神保慶政
映画監督
東京出身、福岡在住。二児の父。秘境専門旅行会社に勤めた後、昆虫少年の成長を描いた長編『僕はもうすぐ十一歳になる。』を監督。国内外で好評を博し、日本映画監督協会新人賞にノミネート。第一子の誕生を機に、福岡に拠点を移してアジア各国へネットワークを広げる。2021年にはベルリン国際映画祭主催の人材育成事業ベルリナーレ・タレンツに参加。企業と連携して子ども映画ワークショップを開催するなど、分野を横断して活動中。最新作はイラン・シンガポールとの合作、5カ国ロケの長編『On the Zero Line』(公開準備中)。
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贈収賄事件を起こしてしまうモラルと、アフター・コロナの道標
「生き残る」という言葉を、ここ1年ほどで聞く頻度がべらぼうに増えた。そんなことを考えずに暮らしたいのは、誰しもが同じだろう。しかし、久々に外出してみた先で、自分の人生よりも長い時間存続していた場所の歴史に幕が閉じられていたり、勢いがあったように思えた店が消え去っていたりすると、「生き残る」ということについて否応なく考えさせられる。
今回ご紹介する大西康之『起業の天才!: 江副浩正 8兆円企業リクルートをつくった男』(東洋経済新報社)は、時代が昭和から平成に移り変わる流れの中で図太く生き残り、また同時に、鮮烈な誤りを犯した株式会社リクルート創業者・江副浩正の伝記だ。日経新聞出身のジャーナリストで大企業のルポルタージュを数多く記してきた著者は、江副の横に数十年ずっといたかのような臨場感を醸しながら、この2021年に江副の人生をなぞり直す意義を読者に感じさせてくれる。
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新型コロナウイルスのパンデミック禍は、古い日本を脱ぎ捨てる千載一遇のチャンスでもある。しかし正しく生まれ変わるためには、どこでどう間違えたのかを、真摯に問い直さなければならないだろう。江副が遺した大いなる成功も大いなる失敗も歴史から葬り去ってはならない。(P23)
江副のキャリアは東京大学在学中、大学新聞に採用関連情報を載せる代理店・大学新聞広告社の創業からスタートした。1962年に広告冊子『企業への招待』を創刊。そこから、1976年に不動産・住宅情報誌『住宅情報』(現SUUMO)、1980年に女性向け転職情報誌『とらばーゆ』、現社名となった1984年に海外旅行情報誌『エイビーロード』(ウェブ版は2021年3月31日にサービス終了)と中古車情報誌『カーセンサー』を創刊するなど多方面に発展した。しかし、1988年に贈収賄(リクルート事件)が発覚し、翌年に江副は逮捕される。
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江副にはプラットフォーマーの自覚がなかった。情報誌で大量のデータが集まる場を作り上げたのは自分の功績であり、それを利用して儲けることが悪いとは露ほどにも思っていなかった。(P153)
タイトルにも帯にも書いていないが、著者は約450ページにわたって江副の「覇権」とでもいうべきパワーの興廃を追うことで、「モラル」をテーマに据えている。コロナ禍のパニック、そしてアフター・コロナの暗中模索の中で、どんな倫理観を拠り所にすべきなのか。そのヒントが、江副の人生にあると見込んでいるということだ。
昭和の屍と「足がはやい」思想
経営者のタイプには色々あるが、どんなタイプにしてもある程度の先見の明は求められる。江副はクラウド・コンピューティングやGoogle Mapのような地図システムの構想を、昭和・平成初期の過渡期に既に持っていたという。後にAmazonを創業するジェフ・ベゾスも1987年にリクルートが買収した、証券取引・決済処理をコンピュータで一括処理できるシステムを提供する米企業・ファイテルの新入社員として入社していた、つまり間接的に江副の「部下」だったというのも驚きだ。
そんな江副が先入観にとらわれないビジネス手法を創出する瞬間が、本書には数多く収録されている。たとえば、『住宅情報』をターゲット層の手に渡らせるには、書籍の取次店を介さずJJレディ(住宅情報女性営業員)によって直接書店に置きに行き、定価200円の売上はそのまま100%書店に入る(普通は取次店が間に入り色々差し引かれて、書店には定価のほんの一部が売上として残る)という斬新な手法がとられた。また、営業員は書店だけではなく、酒屋・美容院・銭湯など様々な場所に、可能であれば専用ラックごと『住宅情報』を設置していった。
そんな江副の功績を文字で読んでいくにつれて、「斬新さ」と相反する「古さ」がだんだんと立ち込めてくる。たとえば、こんなモノクロ映画を観ているかのようなエピソードがある。ある日、女性社員が連れ立って江副のもとに来て「私たち、暗いうちに帰りたいんです」と訴えにくる。仕事に打ち込みすぎて夜明けになってしまうので、夜のうちに帰りたいということなのだが、当時は男女問わずやればやるだけ会社も成長し給料もアップし活躍の機会が与えられることに満足して、労務問題は全く意に介していなかったという背景がそこにはある。
こんな昭和の精神そのものかのようなエピソードもある。江副がNTT回線のリセールやスパコンの時間貸しなどからなる情報ネットワーク事業(I&N事業)に着手した1985年4月、『住宅情報』の責任者として大阪から東京に異動となったばかりの竹原啓二(リクルート事件時の総務・法務部長)は、I&N事業に駆り出されるとき、江副とこうやりとりした。
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「とにかく時間との勝負だ。8月の夏休みは全員キャンセルしてくれ。もちろん君もだよ。休暇は会社で買い取る。300人に休みなしで倒れるまでやって欲しいんだ。陣取り合戦なんだよ」
「まあ、江副さんがやれって言うんなら、やりますけどね」(P253)
こんなやり取りは2021年の今だったら、はっきり言ってドン引きだ。腐っている。しかし、一方で腐食するというのは自然の原理に照らし合わせると健全ともいえる。特に、ナマモノは足がはやい。
江副は企業だけが持つ「情報」を広く開放した、つまり既得権益を破壊し民主化したことで一躍時の人となった。しかし江副本人はその後リクルートに「情報」が集約されるにつれて不動産開発やインサイダー取引スレスレの株式投資にのめり込み、政財界重鎮への接待に精を出し、違法でなくともグレー=モラル的にはどうかというラインを突き進んだ結果、リクルート事件によって起業家人生を絶たれることとなった。
ただしリクルート事件については世間一般の誤解も多い。未公開株の譲渡自体は違法ではないし、著者も本書や出版後の対談で「社会的信用力のある政治家や財界人に未公開株を引き受けてもらうということは、経済界の常識でしたし、上場を担当する証券会社では当たり前のように行われてきたこと。しかも江副は政財界の全方位的に配っていて、特定の誰かに便宜を図ってもらおうとする意図があったようには見えません」と語っており、後に明らかになる検察の強引な自白強要も相まって「あれは本当に犯罪だったのか」と疑問視する声も少なくない。
現代に生きる私たちはプラスチックのように、腐食現象に左右されにくい)ブレークスルーやイノベーションといった横文字的なイメージを持つ)ような何かばかりを追い求めてはいないだろうか。逆説的なようだが、「私たちが拠り所にしている物事はいずれ古くなり腐るのだろう」という視点を常に携えていることが、変化し続けられるモラルの動力源となるのではないだろうか。そんな脳内問答が、ページをめくるにつれて駆け巡るようになった。
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