加速する技術革新を背景に、テクノロジー/カルチャー/ビジネスの垣根を越え、イノベーションへの道を模索する新時代の才能たち。これまでの常識を打ち破る一発逆転アイデアから、壮大なる社会変革の提言まで。彼らは何故リスクを冒してまで、前例のないゲームチェンジに挑むのか。進化の大爆発のごとく多様なビジョンを開花させ、時代の先端へと躍り出た“異能なる星々”にファインダーを定め、その息吹と人間像を伝える連載インタビュー。
2001年、一人の日本人が、世界初の“宇宙ロケCM”を実現させた。クリエイティブディレクター・高松聡。ロシアから、ISS(国際宇宙ステーション)上の宇宙飛行士に指示を出しながらの撮影だった。
その14年後、彼は再びロシア「星の街」にいた。今度は自らがISS滞在を目指すべく、宇宙飛行士になる訓練をするために。8カ月に及ぶ訓練生活。しかし、運命は残酷だった。すべての訓練を終了したものの、彼は宇宙飛行士にはなれなかった。
あれから5年。沈黙の歳月を破り、訓練時に撮影した写真が公開される。しかもこの展覧会は、新たな計画への序章だという。果たして、何が語られるのか? 会場を巡るギャラリーツアーと単独インタビューの言葉を織り交ぜて、その壮大なるビジョンを解き明かす。
聞き手・文:深沢慶太
高松聡(たかまつ・さとし)
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1963年、栃木県生まれ。筑波大学基礎工学類を卒業後、株式会社電通の営業局へ。2001年、クリエイティブ局へ転身。05年、クリエイティブエージェンシーGROUNDを設立し、代表取締役兼クリエイティブディレクターとして数多くのブランドを担当。カンヌ広告祭など国際広告賞で数多くのグランプリや金賞を受賞し、審査員、審査委員長を歴任。14年、広告界から引退を宣言し、翌年には日本の民間人として初のISS(国際宇宙ステーション)搭乗資格を持つ宇宙飛行士となるべく、ロシア「星の街」で8カ月に及ぶ訓練を終了。現在は写真家・アーティストとして活動する。
30年越しの“諦めた夢”ーー宇宙飛行士訓練へ
(撮影:織田桂子)
―― 高松さんは2001年に世界初の宇宙ロケCMを実現するなど、日本を代表するクリエイティブディレクターとして活躍しながら、15年にロシアへ渡り、宇宙飛行士訓練を受けることを宣言されました。そもそもなぜ、宇宙へ行こうと決意されたのでしょう?
高松:僕にとって宇宙飛行士になることは、6歳の頃からの夢でした。1969年、アポロ11号で人類が月面への第一歩を刻んだ瞬間をテレビ中継で目にした時、背中に電気が走るような衝撃を覚えたんです。それからずっと「宇宙へ行くんだ」と思い続け、大学はNASDA(宇宙開発事業団/現・JAXA 宇宙航空研究開発機構)の隣りにある筑波大学で応用物理学を専攻。研究テーマも「宇宙空間における半導体の劣化機構の研究」でしたね。そして22歳の時、初の日本人宇宙飛行士の募集が行われたんですが……「裸眼視力1.0以上」という応募条件を見て、泣く泣く夢を諦めました。ちなみに、その時の募集でスペースシャトルに搭乗したのが毛利衛さんです。
宇宙飛行士訓練中に「星の街」で撮影された写真より。
―― その後は電通へ入社されていますが、宇宙への夢を一旦は諦めたわけですね。
高松:はい。電通には、単に「バリバリ働けそう」というイメージで入りました。ところが、営業の仕事をしながらクリエイティブに携わるうち、新聞で「ISS(国際宇宙ステーション)の民間利用アイデア公募」という記事を目にしたんです。そこで書き上げた宇宙CMの企画書が選考を通過し、晴れてクリエイティブ局へ異動して企画に携わることになりました。38歳の時のことです。ロシア連邦宇宙庁(ロスコスモス)との交渉も含め、前例もなく苦労の連続でしたが、2001年に世界初の宇宙ロケによる大塚製薬ポカリスエットのCM「GOES TO SPACE」が実現しました。その後も日清カップヌードル「NO BORDER宇宙編」と、計3本の宇宙ロケCMを手がけて、「これで死んでもいいかな」と思いましたね。
でもその後、まったく予想外なことに「宇宙飛行士訓練を受けないか」という話が来たんです。すでに50歳を過ぎており、自分で設立したクリエイティブエージェンシーGROUNDの事業も軌道に乗っていた。考え抜いた挙げ句、広告業界からの引退を宣言して会社を畳み、ロシアへ渡ることを決意しました。
2014年夏、星の街にて、宇宙飛行士訓練の適性を調べるメディカルチェック受診時の様子。