きづらそうで、なんとも心苦しい。

思わず反射的に少しだけ腰を浮かせたが、「いや、わざわざ立って受け取ったりしたら、逆に失礼なのではないか?」などと余計なことを考えてしまい、結局は中途半端に腰を浮かせたまま両手を差し出し、「どうもすいませんねえ」と言いながら受け取るしかないのだった。

アイスコーヒーは大きめのグラスに3分の2くらいの量。グラスが大きいのでちょっと少ないようにも見えるが、それはまあいい。既製品ではなく、きちんと淹れられたコーヒーのようで、それなりに風味を感じることができた。

帰りがけに少しお話を伺ったら、「もう30年くらい」営業を続けられているようだ。

「うちはヒマだから……」とご主人は謙遜するが、そんな、いい意味での“欲のない感じ”が息の長さの秘訣なのかもしれない。


銀の匙
住所:東京都杉並区桃井1-19-2
営業時間:10:00〜19:00
定休日:木曜日

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