LIFE STYLE | 2022/12/31

2023年を本当に「新しい戦前」にしないためのヒントを「オトナ化する韓国」に見る

【連載】あたらしい意識高い系をはじめよう(37)

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倉本圭造

経営コンサルタント・経済思想家

1978年生まれ。京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感。その探求のため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、カルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働く、社会の「上から下まで全部見る」フィールドワークの後、船井総研を経て独立。企業単位のコンサルティングで『10年で150万円平均給与を上げる』などの成果をだす一方、文通を通じた「個人の人生戦略コンサルティング」の中で幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。著書に『日本人のための議論と対話の教科書(ワニブックスPLUS新書)』『みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか(アマゾンKDP)』など多数。

日本漢字能力検定協会が毎年発表する「今年の漢字」、2022年は『戦』だったそうです。

また、年末のテレビ番組『徹子の部屋』で、タモリ氏が2023年は「新しい戦前」時代になるのではないか…といった発言が物議を醸してもいました。

確かに2022年を振り返ってみれば、勿論実際にウクライナで火を吹いている戦争や米中間の一触即発のやりとりだけでなく、SNSを開けば常時政治的立場の違う者同士の交わらない『戦』が世界中でずっと続いている年であったとも言えます。

この『戦』の傾向はもうこの5〜10年ぐらいずっとエスカレートしてきた風潮ではありますが、今年はさらに一歩踏み込んで引き返しようがない次の段階に入ってしまったと感じている人も多いのではないでしょうか。

そんな2022年の年末を飾り、2023年以後に何かしらの希望を感じ取っていくための記事として取り上げたいのは、インターネットで人々が一瞬で結びつくようになった世界では見かけ上の『戦』があちこちに見られるようになったけれども、一方で水面下には、それ以前とはぜんぜん違う「本当の相互理解」も進んでいるのだ…という話をしたいと思っています。

1:ネットの結びつきは争いの種ではあるが、それ以前とは全然違う相互理解も高まってきている

韓国に住む日本人や、仕事を通じて韓国と関わってきた人、および在日韓国人などの有志が編集している『中くらいの友達ー韓くに手帖』という不定期刊行の雑誌があります。

創刊したのはTwitterを通じて知り合ったフリーライター・翻訳業の伊東順子さんという方で、今年11月に最新号のVol.11が出たということもあり、手に取って読んでみたのですが、なんだかほっとする読後感で、果てしなく攻撃しあってきた日韓関係の成熟と、未来における和解の可能性を感じさせてくれる本でした。

「中くらいの友達」という雑誌名は、こういう表現が韓国語にあるのかもしれませんが、「最高でも最低でもない、韓国との“中くらい”の友情のかたちを探る」という思いが込められているそうです。

お互いの情報が大量に手に入る時代になり、今までのように一方的にお互いの幻想を押し付け合うようなものではない平熱の関係=「中くらいの友達」関係が育ってくる。このコンセプトは非常に素晴らしいなと私は思いました。

今のようにインターネットを通じてリアルタイムの情報が大量に流れ込んでくる時代になるまで、「外国」という存在は大勢の人にとって神秘のベールに包まれていて、関わっているほんの一部の人が一般大衆の幻想を吸い上げて結構イビツなストーリーを作り上げてしまいがちでした。

具体的には、その外国を「敵」として、あるいは「劣った存在」として見下して描くか、逆に過剰に美化し、自分たちの国を卑下する(あるいは現状を攻撃する)材料として使ってしまうか、どちらかになってしまうことが多かったですよね。

しかし今や外国に行く人も全然珍しくなく、ましてや国内旅行より短距離で行ける地域もある隣国ともなれば、メディアを通じた情報ではなくリアルで直接的な体験を沢山の人がしているはずです。

もちろん、前時代的な「両極端なストーリー」は今でもSNSに溢れてはいますが、徐々に等身大で平熱の、本当の相互理解が立ち上がってきているようにも思います。

『中くらいの友達』には、日韓の間で暮らす色々な人達の悲喜こもごもな手記が、特にテーマに絞りすぎずにただただ並んでいます。

そこには、韓国を敵視・蔑視する視点がないのはもちろん、韓国を過剰に美化して日本を卑下するような文章もありません。

実際に現地社会で暮らしたり、あるいは仕事で深く関わってみれば、そこには良い部分も悪い部分もあり、どこにも理想郷などないことが理解できるようになります。

しかし、そうやって「幻想」が剥がれ落ちたからこそ、その先で本当にリアルな相手の実情を理解し、その良い部分を見習い、自分たちにはない発想のあり方に刺激を受けることも可能になる。

『中くらいの友達』には、そういう本当の相互理解が徐々に育ってきている希望を感じさせる“平熱の気分”が素直にそのまま表現されている感じでとても良かったです。

キャッチーな政治的論点を押し出した刺激的な内容からは距離を置いた、個人の素直な手記のようなものから人それぞれの人生模様に触れるのが好きだという人にはとてもおすすめできる雑誌だと思います。

2:「中くらいの関係」の蓄積が幸薄い論争をリアルな議論に変えていく

近年、SNSでは日本語のできる韓国人も含めて幸薄い罵り合いが常時続いていますが、それがあまり意味のある方向に行かないのは、すべてが党派的な争いに巻き込まれてしまうからなんですね。

数日前には、日本で暮らす韓国人が「韓国ならスマホで一瞬で終わるような手続きが、日本ではあちこちの窓口に行かされるので不便だ」という話をツイートして論争になっているのを見かけました。

実際、韓国のこういう手続き関連その他におけるIT化は世界的にも進んでいる方なので、比較すれば日本の役所の手続きが非常に不合理に見えるのは自然なことだと思います。

こういう論争が巻き起こるたびに、「韓国でできているコレを日本でもやるにはどうしたらいいんだろうね?」という方向に展開できれば日本はもっと良い国になるはずですよね?

そのためには、「そこに違いが生まれている理由」を掘り下げて理解することが必要ですが、今はそこが「韓国はやはりすごい。日本は自民党の老人どもに支配されているからダメなんだ」みたいなネガティブキャンペーンの材料に使われ、党派的な争いごとに巻き込まれて“本当の理由は何なのか”の議論が吹きとんでしまいがちです(自民党政権じゃなかった時期だって別にこういう問題がそこまで進展したわけではないですよね)。

韓国では1990年代なかばごろから、日本で言うところのデジタル庁的な役割を果たすNIA=知能情報社会振興院(発足は1987年で当時の名称は情報社会振興院)という半官半民の組織が強力な権限を持って一元的に政府のIT化を進めています。

この組織には、ITの専門家だけでなく行政や法律の専門家もかなり所属していて、「紙の時代の法律」をそのままIT化すると非常に煩雑なことになりそうな制度があるなら、“法律の方を変える”ように働きかけることで効率化を実現しているそうです。この発想は今後の日本でもとても重要になるはず。

そもそも、日本では大紛糾して少しずつしか普及していないマイナンバーにあたるIDが1970年頃から国民全員に強制的に付与されていることも大きい。

SNSにおける議論がバカバカしいのは、「韓国はこんなに便利な制度があってすごい。日本はもうダメだね」と言ってる人が、次の日には日本のデジタル庁やマイナンバー制度にめちゃくちゃ反対していたりするからなんですよね。

いやいや、いったいお前はどうしたいんだと。

とはいえ、個人情報に対するセンシティブさが日本人と韓国人の間でものすごく違うこと自体は確かです。韓国で暮らす日本人が、病院がワクチン接種歴が確認できたり、銀行が出入国管理情報を確認できたりすることにかなり居心地悪い気持ちになっている話などをよく耳にします。

そのあたりで、「今の日本の政権へのネガティブキャンペーンのためだけに内容の細部などおかまいなしに、韓国を褒めて嘆いてみせる」ではなくて、そこに至った経緯や両国の事情の違いなど詳細を理解した上で、「日本の場合でも受け入れられるちょうど良い制度設計とはどういうものか?」というリアルな議論に誘導していくことができれば、今の幸薄いSNSでの罵り合いは急激に意味があるものになっていくでしょう。

韓国でも、NIAが2000年代に地方も含む行政システムの一元化を進めていた時期はものすごくモメたそうですが、韓国と違ってそもそも「トップダウン」にアレルギーがありがちな日本では、さらに丁寧に一つずつ障害を取り除いて、役所同士の連携を作り、役人が制度設計をする段階でIT化を見越した内容にするよう習熟させていくような試みが必要になるでしょう。

韓国の今の制度が便利なのは、軍事独裁政権時代に問答無用で導入された、国民全員の管理番号があるというアドバンテージがあり、20年以上前からNIAが必死に積み上げてきたものがあるからです。

その長年積み重ねられた彼らの努力に敬意を払うなら、2021年に発足したばかりの日本のデジタル庁が今日明日出した成果が韓国と同じレベルにできなくてはいけないと考えるのは、むしろ韓国人の能力や努力を侮っている失礼な発想と言えるのではないでしょうか?

デジタル庁は「中央集権的なIT化に必死に抵抗する1億数千万人」を相手に少しずつ少しずつ新たな取り組みを浸透させていく困難な試みを続けており、実際、確定申告が電子化されたり(これは現場レベルの作業を劇的に効率化したと好評です)、ワクチン接種証明がアプリ化されたり、地味に成果は出ています。

ちょっと前はUSBメモリも知らない老人がIT担当大臣だとか馬鹿にされていましたが、今のデジタル庁はメガITベンチャーの最高技術責任者だった人が中心人物となり、人材採用も非常に柔軟な形で行うなど、本腰の入れ方が段違いです。

国民全員へのナンバー付与がなく、トップダウンに強烈なアレルギーがある国民性で、地方行政も分権化が進んでいるというIT化へのハンデだらけのこの日本で、なんとか横串を通してIT化を進めようとしているデジタル庁が、現時点では時々多少アホっぽい失敗をやらかしてしまっても、それはむしろ応援してやるべき時期だと思います。

「中くらいの友達」的な成熟が積み重なることで、幻想まみれに全肯定したり全否定したりする罵り合いではなく、日本側が今やっている試みを理解した上で、それを改善するための噛み合った議論ができるようになっていけばいいですよね。

実際、海外在住者の扱いが制度の狭間に落ち込んでしまって非常に困っているなど、マイナンバー制度自体に反対ではないにしろ実際の運用の細部で改善すべき点が沢山あることはよく指摘されています。

そういう実際面における細部の議論を、「大声の党派的罵り合い」でかき消してしまわないようにしていくことが、これからの時代の「成熟」のあり方だと言えるでしょう。

3:どんどん“オトナ”になる韓国(の一部)、幼児化する日本(の一部)?

この「中くらいの友達」の成熟に対して、国民性的には、極端から極端に振れがちな韓国人より日本人の方が向いている部分があったように思う人も多いかもしれませんが、最近はそうとも言えないところもあります。

例えば韓流ドラマは2017〜19年ぐらいにかけてすごく雰囲気が変わったと私は感じています。

2017年ぐらいまでは「絶対善の俺たち」と「絶対悪のあいつら」的なプロパガンダ構造が強すぎて、政治的に「同じ党派」の人しかなかなか共感しづらいものが多かった。

さらにもう少し古い韓国映画を観ていると、日本統治時代の話で、それまで主人公たち(韓国人)とニコヤカに話していた日本軍の将校が、ちょっと運んでいた水がかかっちゃったぐらいのことで単なる通行人の女の子をいきなりバーンと銃殺して、カタコト日本語で演じている韓国人俳優が、

「(死体を)カタヅケテオケ!」

っていうシーンがあって、「韓国人はこれ見てフィクションだってわかってんのかな?」って猛烈に不安になったんですよね。本当に日本統治時代の全部が全部そんな政治だったと思ってるんじゃないかと。

そういうのに比べたら、2019年の映画『パラサイト』で、パーティの机の並べ方をどうするかって話をしているシーンで突然「李舜臣将軍が豊臣秀吉軍を叩きのめした時のような鶴翼の陣形にするのだ!」って恍惚と述べるキャラクターとか、明らかにちゃんと「ギャグ」として客観的に見られるようになっていて、「政治的に同派閥」以外の人でもちゃんと観られる作品になっている。

それでも、『イカゲーム』の“ソウル大学主席”氏とか、『梨泰院クラス』の“長家”の人たちのように、「主人公たちがまごうことなき“善”であるために、とにかくただただ“悪い”敵が出てくる」構造が韓流ドラマの特徴としてはあって、個人的にはそこが苦手だったのですが、最近はそういう構造も超えてきている感じではあるんですね。

上記のような話をしていたら、韓国語もできる日韓ミックスの友人が

いやいや、最新の韓流はもっと先に行ってるぜ。過去の作品と比べるとあまりに違っててびっくりするからNetflixドラマの『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』をぜひ観るべきだ

…と教えてくれたので観てみたんですが、ほんと名作でびっくりしました。

過去の「韓流的構造」を軽々と超えるような新鮮なストーリーで、2022年の韓国で文句なしのナンバーワンヒットドラマであり、Netflixでの世界視聴も好調というのもわかる感じがします。

このドラマについては以下のツイートから連続ツイートで感想を述べているので、ご興味があればそこからリンクしているnote記事も含めて読んでいただければと思います。

一話完結で色々な社会問題が出てきて法律議論に持ち込まれるんですが、どれもイデオロギー的に一方向的に断罪して終わりでなく、いろんな人間が生きているこの世界で「理想と現実の適切なバランスがどこにあるのか」を粘り強く探るような感じがあってとても良いです。

あらゆる「イデオロギー党派性」で絶対善や絶対悪を作るのではなくて、社会全体においてあらゆる他者を、まさに「中くらいの友達」としてありのまま理解し、その上で理想を失わずに解決していこうとする姿勢に非常に感銘を受けたんですね。

韓国政治は日本と変わらないかそれ以上に党派争いが激しいようにも見えますし、SNSでは日本の「嫌韓ネット右翼さん」を鏡で反転させたような韓国人も結構いるので、最近の韓流ドラマを見ていると「こんなすごいものを作る人は隣国のいったいどこにいるのかな?」という気持ちになりますけど(笑)。

それぐらい、ここ数年の韓流コンテンツのクリエイターの中にはすごい良識を持った人たちがいるらしいという感じがしています。

一方で最近の一部の日本の左派系映画やドラマは党派的にアナクロな、というか「悪役がなぜ悪になってしまうのか」という社会的背景の描写が薄すぎる結果、小さな悪の積み重ねではなく巨悪が何もかもを差配しているのだという陰謀論的世界観に片足を突っ込んでしまうストーリーが散見され、それを「今まさに起こっている政治の腐敗をよくぞ描いてくれた!」などと内輪だけで褒めあっているような幼児化が起きているような感じがして、そこはかなり憂慮しています。

4:双方の「中くらいの友達」成熟さを持った勢力の存在がカギとなる

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ただし、そういう陰謀論的な世界観の作品を内輪で褒めあっている現状に「これではいけない」と思っている人たちが(いわゆる“日本の左派”の人々の中でも)最近は多いことも大変大きな希望です。

逆説的なようですが、今後「世界が戦争に近づく」につれて今までのような自己満足的な党派争いのためだけの無内容な議論の投げつけあいでは機能不全になってくることによって、「もっとリアルな議論をしなくては!」という切実なニーズに私達は直面しはじめるでしょう。

その情勢変化の中で、機能不全化した「絶対善VS絶対悪」世界観を超えていくための、成熟した「中くらいの友達」的な関係性が日韓両国において形成されていけば、いまだに紛糾が続く日韓関係の未来にも新しい着地点が見えてくるはずです。

日韓関係を一例にとるなら、米中冷戦時代の現在、中国近傍における自由主義国家サイドの重要国である両国関係が、あるレベル以上に悪化するわけにはいかない切実な事情があるので、何もしなくてもそれなりの小康状態は保たれるだろうとは思います。

ですが「それ以上の改善」を求めるなら、両国間の歴史問題に対する新しい視点の共有が不可欠になるでしょう。

結局、「日本が韓国に対して何も悪いことはしていない」と考えている日本人はそれほど多くないし、歴史の流れの中で色々と屈辱的な思いをさせたことに対して謝罪したい気持ちは多くの人が持っている。

しかし一方で、昔の韓流ドラマによくあったような

「主人公が文句なしの完全な善であるために、噛ませ犬としてとにかく隅から隅まで“悪”である敵が出てくる」的な構造

…で日本の過去を扱うような論調に、日本人が付き合う義理もない。

当時の容赦ない帝国主義時代の風潮の中で、日本人の必死の抵抗なしに、今のように欧米と非欧米が少なくとも形式上は対等な扱いを受けられる構造には決してならなかったであろうことは明らかで、そのあたりの「日本人が果たした役割」を全否定するような構造になっているストーリーは、そこにある人間社会の真実をイデオロギーで塗りつぶしてしまっているところがあるんですね。

欧米人が最初からそんなに「紳士的」な顔をしていて、非欧米人が武力的抵抗力を必死に示すことなしに今のように少なくとも形の上での理想主義的平等の建前が実現したはずはないわけで、そこにある「真実」を無視し続けると、そこにある「隠れた欧米文明中心主義」ゆえに、今後の多極化時代には本当のグローバルレベルの合意形成を完成することはできない。

しかし、それは別に「大日本帝国がアジアの植民地を解放した」とか、「日本の旧軍は何も悪いことをしていない」ということを意味するわけでもない。

この「2つの両極端なイデオロギーの中間」に「本当のリアリティ」は存在していて、それを「中くらいの友達」的な成熟した視点で掘り出すことができるかどうかが問われているのです。

これは「大日本帝国をナチスのように断罪しきることが善」という20世紀的な世界観からは随分と踏み越えた事を言っているように感じられるかもしれませんが、しかしここに踏み込むことこそが、ウクライナとロシアの戦争の収束の見通しが立たず、米中冷戦が第三次世界大戦になりかねない21世紀の「今」こそ必要なパラダイム転換なのです。

大日本帝国が末期には色々とコントロール不能になるほどの「必死さ」がそこに注ぎ込まれなくてはならなかった「理由」は、真空空間から日本民族の「邪悪さ」として突然無意味に現れたわけではありません。

そういう言説には全力で最後まで抵抗する権利が日本人にはあるし、それを無視した言論は、そこに内在する「罪」ゆえに今後も決して「人類社会の半分」以上の合意を取り付けることはできないでしょう。

ありとあらゆる「罪もない(ことになっている)個人」が全人類分押し合いへしあいをして、玉突きに辺境に無理を押し込む結果として当然巻き起こるバックラッシュに対して、その「罪」は一民族ではなく人類全体で背負っていかないと、今後の世界では戦争抑止など決してできない。

そこで「現行の欧米的理想と正義」を世界全体に受け入れてもらいつつ、同時に「受け入れさせられる側」の意地やプライドをいかに抱きとめ、共通の世界秩序の中に共存させられるかどうか。

大枠では罪を認めている多くの日本人の「最後の意地」の部分も包摂できなくて、どうやって私たち人類社会は、合計15億人を超えるロシアや中国の人々の気持ちを「国際社会」に繋ぎ止めることができるというのでしょうか?

そのことを真剣に考え、20世紀的な紋切り型で絶対善VS絶対悪のレッテルをぶつけあう空理空論のバカバカしさを、「中くらいの友達」的な成熟の中に置き換えていくべき時が来ているのです。

韓国社会も、つい数世代前まで軍事独裁政権だったから残っている社会の絆のようなものがまだあるから、どんなことでも「K-○○」と誇っていられる連携が社会の中に一応残っていますが、これがもう少し世代が下れば何から何まで幻想の中にしかない欧米的理想を持ってきて、既存の韓国社会を全否定するだけで自分では何も生産的な貢献をしないタイプの言説を止められなくなってくるはずです。

「韓国の政府ITを褒め称えた次の日に日本のデジタル庁やマイナンバー制度に大反対する日本人」みたいなタイプの論調を止められなくなると、どこか国粋主義っぽい気分も用いながら現実的舵取りが吹き飛んでしまわないように守る必要も出てきてしまう。

中国やロシアなど「欧米社会から見れば辺境」において強権的な政体が必要とされるのは、欧米とそれらの社会の間とのブランドパワーの差が大きすぎて、ローカル社会固有の課題に向き合わずだんだんと上から目線で否定するだけの論調を止められなくなるからだと私は考えています。

人類社会における「欧米」のGDPシェアが下がり続ける今後の世界の中では、ロシアや中国、中東などを絶対悪として否定して西側陣営を善とする20世紀イデオロギー的ムーブメントはどんどん通用しなくなっていきます。

結果として、「理想を諦めはしないが、純粋化した観念で生身の人間を殴りまくることの無意味さも知り尽くしている」ような「中くらいの友達」的な良識を社会の中で共有していくことは、それなしでは人類は第三次世界大戦を避けられないというレベルで重要になっていくでしょう。

社会のあらゆる存在が「中くらいの友達」としてそれぞれのメンツを全否定されずに共存できるようなアジア的良識によって、前世紀の遺物のようなイデオロギー的極端さを置き換えていけるかどうか。

その先に新しい日韓関係、SNSでの言い争いの建設的転換、そして世界の安定に向けた着地点も見えてくるでしょう。

この記事にご興味を持たれた方は、先程も紹介した『ウヨンウ弁護士は天才肌』の先進性に関する記事や、

『今際の国のアリス』と『イカゲーム』という、同じデスゲームジャンルを扱った日韓のヒットドラマを比較することで、両国の国民性の違いを「人災メンタリティ」と「天災メンタリティ」というキーワードで分析した以下の記事

などが好評をいただいているので、よかったらまずは連続ツイート版の要約だけでも読んでいっていただければと思います。

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