LIFE STYLE | 2021/05/19

元任天堂社長の発言録『岩田さん』がアメリカでベストセラー入りの快挙【連載】幻想と創造の大国、アメリカ(25)


渡辺由佳里 Yukari Watanabe Scott
エッセイスト、洋書レビュアー、翻訳家、マーケティング・スト...

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「偉人の伝記」ではなく「ソウルメイトと出会う喜び」

『嫌われる勇気』の英語版

ほぼ日の『岩田さん』は、いくつもの点で、翻訳出版の困難さが予想できる本だと思った。だからこの本がアメリカで出版されだけでなく、アメリカ人読者から好意的な評価を得ていることに驚き、興味を抱いた。調べたところ、海外への版権展開をしたのは株式会社タトル・モリエイジェンシーらしい。そこで、この企画を担当された同社の取締役の玉置真波さんにいくつか質問してみた。

玉置さんは、岸見一郎さんと古賀史健さんの『嫌われる勇気』(英語版タイトルThe Courage to be Disliked)の海外版権展開も担当された方だ。「ご指摘の通り、日本ではほぼ日さん、糸井さん、岩田さんの交流について広く知られていますが、その文脈が共有されていない海外の商業出版市場において、書籍『岩田さん』をどの程度、展開できるのか、当時ははっきりしていませんでした」と認めたうえで、全世界への展開を念頭に「版権を展開するための調査を開始し、NYの任天堂ショップにも足を運び、『岩田さん』の展開イメージができたところで社内チームをつくりました」と準備に時間とリソースを費やされたことを語った。

『Ask Iwata』をアメリカで刊行したのはマンガやアニメの出版で知られるVIZ Mediaだが、それは最初から出版社を限定したわけではなく、一般書の出版社を含めてアプローチした上での結果だということだ。

糸井さんやほぼ日を知らないアメリカの読者がこの本に惹かれたのは「任天堂の岩田さん」へのファン意識が強いように感じる。そこで、任天堂のファンだけをターゲットにしたニッチなマーケティングなのかと思って尋ねてみたのだが、玉置さんは「出版社の戦略について詳細を知り、お話しする立場にはありませんが、英語版を待ち焦がれていたファンの方にしっかり出版社さんが届けられた結果だと思います。エージェントの立場からお答えいたしますと、本書はゲーム関連書やビジネス書などジャンルの枠にはまらない、従来の自伝ともスタイルやテイストが異なる本です。一つのプロジェクトに共に取り組んだソウルメイトとの出会い、生涯を通して啓発しあう愉しみと尽きない話、敬意を伴う友情を慈しむことから生まれた本だと捉えています。読んだ後に、必ず誰かに感想を伝えたくなる本だと思いますので、日本同様に海外でも口コミで広まり、多くの人に読み継がれるロングセラーになるのではないかと思います。本が出版されたことによって、初めて岩田さんを知ったという方にリーチできれば、今現在のファンを超えて裾野が広がる可能性があると思います」という返事だった。

確かに、ジャンルの枠にははまらないし、「ソウルメイトとの出会い」は重要な部分かもしれない。というのも、全米図書賞の翻訳文学部門で受賞した柳美里さんの『JR上野駅公園口(Tokyo Ueno Station)』や村田沙耶香さんの『地球星人(Earthlings)』は、いくつかの大手メディアで評価されて話題になったものの読者の批評は厳しい。Goodreadsの読者評価ではいずれも平均3.5前後の評価しか得ていない。それらと比較し、『Ask Iwata』の場合は「構成がほぼ皆無」「深さに欠ける」という意見はあるものの、Goodreadsでは平均4.3で、Amazonだとほぼ5.0の高い評価なのだ。

読後の感想を語っているYouTube動画もいくつか観てわかったのは、アメリカの読者がこの本に求めているのは完成度が高い「伝記」ではないということだ。

任天堂のゲームで育った人たちが『Ask Iwata』を通じてこれまで知らなかった岩田さんの人間性や人生哲学に出会えたことに喜びを覚えている。つまり、この本で読者は「ソウルメイト」と出会う疑似体験をしているのだ。糸井さんについても、彼に感情移入することで、岩田さんとの友情を自分のことのように体験している。糸井さんが岩田さんについて書いたところで「涙ぐんだ」という読者もいる。それらの感想を自分と同じようなファンとシェアすることにも喜びを感じているようだ。

アメリカで売られている回想録のジャンルにあてはまらないからこそ、アメリカの読者、特に任天堂と岩田さんのファンは「本物らしさ」を感じたのかもしれないと思った。

日本語と英語で同じ部分を少し読み比べてみたが、英語版の翻訳にはアメリカの読者がすんなり理解できるような努力がいくつも感じられた。やはり翻訳者は重要だ。そういう感想を伝えたところ、玉置さんは英語版について翻訳者のトライアルを実施したことを教えてくれた。「『岩田さん』は、ほぼ日さんの編集者さんの手によって本として完成した、ほぼ日さんらしさが大切な作品だと思いまして、翻訳者さんは(どの作品でもそうですが)とくにマッチングが鍵になると思いました。翻訳者のサムさんがベストマッチでした」ということだ。

玉置さんがこの本の版権展開を引き受けたのは日本語の『岩田さん』の刊行前のことで、アメリカで『Ask Iwata』が発売されるまでに約2年かかったことになる。『Ask Iwata』が世界で最も競争が激しいアメリカの市場でベストセラーリストに入るまでにはこれほどの手間がかかっているのだった。

玉置さんは「版権ときちんと向き合って展開するためには、多くの人と手間、さらにはそれなりの投資がかかります。著者、出版社(売る側、買う側)、エージェントがそれぞれにビジネスを継続できる健康なビジネス環境を保つためには、全ての関係者の協力と理解が必要です」と語ったが、確かにこの英語版の成功からは関わっている多くの人々の努力の成果を感じた。

前述の『The Courage to be Disliked(『嫌われる勇気』)』も、「日本におけるアドラー心理学の第一人者」である岸見一郎さんを古賀史健さんがインタビューして読者に説明するという形の非常に日本的なスタイルの本である。しかも、オーストリア人のアルフレッド・アドラーが創始した心理学を日本人の心理学カウンセラーが日本人読者に対して説明しているものだ。これをアメリカ人読者だけでなく、大手出版社に売り込むのは難しかったのではないかと思う。

けれども、サイモン・アンド・シュースターという大手出版社の傘下にあるAtriaから2018年に発売された同書は3年近く経った現在も売れ続けるロングセラーになっている。Goodreadsでは2万7000人近くの読者が評価をしており、その平均は4.2と高い(米アマゾンでは約3300の評価があり、平均はほぼ5つ星評価だ)。ボストン公共図書館でもオーディオブック版を6部購入しており、1カ月以上待たないと借りることができないほどの人気だ。読者の中には、「こんまりの心理版」と捉えている人もいて、近藤麻理恵さんの成功が影響していることも感じる。

玉置さんが語るように、欧米の版権は収入面で魅力的だ。著者はもちろんのこと、版権収入が得られる日本の出版社にとっても。だから、最初から無理だと諦めず、日本人の版権エージェントと一緒に海外展開していく努力をしてほしいものだ。


※編集註:本記事は、著者の渡辺由佳里さんが運営するサイト「洋書ファンクラブ」の記事「アメリカでベストセラー上位に食い込んだ「ほぼ日」の『岩田さん』 Ask Iwata」を一部加筆修正し掲載するものです

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