アメリカ主導で、ヒトの遺伝情報「ヒトゲノム」約30億列の全塩基配列を解読するビッグ・プロジェクト「ヒトゲノム計画」が始まったのが、1990年のこと。
全解読が完了した後の2003年以降、世界中で多くのベンチャーがゲノム解析事業に参入し、業界が活性化してきた。
近年、超高齢化社会を迎える日本でも、予防医療を目的として、病気リスクや体質に関する遺伝子情報をチェックできる、個人向けゲノム解析サービスが注目を集めている。
去る9月4日、遺伝子解析の研究者として起業し、脚光を浴びる高橋祥子氏が登壇すると聞きつけ、向かったのは、早稲田大学の社会人教育事業「WASEDA NEO」のパイオニアセミナー。
日本におけるゲノム解析の可能性を切り拓く道筋が語られた、当日のセミナーから一部抜粋の上、お届けしたい。
取材・文:庄司真美 撮影:松本拓也 取材協力:WASEDA NEO
高橋祥子
株式会社ジーンクエスト代表取締役株式会社ユーグレナ執行役員バイオインフォマティクス事業担当
1988年大阪府生まれ。2010年京都大学農学部卒業。2013年6月東京大学大学院農学生命科学研究科博士課程在籍中に遺伝子解析の研究を推進し、正しい活用を広めることを目指す株式会社ジーンクエストを起業。2015年3月博士課程修了。2018年4月株式会社ユーグレナ執行役員バイオインフォマティクス事業担当に就任。生活習慣病など疾患のリスクや体質の特徴など約300項目以上に及ぶ遺伝子を調べ、病気や体質に関係する遺伝子をチェックできるビジネスを展開。経済産業省「第二回日本ベンチャー大賞」経済産業大臣賞(女性起業家賞)受賞。第10回「日本バイオベンチャー大賞」日本ベンチャー学会賞受賞。世界経済フォーラム「ヤング・グローバル・リーダーズ2018」に選出。著書に『ゲノム解析は「私」の世界をどう変えるのか?』がある。
ゲノム解析でわかる、1人1人の体質や病気リスク
ジーンクエスト代表取締役、ユーグレナ執行役員バイオインフォマティクス事業担当の高橋祥子氏。
「ゲノム」とは、ある生物を構成する全塩基配列のこと。生命科学研究の分野では、2003年に一歩前進するための区切りを迎えた。
というのも、米国主導で、イギリス、ドイツ、フランス、日本、中国が参加した、ヒトの約30億塩基の全解読を試みる世界規模のプロジェクト「ヒトゲノム計画」が1990年に始まり、13年がかりで全解読が完了したからだ。
高橋氏曰く、「顔や体、病気のなりやすさといった個性を形づくる要因ともなる遺伝的個性、ヒト同士のゲノムの差は、全体の約0.1%にすぎません。」とのこと。
高橋氏が運営するジーンクエストでは、現在、個人向けの大規模ゲノム解析サービスを提供している。ネットで申し込み、専用キットが届いたらそれに唾液を入れて返送すれば、約1カ月で解析結果をチェックできる仕組みだ。しかも、生命科学の研究は日進月歩のため、一度解析アカウントを作れば、今後も最新の研究結果を無償で受け取れるという。
ゲノム解析でわかる、「アルコール耐性」や「がんになるリスク」など300項目以上
興味深いのは、そのチェック項目。体質の特徴やあらゆる病気のリスクが300項目以上チェックできる。体質のチェック項目の一例を高橋氏は紹介する。
「たとえば、アルコール耐性に関する遺伝子を調べることで、二日酔いになりやすい体質かどうかがわかります。お酒を飲んだときに発生する物質アセトアルデヒトが体内に溜まりやすい人は、悪酔いしやすく、食道癌にもなりやすいと言われています。私は、お酒は弱くない方であると思っていましたが、解析の結果、アセトアルデヒドが体内に溜まりやすい体質であるということが分かり、それからお酒は控えるようになりました」
また、特定の病気のリスクについての実例について、次のように説明する高橋氏。
「私はゲノム解析した結果、腎臓結石のリスクが高いタイプであることがわかりました。これまでに実際にかかったことがあり、母も祖母もかかったことのある病気です。完治した人でも、そのおよそ半分は再発すると言われています。腎臓結石の予防には、水分をこまめに摂る、シュウ酸を多く含む食べ物を避けるなどがありますが、ゲノム解析で自身の病気のリスクを知って生活習慣を変えることで、あらためて今後の予防にもつなげられます」
「ジーンクエストALL 遺伝子検査キット」のチェック項目は、アトピー、円形脱毛症、偏頭痛、鉄欠乏貧血、高血圧症、痛風、脳卒中、脳動脈瘤、心筋梗塞、慢性骨髄性白血病、十二指腸潰瘍、肺がんなどのリスク約300項目。
研究を加速させるために起業し、社会実装を目指す
「そもそもなぜ病気になるのか」ということや、「病を未然に防ぐ」ことを研究するために、京都大学と東京大学大学院を通じて、生命科学研究の世界に進んだという高橋氏。大学院在学中に新しい研究成果を社会に実装しながら、研究が加速する仕組みを作るために起業し、2013年に株式会社ジーンクエストを立ち上げた。
創業当初、生活習慣病や薄毛など200項目の疾患リスクや体質を伝える遺伝子解析サービスを立ち上げて、メディアの注目を浴びた同社だが、その反響が思わぬ事態に。
「私は、社会のためにいいことをしたいと思ってサービスを立ち上げたのですが、世間の反応は想像以上にネガティブで驚きました。そのときに初めて、世間ではまだまだ遺伝子のことがよく理解されていないのだ、ということに気づきました」
この経験をきかっけに、広く遺伝子について知ってもらうための活動に注力。セミナーを開催するほか、書籍『ゲノム解析は「私」の世界をどう変えるのか? 生命科学のテクノロジーによって生まれうる未来』の出版に至った。
個人向けゲノム解析の課題とこれからのビジョン
高橋氏が扱うのは、究極の個人情報ともいえる、遺伝子情報。一体どこまで解析していいのか?ということを倫理上、いかに扱っていくかが今後の課題だと語る。
「ほとんどの病気は遺伝と環境要因の両方が影響します。家族性の乳がんは遺伝要因が強く、肺がんは環境要因が大きいといわれています。遺伝子だけで100%発症が決まる疾患もありますが、技術的にはできても、診断行為になってしまうため、ジーンクエストでは現状扱っていません。また、倫理的な理由で精神疾患も扱っていません。たとえば、『あなたはうつ病になりやすい』という結果を見たことによって精神的な負担を受けてしまい、思い込みにより、実際にうつ病になるケースや差別につながる可能性もあります」
倫理上の議論をしないまま研究や社会実装を広げることや、疑似科学ビジネスが横行する危険性を危惧しているという高橋氏。ゲノム解析市場は確実に拡大しているからこそ、正しい恩恵が受けられるサービスを構築すること、ゲノムに対するリテラシーを高めることが重要だと強調した。
もちろん、最新のゲノム解析を生かすことで、医療に新たな風を吹き込むメリットも。
「遺伝子解析のデータを活用すれば、たとえば個々に合わせたガンのオーダーメイド治療などが実現され始めているほか、ビッグデータを医療の発展に役立てることもできます」
Googleも参入し世界的な潮流となったゲノム解析サービスの未来
アメリカでは、ここ1〜2年でゲノム解析市場が急成長。Googleなどの巨大資本が参入していることから、サービスのコストが下がり、技術的な発展もめざましいという。その波は今後、日本にも来ると言われていて、すでにYahoo!、DeNA、といった異ジャンルの企業が多数参入している(※)。日本での今後の展開について説明する高橋氏。
※経済産業省:平成27年度製造基盤技術実態等調査(遺伝子解析ビジネス等に関する調査事業)報告書より
「ゲノム解析技術の急速な発展により、2000年頃を境にゲノムに関する新しい科学論文の発表が爆発的に増え始め、現在は毎年約2万報以上の研究が報告されています。また、約20年前にはヒト1人のゲノムを解析するのに100億円の解析費がかかるといわれていたゲノム解析コストが、近いうちに1万円ほどで済むという画期的なイノベーションも起きています。今後は、超高齢化社会を迎える日本での活用が期待されています」
また、ゲノム解析が着実に発展していく中で、そのビッグデータに興味を示す企業も増えているという。確かに、アメリカでは大手製薬会社のファイザーがビッグデータを保有する例があるほか、さまざまな企業が、ゲノム解析のデータベースの活用を検討している。
日本やアジアに向けたゲノム解析のビッグデータがもたらすビジネスチャンス
ゲノム解析のビッグデータの活用や研究が世界中で進む中、高橋氏曰く、「日本人には日本人に合ったデータベースが必要」とのこと。当日は、FINDERSの過去記事でも紹介した、ジーンクエストがゲノム解析データを使って取り組む、企業や大学との共同プロジェクトが紹介された。
2018年のパナソニックとの取り組みでは、遺伝子情報を元に創る『最適なリビング』を展示し、将来的に可能になるであろう自分の肌質に合わせたベッドのシーツや枕カバーを仮想で作ったことで話題となった。
また、伊藤園との共同研究では、緑茶成分のカテキンの吸収に関連する遺伝子について研究成果を学会で発表。他にもここ1年で、数多くの研究成果を論文発表するという成果を見せている。
「ようやく最初に思い描いた、今の研究成果を活用しながらサービスを提供し、ユーザーが増えることでデータも集まって研究もでき、それをまたフィードバックできるというサイクルが回り始めてきました」
今後、ゲノム解析の研究の進歩にしたがって、分析データを活用した「データドリブン事業」がさらに加速すると指摘する高橋氏。
「研究データを生かしながら、ゲノム解析で豊かな社会を創るのが、弊社の理念です。ゲノム解析だけでなく、すべての領域においてデータ取得のコストが下がれば、データを活用してどんな未来を描くか?というデザイン力が必要になります。たとえば、栄養失調などが解決されても、今度は世界的にも肥満という新しい問題がかならず出てきています。問題は絶えないからこそ、人は絶望するのではなく、前進することで発展する。それこそが最大の幸福だと思うのです」
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ヒトの遺伝情報「ヒトゲノム」約30億の全塩基配列が解読されてから16年目を迎える現在、さまざまな研究成果が医療やビジネスに実装されるフェイズを迎えている。
まだまだ未知なことが多い生命科学の分野だが、高橋氏の研究や活動がその発展を後押しすることは間違いない。
※本記事は、早稲田大学「まなびのコンパス」「WASEDA NEO」にレポート記事を寄稿したライターが再編したものです。