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第31回東京国際映画祭が11月3日(土)に閉幕した。公式発表(3日分は見込み動員数を含む)による動員数は6万2,125人。前年の動員数は6万3,679人だったことから、いっけんすると減少したように見えるのだが、今回の映画祭で上映された作品数は181本、前回が231本だったことを考えると、実質的には動員率が上がっていることになる。
今回“東京グランプリ”に輝いたのは、ミカエル・アース監督によるフランス映画『アマンダ』(18)。シングルマザーの家庭で育った少女・アマンダは、悲劇によって母親を突然亡くしてしまったことから、若き叔父との日常の中で悲しみを乗り越えてゆくという物語。この作品は来年夏に日本公開が決定しているが、実は東京国際映画祭でコンペティションに選ばれた作品の大半は、映画館での一般公開がなされないまま“日本劇場未公開作品”扱いとなっている。なぜ、そのような状況になっているのか?
連載第5回目では、「東京国際映画祭の功績(その2)」と題して、映画祭の意義と、過去の受賞作品がもたらした功績について解説していく。
松崎健夫
映画評論家
東京藝術大学大学院映像研究科映画専攻修了。テレビ・映画の撮影現場を経て、映画専門の執筆業に転向。『WOWOWぷらすと』(WOWOW)、『japanぐる〜ヴ』(BS朝日)、『シネマのミカタ』(ニコ生)などのテレビ・ラジオ・ネット配信番組に出演中。『キネマ旬報』誌ではREVIEWを担当し、『ELLE』、『SFマガジン』、映画の劇場用パンフレットなどに多数寄稿。キネマ旬報ベスト・テン選考委員、田辺弁慶映画祭審査員、京都国際映画祭クリエイターズ・ファクトリー部門審査員などを現在務めている。共著『現代映画用語事典』(キネマ旬報社)ほか。日本映画ペンクラブ会員。
東京国際映画祭は<新たな才能の発見と育成>に重点を置いている
東京国際映画祭の最高賞“東京グランプリ”の対象となるのは、応募要項に添って世界中から集められたコンペティション部門の作品たち。今年は109の国と地域から1,829本の作品応募があり、その中から16作品がコンペティション部門に選ばれた。つまり、グランプリを競うために東京国際映画祭で上映される作品は、繰り返される選考の末、意図を持って厳選された作品であるということが判る。
本連載の第3回で、主要な国際映画祭では、その映画祭のために集められた「誰もまだ観たことのない作品」に対して賞を与えている、と解説したが、コンペティション部門で上映される作品には、ある特徴がある。それは「ワールド・プレミア」や「インターナショナル・プレミア」、あるいは「アジア・プレミア」の作品で占められているという点。「ワールド・プレミア」とは“世界で初めて上映する映画”を指し、「インターナショナル・プレミア」は、“製作国以外で初めて上映する映画”、「アジア・プレミア」は“アジアでは初めて上映する映画”を指す。
例えば今年のヴェネチア国際映画祭の場合、「2017年9月9日以降に完成した60分以上で世界初公開(ワールド・プレミア)の作品」という規定があると第3回で解説したように、コンペティション作品が「ワールド・プレミア」=「世界初公開」であることは、国際映画祭にとって重要な要素なのである。映画祭の持つ意義・役割として重要なポイントを3つ挙げるとすれば、それは<芸術とマーケットの両立>、<映画作家に対する権威・格付け>、そして<新たな才能の発見と育成>という視点にあるのではないだろうか。映画祭で上映された作品が(世界的な視点からも)優れていた場合、「世界初公開」であることは映画祭にとって<新たな発見>という役割を担うことになる。東京国際映画祭のコンペティション作品が「よくわからない」「知らない」「華やかさに欠ける」と度々揶揄される由縁、それは、有名監督による大作映画の招聘ではなく、<新たな才能の発見と育成>に重点を置いているからにほかならない。
東京国際映画祭は主要映画祭の中でも不利な時期に開催されている
もうひとつ重要なのは、映画祭の開催時期にある。国際映画製作者連盟が公認する国際映画祭について前回紹介したが、その開催時期を御確認頂きたい。実は、それぞれの国際映画祭の開催時期というのは、ほぼ重ならないようなスケジュールになっているのだ。そこで巻き起こるのが「ワールド・プレミア」作品の争奪戦。映画を製作する側にとっても、より大きな映画祭で上映されることを望むのは当然の事。特に、ベルリン・カンヌ・ヴェネチアの三大映画祭で上映されることは、映画作家たちにとって名誉であるのはもちろん、受賞を果たせば<権威>ともなる。どの映画祭に出品すべきか?という選択や目利きは、彼らの映画人生にも影響を与えるのである。
そこで興味深いのは、明文化された規定があるわけではないにもかかわらず、各映画祭のコンペティション部門における「ワールド・プレミア」作品は、基本的に被らないという点にある。特に3大国際映画祭ではその傾向が顕著で、ベルリンのコンペティション作品はカンヌのコンペティション作品に選ばれないし、カンヌのコンペティション作品がヴェネチアのコンペティション作品に選ばれるようなこともない。それは、各映画祭がそれぞれの<新たな発見>や<格付け>を目的として、作品を選定しているからにほかならない。それゆえ「三大映画祭で同時受賞」というような結果が不思議と生まれないのである。
このことは、開催時期が10月末である東京国際映画祭にとって不利に働く。既にカンヌ国際映画祭は5月に終わっており、ヴェネチア国際映画祭は9月に終わったばかり、さらに年明けの2月にはベルリン国際映画祭が待っている。当然のことながら、世界的に著名な映画作家たちは、三大映画祭を目指すことから東京国際映画祭への出品を敬遠しがちなのである。言い方は悪いが、現実として、東京国際映画祭には三大映画祭で取り上げられなかったような作品しか残っていないのである(そのため東京国際映画祭では、主要国際映画祭の受賞作や既に他の国際映画祭で上映された有名監督の作品を、賞に絡まない“ワールド・フォーカス部門”として上映。今年は19作品が上映されている)。もちろん、東京国際映画祭のコンペティションを目指す映画人も存在する。それでも歴史ある三大国際映画祭に敵わないことは、東京国際映画祭の運営に関わる人々も承知しているはずなのだ。
そのような経緯から、東京国際映画祭では「まだ誰も観たことがない作品」による<新たな才能の発見>ということに重点が置かれている印象がある。実際、東京国際映画祭の作品選定を担っているプログラミング・ディレクターの矢田部吉彦さんは「監督の作家性や個性を重視し、実績や実力があり、伸びしろのある監督たちを選んだ」と語っている。そして、世界中の映画を大陸ごとにまんべんなく選んでいるという印象もある。そのため、コンペティション作品に対して「知らない」「華やかさに欠ける」という揶揄が生まれているのだとも理解できる。まさに、それが“狙い”のひとつでもあるからだ。ならば、そのような“狙い”によって生まれた映画祭の功績とは、いったいどのようなものなのか?
東京国際映画祭は後年評価されている<新たな才能>を発掘している
東京国際映画祭の受賞作が語られる時、今もなお例に出されるのは、第1回の最高賞にあたる“ヤングシネマ大賞”を受賞した相米慎二監督の『台風クラブ』(85)ではないだろうか。『セーラー服と機関銃』(81)などのアイドル映画で興行的な成功を収めていた相米慎二監督に対して、いちはやく<作家性>を認めたのは、まだ始まったばかりの東京国際映画祭だった。当時は日本映画が最高賞を受賞したことに対する内輪感に批判の声も上がっていたのだが、その後の相米慎二監督に対する評価はご存知の通り。審査委員長だったデヴィッド・パットナムをはじめ、ベルナルド・ベルトルッチ、ミロシュ・フォアマン、レイモンド・チョウ、今村昌平など、アカデミー賞や三大国際映画祭で受賞経験のある世界的な映画人たちが第1回の審査員を務めていたことも忘れてはならない。
また、受賞当時は「知らない」「華やかさに欠ける」と揶揄された作品ながら、後に世界的な評価を得た映画人も少なくない。総ての例をここで挙げることは不可能だが、例えば、第13回のコンペティション作品だったメキシコ映画『アモーレス・ペロス』(00)。既にカンヌ国際映画祭の批評家週間部門で受賞を果たしていたものの、東京国際映画祭ではグランプリと監督賞に輝いている。この映画がデビュー作だったのが、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督。後に『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(14)と『レヴェナント:蘇えりし者』(15)で2年連続アカデミー監督賞受賞という快挙を成し遂げることになる人物だ。
第11回のグランプリに輝いたのは、スペイン映画『オープン・ユア・アイズ』(97)だった。この映画は、後にトム・クルーズ主演の『バニラ・スカイ』(01)としてハリウッド・リメイクされている。監督のアレハンドロ・アメナーバルは、後に『海を飛ぶ夢』(04)でヴェネチア国際映画祭審査員特別賞やアカデミー外国語映画賞を受賞するという国際的な映画作家に成長している。また、この年の監督賞を受賞したのは、『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ』(98)のガイ・リッチー監督だった。後に『スナッチ』(00)や『シャーロック・ホームズ』シリーズを手掛けることになる、人気監督のデビュー作だったのだ。
近年で賛否を呼んだ作品といえば、第19回のグランプリに輝いた『OSS 117 カイロ、スパイの巣窟』(06)ではないだろうか(※)。007シリーズのようなスパイ映画のパロディが満載の作品で「こんなふざけた映画がグランプリとは!」と当時批判の的となった。ところが、この映画を監督したミシェル・アザナヴィシウスは、後にモノクロの無声映画『アーティスト』(11)でアカデミー作品賞や監督賞など5部門を受賞。『OSS 117 カイロ、スパイの巣窟』の主演俳優だったジャン・デュジャルダンも『アーティスト』でアカデミー主演男優賞輝き、一躍世界的な名声を得ている。つまり、「知らない」「華やかさに欠ける」との揶揄は、時間の経過とともに全く異なる評価へと変化しているのである。それが、「まだ誰も観たことがない作品」による<新たな才能の発見>ということに東京国際映画祭が重点を置いている由縁とも言えるのだ。
※DVD化に際する邦題は『OSS 117 私を愛したカフェオーレ』
東京国際映画祭での受賞結果は日本での劇場公開に影響を与える
最後に、観客賞についても触れておきたい。東京国際映画祭でコンペティション作品を鑑賞する際、劇場の入口で観客に投票用紙が手渡される。観客賞はその評価の高かった作品に対して賞が贈られるのだが、観客が受賞結果に参加できるという点は大きな魅力であるように思える。今年の観客賞は、阪本順治監督の『半世界』(18)が受賞。地方の炭焼き職人の姿を描いた本作では、これまで誰も見たことがない俳優・稲垣吾郎の演技を目撃することができる。大作でもなく、決して華やかさだけではない映画だが、観客賞の受賞は、稲垣吾郎がみせる新たな魅力と、人生の機微を感じさせる物語の魅力を興行的にも後押しするに違いない。『半世界』は来年2月の日本公開が既に決まっているが、外国映画の場合、コンペティションに選ばれた時点で「まだ誰も観たことがない作品」であることから、映画会社に買付けられているということは殆どない。映画祭に足を運び、その評判を基に、映画会社は日本での劇場公開に向けて作品を買付けるかどうかの判断を下すからだ。
残念ながらコンペティション部門に選ばれた作品の大半は、日本では結果的に劇場公開されないという厳しい現実にある。監督も俳優も「知らない」、しかも馴染みのない国の製作であることは、興行的に成立させることを難しくさせる。例えば、無名俳優の出演する“台詞の一切ないロシア映画”に対して、観客の足を運ばせることは困難を極めるだろう。その点で、ロシア映画『草原の実験』(14)は、東京国際映画祭の最優秀芸術貢献賞など2冠に輝いたことで、日本での劇場公開が決定したという経緯がある。映画祭での受賞という<格付け>は、公開に繋がる要素のひとつだと言えるのだ。『草原の実験』でヒロインを演じたエレーナ・アンは、当時まだ“普通の女の子”だったという無名の女優で、芸能活動に対しても積極的ではなかったと伝え聞く。しかし、プロモーションで来日した彼女は、日本の観客の歓迎ぶりにとても感動したのだという。現在エレーナは、ロシアのテレビドラマに出演しながら、同時に日本の芸能事務所にも所属している。モデル活動のほか、日本のCMにも出演するなど、“普通の女の子”だった彼女の人生は、東京国際映画祭によって大きく変化したのである。
長い歴史を持つカンヌ国際映画祭に、東京国際映画祭が追いつくことは永遠に不可能だ。それは我々が様々な分野で、先人に追いつこうとしても同じようには追いつけないことと似ている。ならば、東京国際映画祭は東京国際映画祭のやり方で、映画祭を継続させてゆけば良いのではないだろうか。つまり、映画祭にも「それぞれの役割がある」ということなのだ。
出典:第31回東京国際映画祭公式プログラム