BUSINESS | 2021/04/16

「人権か中国市場か」ウイグル問題に揺れるユニクロやアシックスはどんな態度で臨むべきか

【連載】あたらしい意識高い系をはじめよう(16)

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中国の人権問題が世界的にクローズアップされ、米中冷戦も激しさを増す中で、日本国、および日本企業はどういう態度でこれに臨めばいいのでしょうか?

私は、これを単なる受け身の問題として捉えずに、日本という国の存在価値を大きく国際社会にねじ込んでいくチャンスとして捉えたいと思っています。

今回の記事では、アジアと欧米の間で生きてきた日本にこそできる、私たちにしかできない貢献の道について考えてみます。

倉本圭造

経営コンサルタント・経済思想家

1978年神戸市生まれ。兵庫県立神戸高校、京都大学経済学部卒業後、マッキンゼー入社。国内大企業や日本政府、国際的外資企業等のプロジェクトにおいて「グローバリズム的思考法」と「日本社会の現実」との大きな矛盾に直面することで、両者を相乗効果的関係に持ち込む『新しい経済思想』の必要性を痛感、その探求を単身スタートさせる。まずは「今を生きる日本人の全体像」を過不足なく体験として知るため、いわゆる「ブラック企業」や肉体労働現場、時にはカルト宗教団体やホストクラブにまで潜入して働くフィールドワークを実行後、船井総研を経て独立。企業単位のコンサルティングプロジェクトのかたわら、「個人の人生戦略コンサルティング」の中で、当初は誰もに不可能と言われたエコ系技術新事業創成や、ニートの社会再参加、元小学校教員がはじめた塾がキャンセル待ちが続出する大盛況となるなど、幅広い「個人の奥底からの変革」を支援。アマゾンKDPより「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」、星海社新書より『21世紀の薩長同盟を結べ』、晶文社より『日本がアメリカに勝つ方法』発売中。

1:世界中の企業が「踏み絵」を迫られている

H&Mは微博で「これまでどおり中国の消費者を尊重する、いかなる政治的立場も取らない」といった趣旨のコメントを投稿した

中国の(特に新疆ウイグル自治区における)人権問題について、日本企業が「踏み絵」的に難しい決断を迫られる場面が増えてきています。

最近話題になった中でも、

・アシックス社の中国現地法人が、中国のSNS微博において、「新疆ウイグル産の綿花の購入を継続する」と表明しただけでなく、“台湾は中国の一部分とする「一つの中国原則を堅持」し、「中国の主権と領土を断固として守り、中国に対する一切の中傷やデマに反対する」”とまで言った件が中国国外において大きな批判にさらされ、後に削除された。

・ユニクロ(ファーストリテイリング)の柳井正会長兼社長が、新疆ウイグル産の綿花の使用について「人権問題というよりも政治問題であり、われわれは常に政治的に中立だ」としてコメントを控えた件に関して批判が集まった。

・無印良品も新疆ウイグル産綿花の取引継続を表明。「国際機関が発行するガイダンスにのっとり独立した監査機関に調査を依頼し、サプライチェーンに重大な問題点はなかった」とリリースを読み上げる形で販売継続は妥当であることを強調した件が批判されている。

…といった例がありました。

実際のところ、こういう問題は欧米企業でも同じで、H&Mは欧米においては高まる批判の声に応えて「懸念を表明」したりはするけれども、中国の現地法人は「これまでどおり中国の消費者を尊重する、いかなる政治的立場も取らない」とユニクロと変わらないようなコメントを微博に投稿していたりします。

結局世界中どこのアパレルメーカーも、巨大な中国市場を失いたくないし、一方で高まる人権関連の懸念にも応える必要があるし、という板挟み状態にあるわけですね。

中でもナイキなどのいくつかのアパレルメーカーは「新疆ウイグル産綿花の使用中止」に踏み込みましたが、案の定中国では強烈な不買運動が行われているようです。

折しも15日夜から菅首相は日米首脳会談に向けて渡米しており、ロイターの記事「日米首脳会談、台湾巡り結束示す公算 共同声明で合意へ=米高官」によると、米国は日本と共同声明で「台湾を支持する」表明を求めてくる見通しだそうで、政治的に「米・日VS中国」といった図式が激化することは避けられません。

この難しい国際状況の中で、日本および日本企業はどういう振る舞いをしていくべきでしょうか?

2:「どっちについたらトク」じゃない“誠意ある道”を

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この話になると、ついつい「どっちについたらトクなのか」という話になってしまいがちですよね。

「中国市場でボイコットされないようにする」方がトクなのか?それとも「人権に配慮している態度を見せることで欧米における評判を取る」方がトクなのか?

人権問題を「トクかどうか」で天秤にかけること自体がどうなのかというところはあるものの、少なくともそういう「どっちがトクか」で行動する存在が、信頼や敬意を得ることは難しいでしょう。そういうのってどこか透けて見えるものですからね。

では、この難しい状況の中で、日本企業および日本国が取っていくべき態度とはどういうものでしょうか?

まずは「新疆ウイグル自治区で起きていることを、欧米側の視点だけでも中国側の視点だけでもないかたちでちゃんと調べていく」ことだと私は考えています。

「こいつは悪だ」と決めてかかった時の「欧米メディア」の報道がときに物凄く一面的で偏見に満ちたものになりえるか…ということは、「イラクに大量破壊兵器がある」というレベルの大問題から日常レベルの話まで、欧米内の現象を扱った記事であればあまり出ない、あるいはすぐさま反論が飛び出すであろうレベルのザツな取材や曲解が珍しくないことを、「非欧米」の日本人なら多少なりとも悔しい思いをして知っているはずです。

一方で日本においては、ここ最近目についたものだけでも、

毎日新聞の米村耕一氏の記事「「刑務所」は実在した。新疆で考えたウイグル問題」

東京大学の丸川知雄氏によるニューズウィークの記事「新疆の綿花畑では本当に「強制労働」が行われているのか?」

など、独自取材・考察に基づく「中国で何が起きているのか」に関する論考がチラホラ出てきています。

彼らの記事を読むと、

中国側のプロパガンダにあるようなバラ色の新疆ウイグルはさすがにウソ

だが、一方で

欧米メディアが「糾弾モード」に入った時にアレもコレもと報道されるネタには証拠が詰めきれず憶測の域を出ないものも多い

ことがわかります。

欧米世界が今まさに中国を「許されざる敵」認定して、一気に叩きに走ってるんだから何も考えずに尻馬に乗って批判しておきゃいいんだよ!と思う人もいるかもしれませんが、そういう態度で中国側が納得するわけがありませんよね。

世界のGDPに占める欧米の割合が年々減り続ける21世紀には、“欧米”というのは世界人口の10%強しかいない狭い世界なのだという事実と向き合う必要がある世界でもあります。

本当に中国に態度を改めさせたいからこそ、「批判の内容」に曲解や虚偽が含まれていないかを真剣に精査する必要がある。

そういう役割を担っていくことこそが、「どっちについたらトク」とかではない本当の誠意の道であるはずです。

3:中国人や「中国シンパシーを持つ世界中の人」も納得できる姿勢を示さねば禍根が残る

この連載でも何回も書いていることですが、ある「世界街角インタビュー」的なYouTube動画を見ていたら、若いタイ人の大学生が流暢な英語で、

「アメリカみたいな民主制がいいのか、中国みたいなシステムがいいのか、どちらにも長所と短所があるのでそれぞれの国が自分たちの実情や発展段階に応じて選ぶことが大事ですね」

と、まるでスマホをiPhoneにするかAndroidにするか…みたいな気軽な調子で話していたのが衝撃的でした。

「日本語が話せる中国人」のSNSの発言を見ていても、日本のアニメなどが好きで日常的な会話においては非常に現代的なセンスを持っているように見える若い人でも、こういう話題に関しては「欧米的なやり方に対する無条件の尊重心」のようなものは全然ない世代が増えてきています。

「欧米メディアの一方的な報道」に相乗りする格好でただ批判するだけだと、こういう世界中の「中国にシンパシーを持った人たち(あるいは欧米の高圧的な態度に嫌悪感を持っている人たち)」まで全部中国側に回ってしまう危険性があるわけですよね。

しかし、先程の毎日新聞の米村氏や東大の丸川氏の記事のような内容を丁寧に話していくなら、納得する人はかなり出てくるように思います。

もちろん、「中国政府のプロパガンダ以外を全く受け付けない層」も当然いるでしょうし、そういう人たちには何を言っても無駄でしょうが、

「当然中国政府の言ってることだって脚色があるだろう」

と考えるのはむしろ中国文化における基本的人生観といってもいいぐらいなので、「“どっちについたらトク”とかでない誠意」によってちゃんと

「欧米メディアのプロパガンダにはそのまま乗れなくても、実際問題“ココ”はさすがに改善するべきでしょう」

という軸に「アジア人同士のナマの共感」を引き寄せていけるかどうか。

東大・丸川氏の記事によれば、「北疆」と「南疆」地区を分けると、「北疆」地区では綿花生産の機械化が進んでおり、強制労働があるとすれば「南疆」地区であるはずだそうです。

「欧米メディアのプロパガンダとは違う路線」で、上から目線でなく地に足ついた分析と改善提案をしていけば、いざ「やる」となったら強烈に推進できる中国政府の豪腕を持ってすれば、「北疆地区でできていることを南疆で実現する」ことも可能なのではないでしょうか。

4:日本は「ヤンキーの気持ちがわかる優等生」の道を進むべき

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とはいえ一方で、欧米と協調して中国政府の強権的姿勢に「NO」と言う態度を、日本国全体としては示していくことも重要だと私は考えています。

今回の菅首相の訪米でも、ちゃんと協調してインド太平洋地域への中国の軍事圧力を非難する声明を出しておくべきです。

なぜかというと、もしそういう面まで日本が中国サイドに立ってしまうと、米中冷戦時代の人類社会が完全に「アジアVS欧米」にスッパリ分断されてしまい、どちらも一歩も引けない構造にまっしぐら…ということになってしまうからです。

幸いにも日本には強固な日米同盟があり米軍基地もあるので、完全に日本が「中国サイド」に立つことはありえないでしょうが、そのことは折に触れてしっかりと明確化しておくべきです。

軍事衝突を実際に起こさないようにするには、「紛争を仕掛ける側」が「簡単にやっちゃえるんじゃないか」という予想を簡単には建てられないように拮抗させておく必要があります。

インド太平洋地域に果てしなく軍事圧力を加えようとする中国の姿勢にちゃんと「NO」を言っていく部分においては、欧米、特にアメリカとの協調で一切の曖昧さを残さないようにしておかないと、中国側に「あれ?これやっちゃえるんじゃない?」という感覚を持たせてしまう可能性がある。

それによって突発的に「実際の紛争」が起きればあらゆる人が不幸になるでしょう。

日米同盟をはじめとする国際協調に基づいて中国の軍事的膨張への圧力を明確に確認し、ちゃんと「拮抗状態を維持する」ということは、強烈な国家的膨張のエネルギーを自分たちでコントロールできずに、全方位的に恫喝外交をしまくることで敵ばかり増やすことになってしまっている中国人のためにもなるはずです。

つまり、

・「NOと言うべき部分」においてちゃんとNOと言っておくこと

・欧米メディアのプロパガンダからは距離を置いてちゃんと事実を精査すること。そしてアジア人同士の共感関係を利用して中国に改善を促していくこと

この「両方」をやっていくことが、米中冷戦を本当に「火を吹く戦争」にしないためにも日本に求められていること…ということになるでしょう。

ここでも、「どっちについたらトクか」ではなく、ちゃんと「本当の誠実さ」を持って事にあたっていくことが重要です。

日本が果たすべきこういう役割について、私は2014年に出した著書『「アメリカの時代」の終焉に生まれ変わる日本』の中で「ヤンキーの気持ちがわかる優等生」の道と表現しました。

先生が高圧的に上から糾弾するだけでは、余計に「ムカつくからその逆をやってやる!」という方向にヤンキーさんを追い込むことになります。

一方で優等生がヤンキーさんと一緒になってタバコを吸ったり学校の窓ガラスを割りまくったりしはじめたら秩序も何もあったものじゃありません。

「気持ち」の面でちゃんとヤンキーさんと繋がり続け、そして先生の批判が一方的で理不尽だと感じる時にはちゃんとそれを制止する役割を担う。一方でちゃんと「優等生」ではあり続ける…そういう存在をこそ、人類社会は必要としているはずです。

5:「問題解決のためでなく、自分がカッコつけるために誰かを糾弾する」悪癖を克服しよう

そろそろ長くなってきたので簡単に述べますが、昨今、特に欧米において、

「問題解決のためでなく、自分がカッコつけるために誰かを“絶対悪”扱いして声高に糾弾してみせる」

ような態度が持て囃されているのは、問題解決を余計に難しくしている悪習であると私は考えています。

そういう態度で「糾弾することが自己目的化したムーブメント」が大きくなりすぎると、「グローバルで見たそれぞれのローカル社会」や、欧米社会の中でも「その社会の保守派グループ」との間での現実的で難しい交渉をする必要性を皆が軽視しはじめるからです。

結果として、欧米社会の中のほんの一部の上澄み部分の内側においてものすごく精密で細かい「正しいマナー」が普及していく一方で、結局人類全体の90%を占める非欧米社会はもちろん、そもそも欧米社会内においても上澄みの特権階級の部分以外に普及しないどころか少なくない反発を受ける現状があるのです。

数日前に日本語訳が出たマイケル・サンデル(ベストセラーの“白熱教室”で有名な人ですね)の新刊『能力主義は正義か?』を読むと、恵まれた知的なエリート階級が、自分たち以外の労働者を無意識に見下した態度を取っていることが、トランプ・ムーブメントのようなバックラッシュの根本原因にあることを直視するべきだ…という趣旨の分析がこれでもかと展開されていました。

たとえば最近日本で話題になった車椅子のバリアフリー問題でも、「当事者が気を使わずにバリアフリーを利用できる環境」をちゃんと広めるためにこそ、「当事者が声を上げること」を尊重するのはもちろん重要ですが、それに相乗りして「現場の労働を誰がどのような構造のもとで担っているのか」に触れる人を否定する「知識人」がたくさんいることが、社会全体にバリアフリーを通用させていくために良いことなのか、真剣に問い直されるべき時だと思っています。

そういう態度は、「欧米社会(にアイデンティティを同化した存在)がそれ以外の社会を無意識に蔑視する感情」が含まれているのではないでしょうか?

「障害者はわきまえて隅っこで生きるべき」みたいなことを考えている人は多くありません。しかし、日本社会が培ってきた人間関係や社会構築のモードやマナーの、結果的に良い作用をしていた側面まで全否定するような言説を発すればするほど、結果として「多くの普通の人」を「逆側」に押し出してしまうわけです。

「バリアフリーの理想」が、障害者があちこちでペコペコしてなくても普通にしたいことができる社会であるとするなら、「当事者以外」の言説はちゃんと「それぞれの社会の国民性や伝統」とどうやったら調和できるか真剣に考えるべきでしょう。

どうすれば「欧米社会以外の社会の伝統」と「バリアフリーという理想」が調和するのか、両者に対等な敬意を払った上で考えていくべきで、「欧米ではこうなのに日本は遅れてるよねー!」的なオシャベリをしまくることで「社会の協力」が得られると思う発想の中に、欧米社会のシェアが果てしなく低下し続ける21世紀には捨て去るべき文化帝国主義的な感情が潜んでいると私は考えています。

この「バリアフリー思想と日本社会との調和」の課題については、社会運動について研究する社会学者の富永京子氏(立命館大学)の著書、『みんなのわがまま入門』の書評という形で詳細にまとめたnote記事を書いたので、そちらをお読みいただければと思います。

結局、「特権的なインテリエリートサークル」の内側の論理を、その外側にまで広めていくにあたって、「遅れているダメな人たち」という目線が隠しきれず、現地現物の事情に敬意を払ってすり合わせる地道な試みをバカにし続けるからこそ、結局“欧米的理想”は人類の上澄み10%の外側には決して普及せずにいるのではないでしょうか。

それは単に「欧米人以外は人権思想が理解できない野蛮人」だからでしょうか?そうではなく、「ローカル社会の運営上の事情やそれぞれの伝統」への配慮がない上から目線のゴリ押ししか存在しないことを反省するべきなのではないでしょうか?

欧米的理想をそれ以外の社会にまで敷衍していくにあたって、「現地のローカル事情」へ事細かに配慮しようと努力する人まで一緒くたに敵認定し糾弾してしまう拙速さが、結局21世紀においては抜き差しならない米中冷戦のかたちとなっているわけです。

その状況の中で日本が取るべき役割は、欧米社会が作り出す「絶対善VS絶対悪」的なイデオロギーを徹底的に相対化し、現地社会の事情をちゃんと事細かに読み取りながら、優しい社会を「人類の中のできるだけ多くの人」に向けて作っていくビジョンを実現していくことです。

以下の図のように…

以前この連載で書きましたが、日本という国は頭で考えた概念的枠組みだけを果てしなく推し進めて行くようなことは苦手なので、過去20年の「グローバリズム全盛期」には後手後手に回ってきました。

しかし、20世紀の米ソ冷戦時代に、「資本主義と共産主義」という全く相反するイデオロギーがぶつかり合う中で、その「イデオロギーにごまかされない実質主義」で着々と自分の道を歩むことで圧倒的な繁栄を引き寄せることができました。

当時の日本は「最も成功した社会主義国」などと揶揄されたりしましたが、それは「イデオロギーの純粋性」が頓挫する世界において「結局の現地現物」だけを見る我々の特性の強みを表したものだったと言えるでしょう。

米中冷戦が世界を二分するようになり、単純なイデオロギーを無理やり推し進めるだけの方向性が「拮抗する力」とぶつかって頓挫し始めるこれからの時代は、20世紀の日本が体験したような「ボーナスステージ」を再び引き寄せることも可能だと私は考えています。

「世界の逆側の誰か」に全ての責任をおっ被せて糾弾するナルシシズムが横行する時代に、本当の「実質」を目掛けて常に動いていくことで、自分たちが長い歴史の中で培ってきたオリジナリティを現代世界の中で明確に打ち立てていくことができるでしょう。

ヤンキーっぽい用語に「ハバを利かす」っていう言葉がありますが、今の時代、「全部敵のせいにしてナルシスティックに騒ぐ」ようなしょうもないヤカラどもがハバを利かし過ぎだと思います。

米中冷戦のガチンコのぶつかり合いの中で、私たち日本人が考える「本当の理想はこうだ」というビジョンを妥協なく押し出していって、我々こそが堂々と「ハバを利かし」て行ってやりましょう。

そこには、20世紀の日本が経験したような、2つのイデオロギーのハザマにある特殊な実質主義のボーナスステージが、用意されているはずです。

私たちならできますよ。

もっと踏み込んだ形で、「果てしなく他人を糾弾し続けるムーブメント」を超える、「ニンテンドー型の包摂ビジョン」こそが日本が提示する理想なのだ・・・というnote記事も書いたのでこちらも合わせてお読みいただければと思います。

今回記事はここまでです。

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