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思想・哲学をビジネスにするにあたって「ゲンロンがしないこと」は何だったか。東浩紀が振り返る『ゲンロン』の3年間【前編】
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  • 2019.04.01
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思想・哲学をビジネスにするにあたって「ゲンロンがしないこと」は何だったか。東浩紀が振り返る『ゲンロン』の3年間【前編】

批評家・思想家・作家として、そして出版社「ゲンロン」の代表(インタビューののち退任)として日本で類を見ない独自のポジションを築き上げてきた東浩紀氏。同社の事業の核として発行してきた批評誌『ゲンロン』が、東氏の単著『ゲンロン0』を含め3年間で全10冊を刊行し、第一期が終了となった。

このタイミングで東氏にインタビューを敢行し、『ゲンロン』3年間の振り返りおよび、今後の事業展開、そして作家としての東氏がどんなものを書いていくのかということをうかがった。

思想を外へ外へ開いていこうという東氏の試みは、ますます硬直化しつつある社会と言葉のありかたを問い直すものだろう。

前編ではゲンロンがこれまでの活動の意義を改めて本人に語ってもらうことで、今の広義の「カルチャービジネス」において何が足りないのかという点が浮き彫りとなった。

※この取材は2018年12月7日に行われたものです。

聞き手:矢野利裕 文・構成:神保勇揮 写真:松島徹

東浩紀

1971年生まれ。東京都出身。哲学者・作家。専門は現代思想、表象文化論、情報社会論。 東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。株式会社ゲンロン前代表、同社で批評誌 『ゲンロン』を刊行。著書に『存在論的、郵便的』(新潮社、第21回サントリー学芸賞)、 『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)、『クォンタム・ファミリーズ』 (新潮社、第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』(講談社)、『弱いつながり』 (幻冬舎)など多数。2017年刊行の『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)で 第71回毎日出版文化賞(人文・社会部門)を受賞。

批評好き、思想好きコミュニティの外へ打って出なければならない

―― 今回は3つのテーマでお話を伺いたいと思っています。1つは雑誌『ゲンロン』第1期の総括、これからの批評の在り方とは何かという話、そしてゲンロンの今後の事業展開とか東さんが今後執筆していくものはどんなものになるのかという話をいただければと思っています。まずは『ゲンロン』第1期の総括についてお聞かせください。

東:僕はもともとフランス現代思想というかなりマニアックなところからスタートして、その関係で批評や哲学をずっとやっているんですが、同時に若い頃から『クイックジャパン』とかで原稿を書いたりして、普通のカルチャー批評にも関わっていたおかげで「哲学や批評の世界は狭いんだな」と思っていたんですね。それを何とかしなきゃいけないと20年くらい前からずっと思っていて、最初は講談社とゼロアカ道場というのをやったり、NHK出版で『思想地図』を出したりしていた。

その延長でこのゲンロンという会社があって、会社自体は最初にコンテクチュアズという名前で2010年に創業(12年に現社名に変更)しているんですが、雑誌の『ゲンロン』ができたのは15年なんですね。雑誌を3年間やって思ったのは、一言でいうと「思想とか批評というのは今の延長線上でやってもこれ以上広がらないな」ということでした。『ゲンロン』は1つの柱として「現代日本の批評」という特集があって、今までの批評史を振り返るというのをやっていたんですが、昔は論壇みたいなものがあって批評や思想の核があったんだけど、今はそれが存在しない。つまり批評家とか思想家がいるんじゃなくて、批評的なこととか思想的なことをやっている、いろんなジャンルのクリエイターがいるという状態になってきているわけですね。

批評や思想を旗として立てることにあまり意味がなくなっていて、そういう旗を立てると、難しい文章を書きたいマニアックな若者が寄ってくるだけだというのがだんだん現実として見えてきたんです。僕の総括としては、こういう風に言うと否定的に聞こえるかもしれませんが、「批評とか思想の伝統を背負ってやれることはやったな」と。で、これから先は、もっと広い読者層、批評好き・思想好きのコミュニティ以外の世界で生きている人たちに届くような言葉というものを発信していく会社にならなければいけないなと思いました。大雑把に言うとそういう総括ですね。

―― 僕は東さんのことを「大衆」論者だと、個人的には思っています。『ゲンロン0 観光客の哲学』でも「大衆性」に触れられていました。今のお話と東さんやゲンロンの立ち位置の話と、ここで書かれている内容は密接に絡み合っていると思うんですね。具体的にここが関連しているという部分があれば教えていただけますでしょうか。

東:その部分について最新号である『ゲンロン9』の内容で言うと、すごくストレートに関わっているのは最初の共同討議「日本思想の150年」(苅部直+大澤聡+先崎彰容+東浩紀)かな。それはある意味今まで僕がやってきた現代日本の批評という枠組み自体を相対化するような座談会でもあって、そういう点で今まで自分がやってきたことをもう一段階上から俯瞰するような内容にもなっています。

2018年10月に発刊された『ゲンロン9』。「ロシア現代思想Ⅲ」、「現代日本の批評Ⅳ」、「ゲームの時代Ⅱ」という3つの小特集が組まれている。

あとは特集「ロシア現代思想Ⅲ」の冒頭で、「デラシネの倫理と観光客の哲学」(五木寛之+沼野充義+東浩紀)という鼎談をやってるんですが、五木寛之さんって小説の『親鸞』(講談社)などが有名なエンタメ作家として認識されているけれど、でもこの人はスタート地点としてソ連~ロシアに関心を持っていて、ベストセラー作家のある種の思想的な側面を発掘するというか、こういうことも考えているんだよという側面を取り出すということ、それもゲンロンの読者を広げるための1つのやり方ですね。

さらに言えば、うちはチェルノブイリツアーというのを年に1回やっていますが、参加する人は思想に関心があるからという人ではなくて、雑多な背景をもつ人たちなんです。その人たちに対して僕がやっているのは、このツアー自体を哲学的に体験するための導き役みたいなことなんですよね。人が生きているっていうこと自体が実は哲学的で、でも哲学的であるっていうことに気づくためには視点を変更する必要があるわけです。そういうことの手助けをするのがゲンロンという会社だと思っています。そのために本があったり、うちならカフェでイベントがあったり、もう少し深く入りたい人にはスクールを提供する、ツアーを提供したりしている、そういう会社だと考えています。

チェルノブイリツアーの模様。写真はオープン前に事故が発生してしまったため、一度も開園することのなかった遊園地にて。

今でも定期的に売れる哲学の本自体は登場していますけど、大体「哲学はこんなにビジネスに役立つんだ」みたいな内容です。それが悪いとは言いませんが、僕がやりたいのはそういうことではないんですよね。例えば「ニーチェがこう言った」っていう話がビジネスに役立つかと言えば役に立たないですよ。役立つわけがない。それ自体はひとつのビジネスのあり方なのでそういう本を出していいとは思うんですけど、本当はいろんな人がいろんなところで生きているという全体のなかで哲学的な気づきの瞬間があるんですね。そのなかで、あなたたちのやっていることは見方を変えればすごく哲学的なことなんだよと導いていくのがゲンロンのやる仕事だと思うんですね。

それとさっきの話は関係していて「哲学とか思想という1つのジャンルがあって、それがやりたいんです」という人は本当はわかっていないんですよ。哲学や思想が何かということが。うちは哲学や思想というジャンルをやっている会社だとまだ思われているので、そうじゃない会社だと認知してもらえるように脱皮していくのが今後の課題ですね。

ゲンロンは「人文好き」が支えている会社ではない

―― ゲンロンは立ち上げ初期から「ゲンロン友の会」という、雑誌『ゲンロン』の定期購読をベースにした有料の会員組織を持っており、ここまでおっしゃっていたように批評好き、思想好き、哲学好きみたいな人以外も集めていきたいと常々発言されていますが、今の友の会にはどんな方がいるんでしょうか?

ゲンロン友の会」のウェブサイト。雑誌『ゲンロン』の最速発送および電子書籍データ配布、ゲンロンカフェでのイベントの優先予約やキャッシュバック、上級会員専用のFacebookページへの招待など、さまざまな入会特典がある。年間1万800円(税込)から入会可能。

東:すごく大雑把に言えば男性7割、女性3割くらいかな。ボリュームゾーンが35歳くらいで、上は70代から下は10代まで。職業もバラバラですが、文系と理系は半々か、ちょっと文系が多いかなくらいで、IT系エンジニアがけっこう多いです。25%くらいいると思います。ゲンロンは、けっして人文書好きが支えている会社ではないんですよ。初期の頃からそうなんです。

―― 僕は実は、高校サッカーの監督をしています。それで、以前ゲンロンカフェで行われたイベント「サッカー批評の新たな地平を切り拓く!」(五百蔵容×速水健朗)に行ったんですが、これがすごく良かった。まず客層が多様なことが新鮮だったし、ここで速水さん、五百蔵さんがしゃべっていたことは、僕にとってはそのまま生徒に対する言葉として機能する、まさに批評の言葉だなと思ったんです。明日生きるための切実な言葉であり、明日生徒たちとコミュニケーションするための切実な言葉です。ゲンロンがそういう言葉を与えてくれる場所だとは漠然と思っていましたが、先日のイベントで心から実感できました。いわゆる思想・哲学好き以外にも刺さる、ああいったイベントがあることがゲンロンの面白さだなと。

東:ありがとうございます。矢野さんが挙げてくださったのは僕が出席していないイベントで、そういうふうに機能していると言ってもらえるのはありがたいことです。

ゲンロンという会社がよく誤解されるのは、「私塾やオンラインサロンみたいなことをやっているところでしょ?」と思われることなんです。この誤解はずっと変わらないんですよね。でも、僕がやりたいのは私塾やオンラインサロンではなくて、ゲンロンというプラットフォームの中でいろんな人たちがいろんなイベントをやる。そこである種の方向の管理をしているわけですよね。

それが結局、今矢野さんがおっしゃったような批評の言葉とか思想の言葉って一体何のためにあるのかっていうことで、なんとなく専門家が集まってしゃべるということはやめて、実際に生きている人たちに届く言葉を心掛けるようなプログラムを組んでいると。

批評再生塾でも、例えば映画監督の黒沢清さんを呼んで彼について批評を書かせる、そして本人に読んでもらうというプログラムを組んでいて、結局批評というのは実作者が読まなければ半分くらい意味がないので、それを読んでもらうという体験をさせているんです。

あと2018年は小松理虔さんという、いわき市小名浜のローカルアクティビストの『新復興論』という本を出版しましたけど、これだって小松さんは現代思想とかをやっていた人ではなくて、あるきっかけで知り合ってとても面白かったので、うちのメールマガジンで連載したのをまとめて本にしたものです。

ゲンロンによる単行本シリーズ「ゲンロン叢書」の第1弾として刊行された、小松理虔『新復興論』。著者はローカルアクティビストとしていわき市小名浜でオルタナティブスペース「UDOK.」を主宰しつつ、いわき海洋調べ隊「うみラボ」では、有志とともに定期的に福島第一原発沖の海洋調査を開催。そのほか、フリーランスの立場で地域の食や医療、福祉など、さまざまな分野の企画や情報発信に携わっている。

結局そこで書かれていることは「当事者の言説に凝り固まっていてはダメで、福島を観光のように訪れる中途半端なコミットメントが大事なんだ」ということで、そういう意味ではすごく共鳴しているし、そういう在り方をどういうふうに作るかがうちの使命なんですね。

これからもそういう方向をどんどん加速していこうと思っていて、結局まだ第1期では今までの人文書のイメージをどこか引きずっていたと思うんですよ。それをどこまで払拭できるか。そうガラリと変わるわけではないと思うんですが、そういう第2期を目指して行こうと思っています。

―― ゲンロンのビジネスとしての多様さということでいえば、『ゲンロン0』などにはボルボの広告が入っていて驚きました。これは先方が既存の出稿先、例えば男性誌とか経済誌みたいなコミュニティとは違う層に車をアピールしたいんじゃないかと勝手に思っていたんですけど、そういう気運を感じたりはしますか?

東:ゲンロンは「ボルボ スタジオ 青山」というボルボのコンセプトショップで「ゲンロンカフェ@VOLVO STUDIO AOYAMA」というイベントを月1ペースでやっているんですが、これと連動しているわけです。ボルボさんから急に声が掛かったものなのでビックリしたプロジェクトだったんですが、聞くところによると自動車メーカーは全世界的に単に車を売るんじゃなくてライフスタイルを売る方向にいっていると。だから郊外に車をいっぱい並べるだけじゃなくて、街の中にアトリエとかスタジオとかカフェみたいなものを作って、そこで文化イベントをやるということを各社がやっていて、ボルボもやることになった。

そこでオーダーをいただいたのは「ボルボ日本は少し尖ったものをやりたいので東に出てほしい」ということだったんですよね。そういう依頼が来ることは非常に光栄なことで、とても嬉しく思いました。

2018年7月30日にボルボ スタジオ 青山にて開催された高橋源一郎 × 東浩紀 「平成のおわり、文学のおわり」の様子

―― いわゆる人文系の出版業界以外からの反応や、ビジネス的なアプローチは増えてきているんですか?

東:全然ないです。ボルボさんは本当に例外だと思います。例外というか日本のメーカーはこういう文化活動にはお金を出せなくなっているんじゃないかな。ボルボさんは中国の浙江吉利控股集団(ジーリーホールディングス)傘下の企業になっていますが、やっぱり余裕があるんだと思います。

僕は他の車メーカーがどういうことをやっているのかは詳しくないけれど、このプロジェクトはボルボのマーケティング責任者から直接うちにアプローチしてきてくれているんですよ。担当者がアンテナの高い人で、ボルボにはそういう人がいるってことですよね。そこが素晴らしいと思います。

言説に多様性を生むためにこそ、独立した企業体でなければならない

―― ここからは、これからの批評の在り方とは何かという話に移りたいと思います。僕がずっと考えているのは「言葉の身体性」についてです。自分は教員なので授業中に寝そうなヤツにどう興味を持ってもらおうだとか、実際にどんな声の大きさが良いのかとか、同じ内容を話すにしてもどういう身振り手振りでやるのかといったことが教壇で常に問われている感じがあります。ただ最近のリベラル言説などをみていると、内容の正しさにはとくに異論がないものの、「この内容の『正しい言説』はこういうものだろう」というテンプレートみたいなものをなぞっただけで何かを言ってしまえているようにどうしても感じてしまうんです。そこには、身振り手振りのような身体的な試行錯誤がない。

東:大事なのは、難しい言葉をしゃべること自体にはあまり意味がないと気づくことなんですよね。それってただの技術競争なんですよ。サッカーに例えればリフティングがすごくできても、ゴールを決められなければ意味がないじゃないかというような話ですね。

ただ若い人たちはとにかくリフティングが好きなんですよ。本当にそう。難しい本を読んで難しいことを書いていると偉い、俺は頭がいいということをやりたい人たちが一定数いる。それは困ったものだなと。とはいえリフティングがまったくできないのも困るんですけどね(笑)。

そこでゲンロンの特徴というところに引きつけると、これもあまり指摘されないですが、例えば「安倍政権は絶対ダメだ」みたいな悪口を言って笑う空間があるわけです。でもゲンロンはそうなってないと思うんです。反安部と安倍支持の人が半々くらいの率で来ているから、「安倍政権は~」という批判で必ず笑うようになっていない。そういうことも気をつけながら運営しているというか、僕自身も気をつけている。

―― 聴衆に必ずしも反安倍じゃない人がいると常に思いながらやっているということですか?

東:そうです。日本のリベラルの人たちは、Twitterでも新聞のインタビューなんかでも、とにかく「安倍政権が悪いんだ」と言っておけば一定数の支持者が得られて安心できる。でもゲンロンはそうしたくない。そういう自制が結局お客さんの多様性を生むことにつながると思うんです。

そもそも、僕自身が会社をやっているので「安倍政権になって労働者は苦しむばかりだ」という意見について、一方でなるほどそうかもしれないと思うけれど、でも株価が上がることでゲンロンカフェの客も増えているような気もする。いろんな見方が出ますよね。

―― 以前、ゲンロンカフェで行われた「東浩紀×上田洋子「『哲学的体験』としてのダークツーリズムーーチェルノブイリツアーのアクチュアリティ#2」という、チェルノブイリツアーの報告や現在のウクライナ事情について語るイベントにうかがいましたが、衝撃だったのが原発の話は全体の3分の1以下で、かなりの時間をクリミア危機・ウクライナ東部紛争、つまりウクライナとロシアの紛争について割いていることでした。いま世界で実際に起こっている殺し合いの大半は資本主義VS共産主義、あるいは既存の右翼・左翼の対立ではないですし、先進国でよく言われる資本家と労働者との対立でもない。どちらも別個の問題であると言えばそれまでなのですが、ただニュースなどでも見聞きしているはずなのに、こっちは自分の頭から抜け落ちてしまっていたなと痛感した体験でした。

東:問題は、インテリが実際の現実というのと接触しなくなっていることだと思います。接触すればどっちが良くてどっちが悪いとは簡単に言えないっていうことがすぐわかるはずなんですが、今はジャーナリズムも弱くなっているし、人々はネットの情報だけを集めて○か×をつけて満足するような世界になっている。そういう中で僕としてはできるだけ人と人が会って話すような場所とか、人が現実に触れる場所を作りたいというのが、このゲンロンなんですよね。そういうのに尽きている。

あとはそれをどう実現するかという時に、普通の組織だったらそんなのはビジネスとしてはペイしないはずなので、国や公共機関から補助金をもらうという話になるわけです。うちはそれをやらない。税金が原資となっているお金を少しでももらったら、アンチは必ずそこを突いてきますからね。スポンサーに嫌がらせをするというのがアンチのやり方ですから。だからそれは嫌だなというのと、あと、同時に補助金をもらって運営するとなると、構造的に「ヌルい左翼」みたいにならざるを得なくなっちゃうんですよ。

たぶん「補助金をもらっているから、資本主義社会ではペイしないような企画をあえてやらなければいけない」という意識が働くんじゃないでしょうか。必然的に政治的なコンテンツが多くなるし、かといってそんなに過激だったり下品なことはできない。やれることが結構決まっちゃうんですよね。今は演劇や美術のかなりの数が補助金で回すようになっていますけど、ああいう世界のつまらなさがあるとすれば、そこに起因すると思います。

資金をどこから手に入れるのかということが少なからず内容も規定するなと思っていて、うちの場合は何とかそれを一応客商売としてやろうとしているのがあって、それがゲンロンのコンテンツの特異性、ある種の通俗性みたいなものとか政治的な広がりを生みだしているんだと思いますね。

「哲学的エッセイ」の効用

―― 「ゲンロンのコンテンツの特異性」という話でいうと、『ゲンロン9』まで全6回が連載されていた、タイの小説家のプラープダー・ユンさんの「新しい目の旅立ち」がすごく好きです。彼が旅行に行って写真を撮った時にエッセイですけど、現実から離れた哲学的な話もありつつ、その2つのぶつかり合いの中で出る言葉が面白いなと思っていました。こうしたテキストはどんな経緯で、何を意図して載せているのでしょうか?

東:プラープダー・ユンは僕より2歳くらい下で、小説にイラストに映画にとマルチに活躍しているタイプの人なんです。彼が僕の『一般意志2.0』を読んでいて、来日した時に対談することになったのが最初の出会いですね。ポストモダン系の小説を書くんですが、今日本ではあまり書かれなくなってしまった哲学的エッセイと言えるような文章も書いていて、ぜひ『ゲンロン』でも掲載したいということで、連載を翻訳している福冨渉さんというタイ文学の研究者につないでもらいました。

―― 旅をするんだけど単なる疎外論的な図式で都市批判をするのではなく、都市の人間としてそこで生きていたいながらも逃げ続けてきた感じがすごく良かったです。

東:日本では哲学者がエッセイを書けなくなっているんですよ。エッセイってある意味非常にゆるいものなんですが、今の特に文系の学者は学術論文を書くか、そうじゃなければいきなり社会問題に関する記者会見ですよね。すごく堅いわけです。

学問ではエビデンスを追求しなければいけないし、社会に出てきたと思ったら、こんどは「これは絶対に正義です」「断固許すことはできません」みたいな話しかしない。何だかなって。やっぱり僕は、基本的には哲学や思想って人の頭を柔らかくするものだと思うんですよね。人々が日常生活で緊張している中で、哲学書や思想書を読んで「こういう考え方もあるんだ」「少し気が楽になったぞ」と思うのが基本的な機能。なのに現実はすごく遠く離れているんですよ。僕はそれが本当におかしいと思っているんですよね。

だからそういう点でも僕は、さっき「哲学は役立たない」と言ったけど本当にそうだと思っていて、やっぱりビジネスのために通勤時間を使って哲学入門書を読むのは使い方として間違っているんですよ。哲学書は、読んだら「そもそも通勤なんてしないでいいのでは?」と思ってしまうようなものであって、読み終わったあと学びを使ってバリバリ働いたりするようなものではないんですよ。そういう点でも哲学とか思想の役割が誤解されている。

ただそれはみんなが忘れちゃっているだけで、古来哲学には頭を柔らかくする機能が求められてきた。それは社会が変わったからといって変わらないし、別に今の日本でもそういうことを求めている人は多いはず。したがって、ある形でちゃんとプレゼンテーションすれば、ちゃんと人は集まってくるというのが僕の考えなんですね

ただ哲学とか思想に対する「堅いイメージ」は非常に強いので、油断するとそちらにズルズルと引きずられちゃう。人もそっち側の人が集まってくる。だから何回も脱皮していかなきゃいけないんですね。「うちはそういうものじゃないです」って何度も言い続けなきゃいけない。そこがちょっと大変なんだけど、その軸さえずらさなければ、それなりのポジションは維持できるのかなと思っていますけどね。

―― 自分語りになってしまうんですが、自分の職業である教員はなかなかブラックでして、朝は早くて帰りも遅い、毎日家に帰って30分後に寝なきゃいけないみたいな生活だったりもします。では、その30分間で何を読もうかと考えた時に、頭に入ってくる読書と入ってこない読書があります。例えば、文芸批評家にあるまじきことですが(笑)、純文学系の小説は疲れるから入ってこないんです。学術書も無理。一方で東さんのおっしゃるような哲学的エッセイは良い。社会に疲れた頭がちょっとほぐれて、「明日もがんばろう」となれる。そういう文章を自分も書きたいし、求めている。例に挙げたゲンロンでのサッカーのイベントにはちょうど期末テストを作り終えてから行ったんですが、日常生活とは違うところの頭が活性化して元気になった思いでした。そういう体験ができるところはどこかなと求めているところがあります。

東:原点を忘れているんですよ、今の文系知識人は。今は大学の文学部も色々言われていて、社会の中で自分たちの存在意義を証明するために一生懸命ですよね。そのために学術論文も理系みたいにしっかり組み立てようとか英語で発信しようとか、政治的な発言も積極的にしていくんだということになっているんだけど、その結果、本来文系知識人が持っていた「頭を柔らかくする機能」というのがどんどん失われている。それは自滅行為だと思います。

僕は、知識人というのは、みんなが分断しかけている時に「まぁまぁまぁ」とやるのが役割だったはずだと思うんですよ。


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