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- 2020.12.04
賛否両論ナイキCM「反対派は差別主義者」で片付けていいのか。思想が違う人を「ヒトラーだ!」と悪魔扱いするのはもう止めよう【連載】あたらしい意識高い系をはじめよう(9)
4:このCMに怒る層が「日本」に対して思い入れているもの
日本という国は「みんないっしょ」を目指したい国です。一方でそういう風潮が重いと思ったことがある人も多いでしょう。
しかし「日本という単位」がちゃんと尊重されているから、アメリカでは完全に分離してしまってスラム化してしまうような地域でも「まあ日本だしこれぐらいはね」という秩序がギリギリ保たれている。
たとえ離島や山間部のような辺境の地でも、「日本の初等ー中等教育ならば“みんないっしょ”にこれぐらいはできなければ」という情熱を関係者が持っているので、アメリカで起きているような「住んでいる学区ごとに絶望的な格差が生まれる」ような事態にはなっていない。中等教育までのクオリティに対して国際的評価も高い。
もちろん、こういうのはグローバル資本主義の荒波に揉まれて崩壊寸前ですし、こういう「みんないっしょ」傾向が強すぎるあまり「エリートを育てる」という課題がおろそかになってしまっている面もあるでしょう。
でももし「変化」が必要だとして、この「みんないっしょ」感を最後まで保持しようと頑張る人たちの意志はすごく大事なことですよね?
ナイキのCMみたいな志向がこういう「みんないっしょ」感を果てしなく引きちぎろうとする時、そういう志向への「警戒感」が出てくることは当然ではないでしょうか?
つまり、この「ナイキCMへの警戒感」こそが、アメリカのように公立学区ごとの格差があまりにも大きすぎて「生まれ育ちだけで格差が完全に固定化されてしまっている」状況にしないための土俵際でなんとか耐えている良識の源泉でもあるからです。
そうやって維持している「みんな」感を大きく育てていって、黒人の親を持っていた肌の黒い生徒も、在日コリアンの生徒も、LGBTの生徒も、学習障害的な課題を抱えている生徒も、スポーツが苦手な生徒も、“陰キャ”の生徒も、メチャクチャ勉強ができるために周囲から浮いてしまう生徒も…それぞれなりの居場所がちゃんと見つかるように、包摂されるように持っていきましょう、というのが、果てしなく二極分化して憎悪し合う状況になってしまった「アメリカ」を反面教師として今我々が高く掲げるべき理想ではないでしょうか?
こういうCMに熱中する都会の恵まれたインテリ階層は、お手軽に「古い社会を糾弾」できる「アイデンティティ」の問題だけに熱中して、自分自身も批判され痛みを負う必要があるような社会の構造的課題にしっかり向き合うことから逃げ続けているのだ…という「アイデンティティポリティクス批判」というのは世界各国で常に問題になっています。
そういう「世界共通の今の病理」にこそ、私たち日本人が大事にしてきたメッセージで応えていくべきタイミングなのではないでしょうか?
5:「アメリカの時代の終わり」に求められる、「第二波グローバリズム」のあり方
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最近フランスでは、イスラム文化などとの多文化共生にあたって、大雑把に言えば
「もちろんマイノリティへの配慮は必要だが、イスラム系移民の側にも“フランス文化”の基礎的な部分には馴染む努力はしてもらいます」
という、こう書くと当たり前の「お互い様」の姿勢を取り入れる政策が、国民の広い範囲の賛同を得て実現していっています。こういう政策は欧州で徐々に広がっていく見通しです。
マイノリティへの寛容さ、そういう人たちも生きやすい社会にしていくことは大事なことです。
しかし、その社会が脈々と大事にしてきた価値観を徹底的に「足蹴に」することを許すことが、「マイノリティへの寛容さ」であるという時代は世界的に終わりつつあります。
私は過去30年の、いわば「第一波グローバリズム」における、「あくまで非妥協的に“個”だけを見る」姿勢が果てしなく称揚されていたのは、それは「アメリカ一強の時代」であったからだと考えています。
大事なポイントは、「アメリカにおいては、そうやって“個だけ”を非妥協的に追求すること自体が“アメリカン・ウェイ”として共有されるものだから」という構造があることです。
だからアメリカでそういうやり方をやるのはいい。ナイキ社のCMも、アメリカの中だけでやる分には「ギリギリ」成立しているのは、アメリカでそういうふうにやることは、「私たちが共有するもの」を確認し合う行為でもあるからです。
しかし、日本には日本の、フランスにはフランスの、「社会と個人をお互い調和させるためのやり方」がある。
それを崩壊させるようなことをすれば、その社会の本能的危機感ゆえに、余計にその「マイノリティ」への感情的反発を刺激して、どこかで暴発的な攻撃をする人間が出てくるのを止めることはできなくなってしまいます。
世界においてアメリカの、そして欧米諸国が占めているGDPの割合がどんどん減っていく時代においては、単に「欧米的理想をローカル社会に無理やり守らせる」のではなくて、「ローカル社会の価値観といかに調和して取り入れてもらえるか」をもっと真剣に考えることが必要な時代が来ているわけです。
私は「ローカル社会をなぎ倒して無理やり新しい価値観に順応させる」タイプを「第一波グローバリズム」と呼び、そして今後来るべき「ローカル社会の価値観とグローバルな潮流をいかに調和させるか」を考える時代を「第二波グローバリズム」と呼んでいます。
「第一波」の時代にはナイキ社のCMに賛同しないタイプの人間を思うぞんぶん罵倒・嘲笑しまくることが「勝ちすじ」だったかもしれませんが、時代はそろそろ「反転」しはじめるでしょう。
いや、「自分と逆側にいる考えの人たちを果てしなく罵倒しまくるのが政治的に正しいこと」だと考えるような風潮が、あらゆる民主主義国家において「両極分断化」を生み出し、もうマトモな政権運営をするには中国みたいな強権主義でやるしかないんじゃないか…とすら思えてきてしまう時代には。
それでもあくまで民主主義の可能性を守りたいならば、むしろ、私たち日本人こそが、ナイキ社のようなやり方は、決して100%褒められたようなものではないのだ…というメッセージをしっかり発していく使命があるとすら言えるでしょう。
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