不要な善意が過剰に伝搬
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①【拡散希望】の多発
災害時にはデマが登場するのは世の常。この時は、千葉県のコスモ石油のガスタンクが火災被害に遭ったが「有害物質が含まれた雨が降る」というメールでの注意喚起が登場。これがチェーンメールとして次々と送られ、これがツイッターにも伝播した。こうしたデマでは「知り合いの知り合いが関係者」といった前置きが付く。誰もが「直接の当事者」の名前を出さないのだ。「〇〇社に勤める××さんがこう言っていた」ではないのだ。そして信頼感を増すため「医療関係の知り合いが言っていましたが」といったパターンも典型例である。
この時は【拡散希望】という言葉が頻出した。パターンとしては、「とあるエリアでヤバいこと(窃盗団など)が発生したから注意を促す」「特定避難所で特定物資が足りないため送ってくださいと依頼する」「放射線に対して〇〇は効果があるから、〇〇を用意した方がいい」といったところだ。
これらはいずれも善意の呼びかけなのだ。だが、結局デマが多過ぎたのである。コロナ騒動でもトイレットペーパーが足りなくなる、ということが【拡散希望】扱いになったが、デマは拡散してはいけない。さらに「特定物資が足りない」と【拡散希望】を出すと、全国からその避難所に届き過ぎて邪魔になってしまう。キチンと自治体等が救援物資の分配はしているのだが、それを完全にぶっ壊してしまうのが善意の【拡散希望】ツイッターユーザーだったのだ。
②「食べて応援」の登場
「放射線に汚染されているのでは……」といった風評被害を受けていた福島県産の桃などを「食べて応援」とツイッターで宣言する人が続出した。これについては素晴らしい動きだとは思うものの、当時の私はこの発言をする人々を「上から目線」と感じたのは事実である。
普通に「福島産の桃が届いた! マジうめー!!!!」とだけツイートすればいいのに、いちいち「食べて応援」と書くのである。この「食べて応援」という言葉については、④の「絆」という言葉の定着にもつながるのではないだろうか。
③「不謹慎厨(ふきんしんちゅう)」の発生
被災地で苦しい思いをしている人に思いを馳せるのは正しいことではあるが、楽しい思いをしている人のことを「不謹慎です!」と糾弾するのはいかがなものか。おちまさと氏は2011年3月14日にBLOGOSに「【特別寄稿】おちまさと『不謹慎』とは何か。」という原稿を寄稿した。大地震からわずか3日後に「果たしてどこまでが『不謹慎』なのだろうか。東京でバリバリ仕事をしていること 費用対効果があるので車で移動すること 御飯を食べること こうしてPCでブログを書くこと など何をするにおいても何か目には見えない『不謹慎の地雷』」とまで書いている。
「不謹慎厨」の定義は「ニコニコ大百科」では以下のようになっている。
〈不謹慎厨とは、なんらかの悲劇が起きた時、全くの無関係のものまで道徳や被害者感情を害するとすると非難し、自粛を求める人である。〉
まぁ、「他人を批判するよりお前が幸せに生きろ」としか思えないが、おち氏は、なんらかのツイートをしたことに対し「不謹慎です!」と糾弾されたのだろう。これを受けてジャーナリストの佐々木俊尚氏も呼応。このようにツイッターに連投した。
〈さっきの猫のツイートでまた狂ったように「不謹慎だ」とかDMしてきたりリプライしてくる人がいる。あーあ。〉
〈「恥を知れ」とかさ、いったい何様なんだろう。〉
〈まあ私は今後も不謹慎なことを言い続けます。これから青山に出かけてブラブラ散歩して、そのあと西麻布でイタリアンだ! いいワインをあけよう!〉
〈西麻布のヴィノーブルで不謹慎なディナーを楽しんでいます。とても素敵ないいお店〉(ここでは高級ワインの写真を公開)
〈不謹慎ディナー宣言!〉
〈物凄い非難の嵐が不謹慎ディナー宣言に。まあ気にしないことにしよう。生きてる世界観が違うのだろう。〉
この時に登場した「不謹慎厨」はその後も災害の度に登場し、2016年の熊本地震の際は、インスタグラムに笑顔の写真を投稿した長澤まさみが「不謹慎です!」と叩かれた。
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