CULTURE | 2020/05/29

素朴な定食とジワジワ来る看板一言コメントが魅力の「やしろ食堂(荻窪)」【連載】印南敦史の「キになる食堂」(1)

もちろん、おしゃれなレストランも悪くはないだろう。けれど日常的に食欲を満たすのであれば、やはり気楽な食堂がいい。そこで、...

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もちろん、おしゃれなレストランも悪くはないだろう。けれど日常的に食欲を満たすのであれば、やはり気楽な食堂がいい。そこで、時代に流されることなく、独自のスタンスを守り続ける、“どこかキになる食堂”を訪ねる連載をはじめることになった。

印南敦史

作家、書評家

1962年東京生まれ。 広告代理店勤務時代に音楽ライターとなり、 音楽雑誌の編集長を経て独立。一般誌を中心に活動したのち、2012年8月より書評を書き始める。現在は「ライフハッカー[日本版]」「東洋経済オンライン」「ニューズウィーク日本版」「マイナビニュース」「サライ.JP」「WANI BOOKOUT」など複数のメディアに、月間40本以上の書評を寄稿。
著書は新刊『書評の仕事』(ワニブックスplus新書)、『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)、『プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術』(KADOKAWA)、『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』 (星海社新書)をはじめ、音楽関連の著書も多数。

今の時代、ますます貴重な「普通の町場の食堂」

中央線荻窪駅北口。新宿を背に青梅街道を進むと、ほんの1分で「教会通り」という全長数百メートル程度の商店街が現れる。どことなくおしゃれな感じもするネーミングだが、なんのことはない、一番奥に「天沼教会」という教会があるだけのことである。

マスコミによく登場するはちみつ専門店「ラベイユ」があり、「五稜郭」「ねいろ屋」など、ラーメンの名店もいくつか。そのため最近ではわざわざ訪ねてくる人も少なくないようだが、地元民からすれば、むしろ洗練とはほど遠い昔ながらの商店街だ。

「そうそう、40何年前に店出した時には知り合いから、『お前、なんでこんなところに店出すんだ?』って言われたもんだよ。『ここは“モトスリ横丁”なのに』って。投資しても、モトが取れないからモトスリ」

そう笑うのは、教会通りのちょうど真ん中あたりに位置する「やしろ食堂」の店主、内山泰光(やすみつ)さん(72歳)だ。実を言うと私はこの店からほど近い場所に住んでいるのだが、もし食堂に関する記事を書くことがあったら、真っ先にここを取り上げたいと思っていた。

だから、この連載の1回目にはここと決めていたのである。

店主の内山泰光さん

創業者の名を冠したというやしろ食堂は現在、荻窪の他に高円寺と方南町にもあるチェーン店である。

「阿佐ヶ谷、高円寺、中野、目黒、上板橋、大山、東中野……最初は16店舗ぐらいあったんだけど、でも後継者がいなくて、いまはもう3軒しか残ってない」

内山さんが荻窪のこの地にやしろ食堂を開いたのは昭和51年(1976年)。つまり今年で44年目となる。新潟のご出身で、高校卒業後に上京したのだった。

「新潟県は貧乏だったから、昔は。だから、出てくるしか仕事がなかったわけだよ。俺は柏崎の出身なんだけど、職安に行って仕事を探したら『飲食店 独立可能』なんてビラがあって、それを見て来たの。場所は蒲田だった。『あ、これがいい』と思って来ただけだからなにも知らなかったんだけど、行ってみたらあれだよ、飲食店とはいえキャバレーだったんだよ。でも、東京に誰も知り合いはいないし、親戚もいないから帰るに帰れないし、参ったなあと思ったけど、まあ仕方ない。しばらく勤めたよ。だって住み込みだしさぁ、行くとこないもん」

同じ職場の職人たちは、給料が入ると平和島の競艇場や大井の競馬場へ遊びに行って仕事に出てこない。お金がなくなると出てきて働き、また給料が入れば遊びに出るような調子。数年間は我慢して勤めたが、「こんなこと続けてたってどうしようもないな」と思い、「もっと地道な商売はないかな」と考えた末に現職を選んだ。

「ひどい時代だったよ、あの頃は。田舎から出て来てなにも知らなかったから、そういうもんだと思ってたけど」

以来、地道にこの店を続けてきた。現在は奥様、そして息子さんと切り盛りをしている。驚かされるのは、その生真面目さだ。70歳を過ぎると体力的にもたないということで、最近ようやく日曜日だけは休むようになった。しかしつい最近まで、正月とお盆以外は無休でやってきたのだ。

「特別変わった店じゃないし、個性があるわけでもないし、普通の町場の食堂でしかないから」

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