EVENT | 2022/03/02

スマホ市場は「Apple対Google」以外の歴史もありえた?黎明期の携帯端末競争【連載】サム古川のインターネットの歴史教科書(6)

写真左はフューチャー株式会社のトップであり東京カレンダーのオーナーでもある、金丸恭文さん。日本のIT業界の先駆者。写真右...

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写真左はフューチャー株式会社のトップであり東京カレンダーのオーナーでもある、金丸恭文さん。日本のIT業界の先駆者。写真右はデジタルハリウッド大学の杉山知之学長

古川享

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1954年東京生まれ。麻布高校卒業後、和光大学人間関係学科中退。1979年(株)アスキー入社。出版、ソフトウェアの開発事業に携わる。1982年同社取締役、1986年3月同社退社、1986年5月 米マイクロソフトの日本法人マイクロソフト株式会社を設立。初代代表取締役社長就任。1991年同社代表取締役会長兼米マイクロソフト極東開発部長、バイスプレジデント歴任後、2004年マイクロソフト株式会社最高技術責任者を兼務。2005年6月同社退社。
2006年5月慶應義塾大学大学院設置準備室、DMC教授。2008年4月慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科(KMD)、教授に就任。2020年3月慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科を退職。
現在の仕事:N高等学校の特別講師。ミスルトウのシニア・フェロウ他、数社のコンサルティング活動
http://mistletoe.co
Think the earth, NGPFなどのNPO活動
http://www.thinktheearth.net/jp/
https://www.thengpf.org/founding-directors/

聞き手:米田智彦 文・構成:友清晢

スマホ黎明期に日本企業はどう動いたか

Twitter日本上陸時に行われた先導者たちのオフ会。写真左はKNNの神田敏晶さん。ネット中継による突撃インタビューをイベント会場から実施!写真中央は故飯野賢治さん。ゲーム『Dの食卓』の監督・脚本を務め、第2JASRACの提案など論客としても活躍した

現在は見事なまでにAppleのiOSとGoogleのAndroidOSに二分されるスマートフォン市場だが、ここに日本企業、つまり和製OS参入の余地はなかったのかというのは、今なお頻繁に議論されるテーマである。

日本でいえば、やはりiモードの登場(1999年)がこのジャンルにおけるひとつのエポックだろう。そしてiモードに搭載された、HTMLで記述されたウェブページを表示できるブラウザを開発したのは、株式会社ACCESSだった。

ACCESS創業者の荒川亨さんという人物がまたキレ者で、単にこうしたWEBツールを開発しただけでなく、たとえば巷の飲食店に営業をかけ、iモード上でグルメ情報を展開するという、サービス面での開拓まで早い段階から手掛けていた。今日のインターネットの使われ方を見れば、いかに先見の明があったか窺えるだろう。

ちょうどその頃、グルメ情報誌を多数出版していたぴあ株式会社が、「ぴあレストランガイド」部門を畳むことになり、これをそのまま買い上げたのが株式会社ACCESSだった。当時レストランに取材する段階から、店内の様子や料理の写真、取材内容を雑誌の掲載だけでなく、ネットで配信するWebコンテンツとして提供する許諾を取材時に各店舗から取り付けていた。紙とネット配信をターゲットにしたハイブリッドメディアの登場である。なお、この流れから生まれた子会社がアクセス・パブリッシングであり、そのアクセス・パブリッシングが後に創刊するのが『東京カレンダー』である(2010年創刊。現在の発行元は東京カレンダー株式会社)。

実業家として成功を収めた荒川さんがその後、BlackBerry OSを買収していることは、今では知る人は少ないかもしれない。BlackBerry とは1996年にカナダのブラックベリー社が開発した携帯情報端末で、小さな筐体にキーボードを備えたオリジナリティあふれる端末だった。

スマートフォンの祖先と言っても差し支えのない端末で、実際、2010年にはアメリカでシェア37%に達するほどの隆盛を見せたものの、結局はiPhoneやAndroidの勢いに飲まれてしまい、今ではAndroidOSを搭載する1ブランドに成り下がっている。

では、荒川さんはBlackBerry OSを手に入れて、何をやろうと考えていたのかというと、日本語処理やインターネット接続など複数の機能を片っ端からマージし、新たなスマホ・プラットフォームを構築しようとしていたのである。いま振り返ってもこの構想は素晴らしく、事情を知る業界の誰もが、日本のスマホの未来は荒川さんと事業パートナーの鎌田さんを中心に創られていくことになるのだろうと予感していたものだ。

ところが、iPhoneがリリースされ、その他のプラットフォームが複数走り始めると、スマホを取り巻く環境は急速に混沌とする。

ISDNで3000店舗をつないだPOSシステム

そんな過渡期の激しい流れの中で、ACCESSをアクシデントが襲ったのは、2009年のことだった。荒川さんがまだ50歳の若さで急逝してしまうのだ。死因は膵臓がんだった。

これにより、新たなプラットフォーム構築の事業は頓挫してしまうのだから、返す返す惜しい人物を失ったものである。果たして、もし荒川さんが健在で、この事業が理想的に進んでいたら、現在のスマホシーンはどう変わっていたのだろうか。残念でならない。

ちなみに、2012年にアクセス・パブリッシングから『東京カレンダー』を引き継いだフューチャー・グループ(※その持株会社であるフューチャーインベストメント株式会社が、東京カレンダー株式会社の主要株主)もまた、日本のデジタルシーンにとって重大な功績を残しているので触れておきたい。

創業者の金丸恭文さんはMicrosoftの創業時、アルバカーキ時代からビル・ゲイツとの親交も厚く、日本のIT業界の黎明期から現在まで歴史を創ってきた方である。

時代は前後するが、フューチャー株式会社は1985年、大手コンビニチェーンと組んで、一大ネットワークを構築している。具体的にはセブンイレブン3000店舗をISDN回線でつないでPOSシステムを開発。レジ入力時にカスタマー情報(年齢、性別など)を登録することで、かつてないデジタルマーケティングを実現したのだ。

この仕組みにより、どの年代に何が売れ、どの時期に何が売れるのか、それまで以上に秘密なデータがとれるようになった。たとえば競技場やスタジアムに近い店舗では、雨天の日にサンドイッチとおにぎりのどちらが多く売れるか、などといった実利的なデータが蓄積されていくのだから、在庫管理上のメリットは計り知れない。

また、データの可視化によって立てられる店舗側の戦略も面白く、人気漫画雑誌の発売日には、それを立ち読みに来る子どもたちを狙って、100円未満の菓子類を多めに配置したり、女性層は牛乳とパンティストッキングを一緒に購入する割合が高いことから、両製品を同じ導線上に並べたりと、さまざまな知恵が絞られたものだ。

こうした取り組みにより、競合チェーンと比べてセブンイレブンは他のコンビニと比べて、フロア面積あたりの売上が40%近くも向上したというから、まさしく効果は絶大。いまでは当たり前のことだが、まだまだPOS端末による在庫や販売管理が物珍しかった当時、これが大いに話題となった。日本全国におけるISDN普及の原動力を演じた。

話題の新端末「Sidekick」の残念な顛末

堀江貴文(ホリエモン)さんの「WAGYUMAFIA(和牛マフィア)」によるパーティ会場にて

ところで、前回も少し触れているが、黎明期のモデルとしては、2002年に米Danger社がリリースした「Sidekick」という端末も興味深い。日本でも大人気を博したドラマ『24 -TWENTY FOUR-』の中で、主人公のジャック・バウアーがこの端末を当たり前のように使い、新しもの好きのパリス・ヒルトンが愛用していたことでもよく知られている。

BlackBerryよりも安く、コンパクトで丸みを帯びた独特のデザインから、北米の若年層に支持されたこのSidekick。テキスト・メールの送受信と図版の貼り込みが中心で、音声通話やウェブへのアクセス(ブラウズ)、チャット、PIM機能、ゲームは限定的な機能であった。General Magicに関わりを持った元Appleや元SONYの社員が参画し、今日のスマホの元祖的存在と言っていい。

数十万人規模のユーザーを擁したSidekickだが、最終的には会社ごとマイクロソフトに買収されている。ところが、ここでマイクロソフトは考えられない凡ミスをやらかしている。

Sidekickではテキストの送受信のサーバー環境にSUNマイクロのUNIXを必要とし、情報管理にオラクルのDBシステムをそれぞれ採用していた。SUNマイクロもオラクルも、当時のマイクロソフトにとって直接的な競合企業であり、それがなければサービスが提供出来ないという事態に当時のバルマー社長は気づかず4000億円規模でM&Aしてしまった、経営戦略上の大問題だった。

WebTVも同様で同じ開発者から、2度も同じ失敗を繰り返して、結局サービスを停止、ライフラインとして使っていたユーザーを切り捨てるという暴挙に出た。後にWindows MobileやMicrosoft TVなどが出る前に存在していた市場を潰して刈り取っておくというバルマー社長の横暴策だったのかもしれない。

結局、Sidekickをうまく運用できなくなってしまったことからも、これは多くのユーザーの失望を買う残念な選択だったと言わざるを得ない。

なお、Sidekickを開発したDangerの創業者が、前回記事の最後に登場したアンディ・ルービンであり、マイクロソフトにDangerとWebTVをそれぞれ4000億円規模で売却した資金を元に設立したのがAndroid社だ。黎明期らしい混沌ぶりだが、当時の開発の第一線は、このように人材も利権もアイデアも入り乱れていたわけだ。


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