デジタルハリウッド大学学長・杉山知之さんの連載第14回は、広く世間から注目を浴びるようになってきたデジタル・アートを論じる。果たして、そこで私たちは本当に「未知」の次元を体験しているのか、否か?
2019年10月3日に、1994年の専門スクール開校より創立25周年を迎えるデジタルハリウッド。「エンタテインメント」を核に据えてきた立場としても、アートのポテンシャルは重要なテーマだ。イーロン・マスクが脳とコンピュータをつなげようとする今、デジタル・アートに期待するものとは。
聞き手:米田智彦 構成:宮田文久 写真:神保勇揮
杉山知之
デジタルハリウッド大学 学長/工学博士
1954年東京都生まれ。87年よりMITメディア・ラボ客員研究員として3年間活動。90年国際メディア研究財団・主任研究員、93年 日本大学短期大学部専任講師を経て、94年10月 デジタルハリウッド設立。2004年日本初の株式会社立「デジタルハリウッド大学院」を開学。翌年、「デジタルハリウッド大学」を開学し、現在、同大学・大学院・スクールの学長を務めている。2011年9月、上海音楽学院(中国)との 合作学部「デジタルメディア芸術学院」を設立、同学院の学院長に就任。VRコンソーシアム理事、ロケーションベースVR協会監事、超教育協会評議員を務め、また福岡県Ruby・コンテンツビジネス振興会議会長、内閣官房知的財産戦略本部コンテンツ強化専門調査会委員など多くの委員を歴任。99年度デジタルメディア協会AMDアワード・功労賞受賞。著書は「クール・ジャパン 世界が買いたがる日本」(祥伝社)、「クリエイター・スピリットとは何か?」※最新刊(ちくまプリマー新書)ほか。
『ウゴウゴルーガ』に見た、デジタル・アートの未来
デジタル・アートの未来を語るために、私個人が目の当たりにしてきたこのジャンルの源流について、少しお伝えしたいと思います。私が「あ、これはデジタルとアートが本格的に近づいていくな」ということを感じたのは、1990年代、アート・ユニットの明和電機が世に出てきた時でした。同じ頃にポップなアートとしての魅力を感じたのは、92年から94年にかけて放送されたアニメ『ウゴウゴルーガ』ですね。私自身、CGも手掛けていましたが、あくまで扱い方はまじめだった。デジタルな表現が、ポップなアートにつながっていく可能性を、あの頃に強く意識しましたね。
もちろんそれ以前から、デジタル・アートの潮流に連なるようなものは目にしてきました。当時から、たとえば人間の手では表現できないような数学的な描線をコンピュータで描画していくようなアート作品もあったんです。
ただ、きれいだな、美しいなとは思いながらも、私としては芸術性、それこそファイン・アートとも比肩するような魅力を感じることができなかったのは事実。インタラクティブなアート作品も生まれてきていましたが、なにぶんコンピュータの処理がまだ遅くて、そこで起こる反応に鑑賞者が没入できるまでには至っていませんでした。
ブラウン管のモニターをたくさん接続していくようなビデオアートも興隆していましたが、私としては、あまりグッと来なかったんです。なぜかということを改めて考えると、きっとそこで用いられている技術が、「テクノロジーとしては過去のものだったから」ということに尽きると思います。
アナログの作業としては大変なものでしょうし、アーティストの活動としてたしかに意義深いものであるはずですが、僕は「新しいテクノロジーをアートが用いることによって、体験したことのない何かが起きる」ということが好きでしたから。ですから、『ウゴウゴルーガ』のほうが、変で楽しいことをやっているなと思って、グッと来たんですね(笑)。
ファイン・アートの市場へ、あるいは日常のアートへ
それから時が経ち、今の状況を見渡してみると、インタラクティブなデジタル・アートは、一気に花開いた感があります。コンピュータの処理速度も非常に速くなり、LEDも安価になりましたから、大規模に物量を詰め込んで、鑑賞者を全感覚的に覆っていくような、すごい体験まで拡張していくことができるようになりました。
ただ一点だけ、私の個人的見解としては――あるいはメディア・アートを以前からご覧になってきた方もそうだと思うのですけれども、既視感はあるんです。使われている技術は、速度や物量においては飛躍的な進化を遂げているものの、昔のメディア・アートの頃に一度は試されてきたようなテクノロジーがほとんどなんですね。
ひとまず、高速で、大規模で、安定したデジタル・アートは達成できるようになった。ではここから、デジタル・アートはいかに、見たことのない未来を切り開いていくことができるのでしょうか。
その前提として、私はデジタル・アートが取りうるふたつの方向性があると思っています。ひとつは、ファイン・アートの市場に入っていく、ということです。
ファイン・アートの世界は、それこそゲーム産業とも比較されるような大きな市場を世界で持っているのですけれども、それに対してコンピュータを用いたデジタル・アートは、ある種の「脆さ」を抱えています。ものによっては何千年と保存できるファイン・アートに対して、デジタル・アートは再生機器の保存・メンテナンスをしなければいけないのです。
もちろん、ネットを介したメンテナンスもできるでしょうし、そもそも壊れにくいデジタル・アートも可能になってきている。しかし、ここから先、デジタル・アートがファイン・アートの市場に入っていくためには、そもそもの価値観が転換されていくことが必要だと思います。たとえば、アートの買い手の意識ですね。「デジタル・アートは30年持てばいいんだ、それでも今買う価値があるんだ」という意識で大金を払ってくれるような変化が訪れれば、環境は一気に変わってくることでしょう。
もうひとつの可能性は、もっと身近な、生活の中で楽しめるようなデジタル・アートのあり方です。たとえば、ARの技術がこれだけ発展してきているのですから、家の中に大きな彫刻作品を置きたいと思ったら、それそのものを置かなくてもよくなってくるはずです。彫刻作品をリビングにARで飾っておけば、毎日楽しめて、しかも邪魔にもならない。生活へとデジタル・アートが組み込まれていきます。
もしくは、近年注目を浴びている、地域芸術祭やビエンナーレ、トリエンナーレ。ひとつの街全体を使ったアートのイベントを開催するにあたって、国内外のアーティストから作品が寄せられるとしましょう。イベントの規模や各作品が大きければ、現実に設置と撤去をするだけでも、大変な労力が必要になってしまいます。しかし、ARであればあっという間に実施することができる。街全体でARを活用するというのは、デジタル・アートのひとつの道として考えられるのではないでしょうか。
ブレインテック発、「脳とアート」の魅力
こうしたことを考えたうえで、先ほど触れたような「新たなテクノロジーが使われることで、未体験の地平を味わうことができる」というデジタル・アートが花開くかもしれません。
私が近年魅力を感じているのは、イーロン・マスクたちが追求しているブレインテックです。イーロン・マスクが立ち上げたニューラリンク社は、脳にデバイスを直接埋め込み、言語を介することなくまるでテレパシーのように他者と意思疎通できたり、脳とクラウド上のAIをつなげて人の能力をサポートしたりする、といった研究を進めているでしょう。
もちろん倫理的な課題もありますから時間はかかるでしょうが、脳とコンピュータの直接のやりとりにおいて、未体験の何かを我々が感じるアートというものは、出てきていいと感じています。
この連載の前回、技術によって便利になる未来、人間に残された創造性のひとつとしての「夢」について述べました。時系列も、トピックの組み合わせもとても不思議な、あの夢というものは、私たちの脳の中で起きている出来事です。そこには、とても面白いクリエイティビティが眠っている。この脳の領域に対してインプットとアウトプットが可能になり、そこから新たなものの見え方を獲得することができれば、それは新たなデジタル・アートといえるはずです。
アートとはそもそも、慣れ親しんだそれとは異なるものの見方を気づかせてくれる役割がある。ならばブレインテックには、デジタル・アートの未来が胎動しているのではないか――私は、そう期待しているのです。