ロボット工学の第一人者である大阪大学教授の石黒浩氏が立川談志、勝新太郎、夏目漱石といった著名な故人たちを次々とアンドロイドで蘇らせている。近い将来には歴史的偉人に限らず、一般人をアンドロイド化するサービスが作られていくことも考えられる。だがそこで懸念されるのは、対象となる本人や家族・友人の名誉を守るための法制度の議論がないことだ。人を再現するアンドロイドは、どのように取り扱うべきなのか。
このような問題に対する先駆的な試みとして、2018年8月26日に東京・九段の二松学舎大学で「偉人アンドロイドシンポジウム」が開催された。議論の対象となる漱石アンドロイドは、石黒氏監修のもと文豪・夏目漱石の母校である二松学舎が制作し、16年12月に完成。現在、二松学舎大学と大阪大学で共同研究を行っている。
最初は劇作家・演出家の平田オリザ氏による新作アンドロイド演劇『手紙』が上演され、続くシンポジウムでは、講演、平田氏によるアーティストトークに続き、石黒氏、弁護士の福井健策氏、二松学舎大学の谷島貫太氏による偉人アンドロイド基本原則案の提起、さらに討議が行われた。その中でも石黒氏、福井氏、平田氏、漱石の実孫で漫画批評家の夏目房之介氏、谷島氏ら多分野の文化人による知見が交錯した討議の内容を中心に紹介しよう。
取材・文:石水典子
「人格の完全な再現」はそもそもできない
まず漱石アンドロイドとは何か。同プロジェクトのアンドロイド制作を監修した石黒浩氏は、これまでにも「ジェミノイド」と名付けられた人物にそっくりなアンドロイドを数々世に送り出してきた。だがそれらと漱石アンドロイドが異なるのは、漱石が有名人であること以上に「本人や直接関わった人間が現存していない」ということである。
アンドロイド演劇『さようなら』
撮影=大倉英揮
そのため漱石アンドロイドの制作では、社会的人格(社会的にどんな人だと思われているか)と個人的人格(実際はどんな人だったのか)は切り分ける必要があるという。石黒氏はシンポジウムで偉人アンドロイドをこのように説明している。
石黒:漱石アンドロイドは社会的に認知されている「漱石」というキャラクターを再現した人格デザインをしています。我々が認識しているのは社会的人格です。逆に個人的人格について、プライベートの側面は表に出ていないわけですから、そもそも記録もないため完全な再現はできない。だからこそ(故人の)プライバシーとは何かという深い問題とも関わってくるため、偉人を中途半端に再現してはいけないということです。
4つの「偉人アンドロイド基本原則」
漱石アンドロイドの実物(二松学舎大学提供)
石黒氏は偉人アンドロイドの人物像を形作る人格について、リアルなその人自身ではなく、社会的に共有されたパブリックイメージの再現であるという。そのため、人々の想像の中で作り上げられた存在としての尊厳を失うものでなく、さらに遺族や関係者に配慮したものでなければならないとする。
これに対して、著作権法に詳しい弁護士の福井健策氏から提案された「偉人アンドロイド基本原則案」は以下のようなものである。
1:偉人アンドロイドの開発自体は自由
2:ただし偉人アンドロイドを用いた創作物は、その行動や言動が「フィクションである」ことを明示すべき
3:アンドロイド自身が生み出した創作物に著作権は発生しない
4:これらの原則は、アンドロイドに独立した人格が生まれた時点で見直す
1つ目は、そもそも偉人を再現したアンドロイドを作っていいのかという問題について。
福井:私が提案する基本原則案では作ってよいとします。ただ(基準となる)データがたくさんないと作れませんので、そのデータを遺族から提供を受けるなどしないと現実的に作れないということはあるでしょう。そしてもし利用可能なデータがあったなら、死後にアンドロイドを造ることは肖像権の侵害には当たらない。つまり「造れる」と考えます。
ただし、亡くなった方や遺族の名誉やプライバシーを害さないように留意することが条件です。害してしまうと法的リスクが増しますし、社会的に強い反発を受けてしまうことになるので、そのような配慮は恐らく大事でしょう。
2つ目は平田氏の偉人アンドロイド演劇を鑑賞した上での見解となる、偉人アンドロイドを用いた創作についてだ。
福井:「フィクションである」という注意表示はした方がいいと思います。故人が生前、本当に言ったことやしたことであると誤解を与えないためです。ただ文脈上で明らかにフィクションだと分かるものであれば、説明する必要はありません。例えば漱石が現代にいてアニオタでコミケに通っている、なんていう設定はフィクションに決まっていますから。
当日上映された漱石アンドロイド演劇『手紙』。女優の井上みなみ氏が漱石の親友だった正岡子規役を演じ、実在のものと架空のものが混在する手紙のやりとりを会話劇として演出した。
3つ目はロボット自身が創作や演技を行った時に、そこに著作権や著作隣接権は発生するのかという問題についてである。
福井:世界的にも「発生しない」が一応の通説ですが、例えば偉人アンドロイドが書いた小説に著作権などを与えると決める立法はできるでしょう。ただしコンピュータは疲れませんから、とんでもない数の創作物を生み出すことが理論上は可能です。もしそれ全部に著作権が発生するとなると社会的影響が読めないので、今は著作権を与えないことを提案したいと思います。
さらに補足として加えられた4つ目の項目は、今後の技術革新によってアンドロイドが独立した人格を持ち得た場合について。このステージに来た段階で、原案を見直す必要があるという。
福井:一定程度の故人の記憶を持っていて、独立した人格的なものを持った存在が生まれたとしたら、それは限りなく故人の延長線上にある生き物に見えます。ロボットやAIが独立した人格を持ち得たと社会のみんなが感じるようになった時、基本の法体系は根本から組み替えることになるでしょう。
現在、著作権法の保護期間は、作者の生きている間と死後50年で、まもなく死後70年に伸びるが、死が存在しないアンドロイドに人格が生まれれば、永久に終わらない時代が来ることも考えられる。その際、著作権が消滅する期間はいつに設定するのかということも話しあわざるを得ないという。
福井:先ほどツイッターに「アンドロイドになることを拒否できる権利も考えるべきだ」というつぶやきがあって面白いと思いました。ロボットが人格を持ち得るとすると、「自分の記憶やアイデンティティを移し替えないでくれ」と希望する個人も出てくるかもしれない。そういった権利についても我々は考えないといけません。
アーティストにとっての「アンドロイド規範」
二松学舎大学提供
続く討議では、オープニングアクトで上演された戯曲『手紙』を手がけた平田オリザ氏、前述の福井氏、漱石アンドロイドを制作した石黒浩氏、二松学舎大学の谷島貫太氏、そして漱石の実孫である夏目房之介氏が参加した。
最初の話題は「表現者が偉人アンドロイドを用いる場合、偉人の尊厳を守るために制限の境界線は引くべきなのか」という点について。
平田:アーティストとしては基本的に自由に制作させていただきたい。例えば夏目漱石も、影の面を描くことで「こんな人間的なところがあったのか」と鑑賞者の感情が高まることもあるので、あらかじめ規制をかけられるのは望ましくない。
夏目:漱石が話したことがフィクションであることを明示する、ということでいいと思います。基本的に表現というのは自由にしか書けないですよね。その結果何かあっても、本人(作家)が責任を取るしかない。
福井:私の考えもそれに近いですね。先ほど申し上げた基本原則案にある「遺族に配慮しないといけない場面」は、実際にはかなり限定されているというのが今の私の理解です。あまりやりすぎてしまうとかえって逆風が強まってアンドロイドの活用が害されかねないので、そのレベルでの配慮という趣旨ですね。
夏目:漱石って出来上がった古典的イメージから変わらないと皆さん思っているけれど、漱石像は戦前・戦後と今とで変わっているんです。一番大きく変わったのは弟子がみんな死んでしまったこと。我々が造るフィクションとしての漱石はそこをまず押さえないといけない。ここにもし法的な責任主体を設けるとしたら、制作委員会方式の集団著作権のような形しか、考えられないと思うんですけれど。
平田:私たちの業界では委員会を設けますので、演出によっては許諾されない場合があります。注釈をつけておきますと、(今回のように故人を扱う演目の場合)僕個人の中に規範があって、それはお芝居をやっていて隣に遺族が座っていても大丈夫かどうか。ただし殴られるぐらいの覚悟はあります。刺されるのは辛いけれど、殴られるぐらいは表現者だから当然覚悟していますよ。
石黒:(ロボット研究の立場から言うと)法律はない方がいいんです。法律がないところでしか新しい産業は生まれないですし、法律がないところでしか面白いことは起こらない。ただ世の中をわかりやすくしようとすると、みんな世の中に法律を求める。今の杓子定規の原則でなくてもいいけれど、こういう基準であれば堂々とアンドロイドを造れるというような法律が欲しいですね。何もないと一般の人に、こいつはいいことをやっているのか悪いことをやっているのかどっちなんだという猜疑心を持たれてしまうんですね。
夏目:僕の解釈でいうと、法律って常に時代遅れなんです。(必要になった年の)翌年に改定していたら役に立たないんです。大きな法律であればあるほどそうです。時代遅れのものを今に合わせないといけないというのが法律の宿命なので、その前提で、それとどうやって交渉してうまく時代に合わせていくかが表現者の醍醐味じゃないですか。
「ロボット三原則」は社会でどうイメージされるか
福井:房之介先生がおっしゃったように、立法事実が積み上がって、はじめて立法作業が可能になるわけですから法律は常に時代に対して遅れます。法律というのは社会のミニマムスタンダードであるべきです。法律と現実を埋めるのは、オリザさんの言う「殴られてもいい」的な個人の覚悟です。
アンドロイド開発については、まだ自由が必要だから法的な規制はまだいらない。でも準則は欲しい。だから非拘束的なガイドラインぐらいはみんなで持っておこうというのが、恐らく現在の世界のコンセンサスです。
石黒:例えばロボット三原則(SF作家アイザック・アシモフが作中で定めた「人間に危害を加えない、命令への服従、原則を逸脱しない範囲での自己防衛」という3つの原則)は法律ではないんです。でも「ロボット三原則を守っています」と言ったら許される感じがある。みんながなぜか納得してしまうわけです。こいつはロボット三原則を守っているから大丈夫なんだと、こうした意味のない法律を守っていても許されることがあるので、そういうものが欲しいというのが僕の中にはある。だからある程度は定義して欲しいですね。例えば社会的人格を貶さない限り、誰のアンドロイドも自由に作っていい、というような。
人間というのは個人的人格と社会的人格の両側面を持っていて、それが分離した時点で本人ではありません。その優れた社会的人格をアンドロイドにしてバンバン育てて、いずれ自律化して実権をもった優れたアンドロイドがたくさん出現する世界を作りたいですね。
夏目:まるっきりアトムの世界じゃない(笑)。
偉人アンドロイド時代の著作権法のあり方
福井:今、偉人アンドロイドはどちらかというと故人の肖像などの利用に比重のある問題だと思います。同時に、アンドロイドを作り動かしていく過程では、生前の著作や写真も利用することになるので、著作権の保護期間延長問題が、かなり関連してきます。残されたものをどれだけ将来に向かって自由に利活用できるかというデジタルアーカイブの問題も関わってくると思いますね。どこまで情報独占を許し、どこから情報共有を図っていくべきかというバランスについて議論する必要がある。
夏目:僕は漫画の批評をするので、作品を引用することが多かったんですが、それがものすごく大変だったんです。今では漫画の引用に関してはかなり自由にできます。だから研究が一気に進んだんです。そういう体験からいうと、文化というのは社会的に共有されて意味がある。個人のものじゃないんです。そもそも(著作が)個人だけのものなら文化になっていない。個人のものが社会化するから文化なんです。社会が文化を共有し、利益を得るために今の著作権法を見直す必要があると思う。
平田:もう一つ議論しなければいけないのは、遺族の気持ちの問題です。表現を遺族が気に入らなかったら、名誉毀損で訴えることがありますよね。それが漫画や小説に比べて多分アンドロイドは訴えられやすいということは想定できると思います。なぜかは分からないのだけど、遺族としては嫌だという感情を持つ。それを裁判がどう判断するかはまだ判例がないわけだから、これから考えていかなければいけないポイントだと思う。アンドロイドだからこそするべき議論です。
夏目:遺族問題は本当に悩まされるんです。やはり世の中は面白い方がいいんです。(漱石のプロジェクトに前向きに携わった)私を基準にして考えられても困るけれど、僕はマツコロイドの大ファンだから。あんなに面白いものはなかったですね。
アンドロイドに優しい視点を日本から発信する
福井:ヨーロッパのロボット観と日本人のロボット観は違いますよね。ヨーロッパのロボット観はカレル・チャペック(「ロボット」という語を生み出したチェコの作家)以降のものであって、だいたいディストピア的ですよ。映画でもアンドロイドやロボットが人類に対する脅威や対立項としてしばしば出てくる。でも日本人にとってのロボットはアトムとドラえもんだから、友達感覚が強いんですね。その感性は、八百万の物に対して魂を見ることができる我々の一つの特質です。ロボット共生的な新しいルールのあり方を日本から発信していくのも面白い。新しいロボット・アンドロイド研究の先鋭として石黒先生や二松学舎さんの取り組みには期待したいなと思います。
平田:日本のロボット研究と霊長類研究というのは今も最高峰にあります。日本人は人間と猿、人間とロボットとの区別がすごく曖昧で、霊長類研究で個体識別といって、固体に名前をつけて識別するというのは日本の研究者が始めたことなんです。擬人化できることは日本の研究者の強みで、ヨーロッパの研究はやっていなかった。日本がイニシアチブを取って、アジアの法学者と今の時代から連携しアジアから発信するというのは賛成です。
福井:今の多くの法システムはヨーロッパにあったものがベースで、かなり人間中心主義的なんですよ。もちろんそれは大事なことなのですけれど、そうではない視点を日本から発信していけるのではないかなということは期待したいと思います。
ロボット研究者、法律家、演劇人、漫画批評家、文学者とさまざまな立場の知識人による討議は、前向きな未来を想像させる余韻を残し終了した。故人がアンドロイドとなって蘇り、人間と共生するロボット社会は現実味を帯びてきた。こうした多角的な議論こそが今後大きな意味を持つことは間違いない。